著者
近森 高明
出版者
京都大学
雑誌
京都社会学年報 : KJS
巻号頁・発行日
vol.7, pp.193-208, 1999-12-25

This article deals with two epidemics, "shinkeisuijaku (neurasthenia)" and "noiroze (neuroses)", the former spread over Japan from early years of this century (c. 1905-1930s), and the latter after World War II (c. 1955-1980s). By focusing on the difference between two views of the apparently same disease, I attempt to demonstrate how the humanistic=psychological perspective, which prepared for "mental problems" of today, has prevailed among lay figures after World War II. Citing a lot of discourses concerning "shinkeisuijaku" and "noiroze", I try to show how the two diseases were understood by lay figures. "Shinkeisuijaku" was thought to result from the strain of nerves, caused by the high pressure of civilization. It attacked especially on "brain workers", and on men more than women. It was considered not as a mental process but a physiological process that caused such symptoms as headache, insomnia and depressing mental state. In contrast, "noiroze" was understood as a mental or psychological process, so that symptoms similar to "shinkeisuijaku" are considered to result from some kind of mental conflict. The cases of "noiroze" were described with such humanistic terms as "personality", "human relationships", "life history", etc. What distinguishes the view on "noiroze" can be called humanistic=psychological perspective, which prevailed with the epidemic of the disease. From this perspective, our sufferings are always interpreted as mental one. Today we notice people suffering from "mental problem" more than ever, which shows us how wide and deep the perspective has prevailed over us.
著者
近森 高明
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.108-120, 2005-05-28 (Released:2017-09-22)

ベンヤミンの「遊歩者(flâneur)」は、近年の都市研究に欠かせない人物形象となっているが、当初より、男性的「まなざし」の具現化ではないかとのフェミニズム的批判が寄せられていた。遊歩者の特別な対象として「娼婦」が呈示される点に、その批判はとくに集中する。だがベンヤミンは娼婦に出会う遊歩者を、特権的視線をもつ観察者ではなく、むしろ主体性が解体する一種の陶酔者と描いており、娼婦のほうも、経験的実存というよりアレゴリー的現象と考えている。それゆえ問われるべきは、娼婦の形象が喚起する主体の壊乱的作用に、いかなる理論的意義が見いだせるかという点である。こうした問題意識から本稿は、以下の三つの側面を含む論証により、ベンヤミンの娼婦論および遊歩者論のあらたな読解をめざす。第一に、娼婦のモティーフと「人形」の形象との重なりという、従来の解釈では見逃されてきた論点を中心に、「死を意味する生」というアレゴリーの謎をめぐるベンヤミンの潜在的な思考ラインを再構成する。第二に、性倒錯としてのフェティシズムやサディズムをめぐるベンヤミンの思考に焦点をあて、マルクス主義的な疎外論や物象化論による読解とは異なる、商品的存在の「死」の位相を照らしだす。第三に、従来では観察者としての面が強調されていた遊歩者について、娼婦の形象が露呈する「死」との関連より、主体の権能が失われた陶酔者としての側面を浮かびあがらせる。
著者
関根 康正 野村 雅一 松本 博之 小田 亮 松田 素二 小馬 徹 野村 雅一 小田 亮 松田 素二 小馬 徹 KLEINSCHMIDT Harald 松本 博之 棚橋 訓 鈴木 裕之 GILL Thomas P. 加藤 政洋 島村 一平 玉置 育子 近森 高明
出版者
日本女子大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

ストリートの人類学は、流動性を加速させるネオリベラリズムとトランスナショナリズムが進行する再帰的近代化の現代社会に資する人類学の対象と方法を探求したものである。現代の「管理社会」下ではホーム・イデオロギーを逸脱したストリート現象の場所は二重の隠蔽の下にあるので、画定しにくいがゆえにまずは正確な対象画定が重要になる。系譜学的にそれを掘り起こしたうえで、そのストリート現象についてシステム全体を勘案した体系的なエスノグラフィを書くことを試みた。この<周辺>を<境界>に読み替えるというネオリベラリズムを適切に脱却する人類学的な新地平を開拓した。
著者
近森 高明
出版者
京都大学文学部社会学研究室
雑誌
京都社会学年報
巻号頁・発行日
no.8, pp.81-96, 2000-12

