著者
秋葉 剛史
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.12-29, 2016-03-31

Moral theories generally tell us the right course of action. They deliver practical advices (or a series of commands) about how we should act, so it seems natural for those who sincerely accept a given moral theory to try to figure out, in each case where some practical decision is needed, what the theory recommends, and act accordingly. However, this is not what a moral theory always tells us to do. Certain moral theories in fact tell their followers not to consult them in daily decision-making. The reason for this is simply that if we consciously intend to act as the theories recommend, it would become difficult or even impossible for us to act in that manner. In recent literature, moral theories that satisfy this condition are called selfeffacing, and have attracted some attention. Although quite a few authors seem to endorse the view that this character of self-effacement makes a moral theory highly problematic (or even unacceptable), in this paper I shall argue that this view is ungrounded. To do this, I will critically examine various objections to self-effacing moral theories found in the literature that concern the following points, respectively: lack of action-guidingness; threat of undermining psychological harmony and the desirable form of moral deliberation; an absurd requirement to have mutually contradicting beliefs; and an invitation to a kind of self-deception. It will be argued that none of these objections constitutes a serious threat to self-effacing moral theories as such.
著者
Davis Michael
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.2-21, 2010-03

社会契約という語は、その本拠地こそ(狭い意味での)政治理論にあるものの、それを超えて遥か に広い領域で用いられている。「社会契約」という用語には、一部では意味の区分が確立されてはい るが、他の用法に関しては、確立された区分はない。しかし個々の区分がないということ以上によ り重要なことは、様々な社会契約という語用の間に基本的な差異をもたらす「一般的な」分類が欠 如していることだと私は思う。私が提示する分類には二つの側面がある。ひとつは「契約」という 言葉に関係する。「契約」という言葉は、文字通りの意味でも近接した類比から遠いメタファーに至 るまでの何らかの拡大された意味でも使用できる。文字通りの意味に使った場合、契約はある種の 義務(形式的な道徳的義務)を支持することになる。類比的ないしメタファー的な意味で使った場合、 別の種類の義務を支持することとなる。もう一つの側面は「社会」という用語に関連する。「社会契 約」における「社会」は(その契約が文字通りの契約であれ、類比的もしくはメタファー的な意味 での契約であれ)契約の結果できるものでもありうるし、その契約への参加者の団体でもありうる。 本稿で述べられたことから引き出されるべき教訓は、われわれはこれまで理論家がしてきた以上に 社会契約という言葉を注意深く使用する必要があるということである。
著者
七戸 秀夫
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.3-15, 2020-05-31

脳疾患に対する他家/異種細胞移植( 他人や動物の細胞が脳内に入り込む) に関して現状を分析し、Derek Parfit 著『理由と人格 非人格性の倫理へ』で言及される〈R 関係〉に基づいて考察を行う。実際に他家/異種細胞が脳内に長期生着しキメラ状態となっている患者が多数存在しているが、人格の同一性については深く検討されてこなかった。我が国では自家細胞を用いた治療が先行してきたが、最近他家細胞に関する臨床研究も開始され、今後増加すると予想される。自家細胞と異なり、他家/異種細胞移植では回復した意識や認知機能は新たに生じたキメラ状態の脳に由来し、そこに〈R 関係〉は存在しない。患者らに漠たる違和感が生じるとすれば、〈R 関係〉を有しないことに(無意識的ながら)根ざしているように思われる。移植によるキメラ状態は、臓器移植や骨髄移植など日常診療としてありふれているが、キメラ状態の臓器の問題は脳とそれ以外で倫理学上の重要性が異なる。
著者
前田 春香
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.3-21, 2021-03-25

本論文の目的は、Correctional Offender Management Profiling for Alternative Sanctions(以下COMPAS)事例においてアルゴリズムが人間と似た方法で差別ができると示すことにある。技術発展とともにアルゴリズムによる差別の事例が増加しているが、何を根拠に差別だといえるかは明らかではない。今回使用するCOMPAS 事例は、人種間格差が問題になっているにもかかわらず、そのアルゴリズムが公平であるかどうかについて未だ論争的な事例であり、さらには差別の観点からは説明されていない。本論文では、「どのような差異の取り扱いが間違っているのか」を説明する差別の規範理論を使ってCOMPAS 事例を分析する。より具体的には、差別の規範理論の中から「ふるまい」による不正さを指摘するHellman 説を適切なものとして選び、アルゴリズムに適用できるよう改良したうえでCOMPAS 事例が差別的であるかどうか分析をおこなう。この作業によって、差別的行為を「ふるまい」の問題として独立させ、一見差別の理論が適用できなさそうなアルゴリズムによる差別性の指摘が可能になる。
著者
西本 優樹
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.22-44, 2021-03-25

