著者
安永 信二
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-19, 2013 (Released:2017-06-30)

前424年、喜劇詩人アリストファネスは『雲』の中で、市民たちを前に「暦が月齢に合ってない」と月の不満をこぼさせた。この一節と前5世紀終わりのアテナイの暦をめぐって、これまでMerittとPritchettをはじめ多くの研究者たちが当時の暦について議論してきたが、説得的と思われる論はまだ出されていない。そこで本論は、これまで議論の根拠とされてきた碑文史料と文献史料を再検討することとした。 当時、暦は1年を10に分けたプリュタネイア暦(評議会暦)と、月齢に即した祭祀暦の2つがあり、始まりも終わりも同じ日になることはなかった。これまで研究者は、どちらかが規則性を持っているが、もう一つは不規則だったために「月の不満」になったと考えてきた。しかし、IG i3 369、i3 377などの碑文を再検討することにより両暦ともに一定の規則性を持っていた可能性があることを発見したのである。しかしこの規則性は前5世紀終わりを通して続いたものではなく、少なくとも1回は改訂されていた。改訂後も一定の規則性を有しており、これが研究者を悩ましてきた問題ではないかと思われる。
著者
森野 正弘
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-13, 2015

『源氏物語』松風巻には、光源氏が大堰で暮らす明石の君のもとを訪問する条がある。その出発に際し、京で待つことになる紫の上は、今回の旅行が「斧の柄が朽ちる」ほど長い期間になるであろうと、漢籍に見える「爛柯」の故事を引用して皮肉を述べる。この故事は、異郷を訪れた者が束の間の経験をして現実世界へ戻ってみると、世代が替わるほど長い時間が経過していたというもので、異郷での時間がゆっくり進む話として捉えることができる。従来はこの引用について、典拠の指摘や紫の上の発言の解釈など、局所的な問題として論議される傾向にあった。これに対して本稿では、この故事の引用が光源氏の旅行の最終日にも認められる点に着目し、旅行全体が「斧の柄の朽ちる」時間として形象されている可能性について考察を展開することになる。 旅行中に描かれてくる人物たちの動向を観察してみると、光源氏をはじめとして、明石の君、頭中将、なにがしの朝臣といった人々がみな一様に失速している様子をうかがうことができる。加えて、「二三日」の予定であった旅行の日程は四日間に延長し、京にいる帝や紫の上を待たせる結果となる。光源氏は「爛柯」の故事さながらに、異郷で間延びした時間を過ごし、京という現実世界へ戻ってくるのである。「爛柯」の故事引用は、単なる修辞的次元に止まらず、そこに展開される異郷訪問譚の構造や時間の歪みをも組み込む契機として機能していると言える。
著者
仁平 千香子
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.9-22, 2018

現代において「豊かな生活」というのは「忙しい生活」を意味することが多い。忙しいことは、労働による収入をもとに、消費活動を通して余暇を楽しむ生活への近道とされるからである。そのような忙しい生活が当然のように正当化される時代に、忙しい主人公を描かないことで有名な村上春樹がなぜこれほど世界的人気を博したのかを考えるのが本稿の目的である。忙しさが当然となった社会の成り立ちを振り返ることで、主人公「僕」たちの時間の過ごし方の特異性が浮き彫りになり、またそこから村上の資本主義社会への視座が伺える。
著者
野村 直樹 橋元 淳一郎 明石 真
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.37-50, 2015

本稿は、時間を存在するもの、すでにあるものとしてではなく、むしろ作られていくもの、つまり、区切り、記述として見ていくことで、どのようにわれわれの時間概念が書き換わるかを説明しようとする。すべての時間が何らかの区切り(punctuation)をもとにするところから、区切るという行為やリズムから時間論を組み立てていく。区切る、リズムを刻む、記すという行為をとおして世界を秩序立てていくという意味で「物語としての時間」という呼び方をする。人間世界、生物の世界のみならず、物理的世界(例、振り子の同期)にも共通してある同期という現象に焦点を当てることで、新たな時間が立ち現れることを、マクタガートの時間論をベースに理論化していく。この時間世界を拡張していく主役は、E系列と呼ばれる時間であり、詩人やアーティスト、宗教家の直観として古来より語られてきたものではあるが、これを科学の枠組みの中に位置づけようとするのが本稿の目的である。相互作用し、同期するものが作る「生きた時間」という視点がもたらす広がりを説明したい。