This article deals with the animal anti-cruelty movement in Meiji era Japan. Since the first years of the era, some people noticed rampant cruelties towards working horses on the street. The movement to prevent such cruelties began in 1899 with an article which appeared in a popular magazine Taiyou (The Sun) by Tatsutaro Hiroi, a scholar of religion. Since then he eagerly engaged himself in joumalism to admonish and call on people to prevent cruelty to animals. Finally he founded the Society for the Prevention of Cruelty to Animals in 1902. What makes us curious is the fact that around the year 1900 a lot of other social problems occurred and drew public attention such as problems of poverty and suffering of factory laborers. We can describe the situation around the time as this: a (socially constructed) gaze which notices "pain and suffering of others" has spread among Japanese society. But then a question occurs to us. Why was the problem of animals raised at the same time as the problem of workers was raised? Usually people would think that problems concerning human beings have to be solved at first and only then the problem of animals, but why were the course of the facts not this way? The clue to answer this question is the social class to which those who joined in the animal anti-cruelty movement belonged: they were almost all from the upper class. A possible interpretation is as follows: on the one hand, the upper class people internalized the gaze directed to "pain and suffering of others" and noticed the problems of poverty and suffering of workers, but on the other hand, they couldn't make an overall reformation of the social structure because of their class interest. To solve this dilemma, the suffering animals on the street were focused on and the upper class people (unconsciously) tried to concentrate public attention on the problem of animals. The pain and suffering of animals were, as it were, discovered as a safe target of humanity.
著者
近森 高明
出版者
慶應義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 = Journal of law, politics and sociology (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.149-174, 2017-01

1 都市をめぐる批評的言説の現在2 オーセンティシティ論と本質主義の危うさ3 「つまらなさ」を引き受ける : コールハースとオジェ4 複製的なものとジェネリックなもの5 アウラとオーセンティシティ6 アウラへの両義的なまなざし : ズーキンの可能性7 時間軸の導入によるオーセンティシティの複数化8 時間軸の導入によるジェネリシティの複数化9 ジェネリシティとオーセンティシティの反転有末賢教授退職記念号
著者
近森 高明
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.4, pp.108-120, 2005-05-28

ベンヤミンの「遊歩者(flaneur)」は、近年の都市研究に欠かせない人物形象となっているが、当初より、男性的「まなざし」の具現化ではないかとのフェミニズム的批判が寄せられていた。遊歩者の特別な対象として「娼婦」が呈示される点に、その批判はとくに集中する。だがベンヤミンは娼婦に出会う遊歩者を、特権的視線をもつ観察者ではなく、むしろ主体性が解体する。一種の陶酔者と描いており、娼婦のほうも、経験的実存というよりアレゴリー的現象と考えている。それゆえ問われるべきは、娼婦の形象が喚起する主体の壊乱的作用に、いかなる理論的意義が見いだせるかという点である。こうした問題意識から本稿は、以下の三つの側面を含む論証により、ベンヤミンの娼婦論および遊歩者論のあらたな読解をめざす。第一に、娼婦のモティーフと「人形」の形象との重なりという、従来の解釈では見逃されてきた論点を中心に、「死を意味する生」というアレゴリーの謎をめぐるベンヤミンの潜在的な思考ラインを再構成する。第二に、性倒錯としてのフェティシズムやサディズムをめぐるベンヤミンの思考に焦点をあて、マルクス主義的な疎外論や物象化論による読解とは異なる、商品的存在の「死」の位相を照らしだす。第三に、従来では観察者としての面が強調されていた遊歩者について、娼婦の形象が露呈する「死」との関連より、主体の機能が失われた陶酔者としての側面を浮かびあがらせる。
著者
関根 康正 野村 雅一 小田 亮 鈴木 晋介 和崎 春日 近森 高明 北山 修 南 博文 Teasley Sarah Salzbrunn Monika 阿部 年晴 Gill Thomas 朝日 由実子 村松 彰子 西垣 有 内藤 順子 Subbiah Shanmugampillai 根本 達
出版者
関西学院大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

現代のネオリベラリズムに抗してストリート人類学を確立することが本研究の目的である。そのためにストリート・ウィズダムとローカリティの生成の実態把握を行った。研究成果のキーポイントは、中心からの徹底した一元化としての「ネオリベ的ストリート化」が作り出す敷居(ストリートエッジやローカルエッジ)での創発行動の解明にあり、そこでは「自己が他者化」するという動的過程が必ず見いだされ、それを「根源的ストリート化」と概念化した。エッジを不安定とともに生きている人々は現代人の生の本質を映す鏡である。その状況は「人が生きるとは何か」という哲学的究極の問いを現実的に問う。その探求にストリート人類学の存在意義がある。
著者
近森 高明
出版者
日本女子大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2007

本研究課題では、1920年代東京における地下鉄の導入過程について、テクノロジーに内在化される論理と都市の多重的リアリティとの接合という観点から考察した。(1)早川徳次の構想が高速鉄道網の策定と結びつく経緯、(2)路面電車の導入過程との比較、(3)デパートとの連携と地下鉄ストアの設立、という三点の検討をつうじて、統計的都市のリアリティに準拠する一連の知と想像力が地下鉄の構想と連接し、新たな都市的現実が生み出されてゆく動態を照らしだした。