本稿では、ビジネス倫理で「企業の道徳的行為者性」(corporate moral agency)をめぐって中心的な論点となる企業の意図の問題を、推論主義(Brandom 1994)と呼ばれる言語行為論の一類型を援用して検討する。 企業に行為の意図を認めることができるかという問題は、従来から心の哲学の心理主義と機能主義の対立を反映する形で議論されてきた。すなわち、意図に関して心理主義を支持するレンネガードとヴェラスキーズ(2017)が、心を持たない企業が意図を持つことはありえないと主張するのに対し、機能主義を支持する論者は、企業に意図の機能的特徴を見出すことができると主張する。 本稿では、この対立を概観した後、意図に関して言語論的な機能主義を支持する推論主義を援用することで、レンネガード、ヴェラスキーズの議論に反論を提起し、この議論で推論主義が適切であることを示す。この作業の後、本稿では、条件付きではあるが推論主義から企業の意図および企業の道徳的行為者性が正当化できることを示し、そうした議論から帰結する問題点を指摘する。
著者
柏葉 武秀
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
no.3, pp.34-44, 2010-03

本稿では、分析的伝統に立脚する現代の倫理学、とりわけリベラリズム政治哲学は障害者を公正に 扱いえないという通説を検討する。たとえば、ロールズの社会契約論は正義の名にふさわしいまっ とうな社会についての構想から障害者を排除していると強く批判されてきた。 本稿の目的は、このリベラリズム政治哲学と障害学を架橋する可能性を探究することにある。本稿 は以下の4 節に分けられる。まず、障害者への財の分配をめぐって戦わされたロールズとセンの論 争を瞥見する。次に、ロールズの政治的人格論こそが政治領域で障害者を不公正にあつかってしま う原因であると示したい。3 節では、障害者の政治的・道徳的地位を基礎づけるには、自身の「ケイ パビリティ・アプローチ」がロールズ正義論への最善の代替案だというヌスバウムの主張を跡づける。 最後にケイパビリティ・アプローチが直面せざるをえない二つの問題を指摘する。
著者
塚本 晴二朗
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.3-15, 2013-10-01

The ideal behind the Juvenile Law is the “nurturing of sound and healthy juveniles.” Following this ideal, Article 61 of the Juvenile Law forbids the reporting of “rulings that pertain to judgments concerning juvenile offenders in family court or crimes committed when the individual prosecuted is a juvenile.” However, starting from Article 21 of the Constitution which honors freedom of expression as central, Article 61 of the Juvenile Law becomes an ethical standard. Article 21 of the Constitution starts from the idea of respecting freedom of expression, granting autonomy to the press. In this article, I draw attention this. In this article, I argue that juvenile crime reporting is not only a legal but also an ethical issue. Firstly, I provide a brief overview on a logic which approves of such reporting that the juveniles who committed a crime can be guessed. Secondly, I consider “the rights to grow and develop for the juveniles” in the light of an anonymous reporting on a juvenile crime. This idea is based on ethics of rights, which I criticize in the rest of the article. Thirdly, I explore Clifford Christians's ethics of the “common good” in order to critically to examine the rights-based rationale of juvenile crime reporting. Lastly, I examine the interrelations of juvenile crime reporting, journalists as professionals, and professional ethics.
著者
Davis Michael
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.2-21, 2010-03

社会契約という語は、その本拠地こそ(狭い意味での)政治理論にあるものの、それを超えて遥かに広い領域で用いられている。「社会契約」という用語には、一部では意味の区分が確立されてはいるが、他の用法に関しては、確立された区分はない。しかし個々の区分がないということ以上により重要なことは、様々な社会契約という語用の間に基本的な差異をもたらす「一般的な」分類が欠如していることだと私は思う。私が提示する分類には二つの側面がある。ひとつは「契約」という言葉に関係する。「契約」という言葉は、文字通りの意味でも近接した類比から遠いメタファーに至るまでの何らかの拡大された意味でも使用できる。文字通りの意味に使った場合、契約はある種の義務(形式的な道徳的義務)を支持することになる。類比的ないしメタファー的な意味で使った場合、別の種類の義務を支持することとなる。もう一つの側面は「社会」という用語に関連する。「社会契約」における「社会」は(その契約が文字通りの契約であれ、類比的もしくはメタファー的な意味での契約であれ)契約の結果できるものでもありうるし、その契約への参加者の団体でもありうる。本稿で述べられたことから引き出されるべき教訓は、われわれはこれまで理論家がしてきた以上に社会契約という言葉を注意深く使用する必要があるということである。