著者
杉本 俊介
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-50, 2012-10-01

In this paper, I will discuss Peter Singer’s answer to “Why be Moral?”. There have been many debates regarding the “Why be Moral?” problem. It is, however, still unclear whether at least one answer is correct. I take up and examine Singer’s argument. Firstly, I will provide a brief overview of the literature on the Why be Moral? problem, and place Singer’s contribution within the literature. Secondly, I claim that Singer’s argument from a meaning of life does not intend to provide everyone with the reasons for acting morally, as opposed to the standard interpretation. His 1973 article supports my claim. However, in fact, Singer requires us to be moral, which is an apparent contradiction to my interpretation. Lastly, I explain why it is not a contradiction.
著者
佐藤 岳詩
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.45-62, 2010-03

本稿では気分明朗剤(mood-brighteners)の服用の是非とそれを通して快楽主義的功利主義の是非 について論じる。快楽主義とは快や幸福のみが善であると主張する道徳的な立場であり、経験機械 の議論をはじめ様々な批判にさらされながらも一定の支持を集めてきた。しかし近年開発された気 分明朗剤という薬がもたらす倫理的問題は、快楽主義に対して新たな疑義を呈しうるように思われ る。気分明朗剤とは簡単に言えば不安を緩和し気分を明るくする薬物であり、服用者の快につなが るものである。そのため気分明朗剤の使用は快楽主義的に見て肯定されるものである。しかし一方 で我々の間にはこの薬物に対する否定的な感情、道徳的な直観がある。この直観が妥当なものであ るならば、気分明朗剤の服用は否定されるべきであり、また気分明朗剤の服用を肯定する快楽主義 もまた否定されるべきということになるだろう。そこで本稿では主に気分明朗剤の服用を批判する 言説を検討し、それが妥当であるか否かを検討する。筆者の考えるところでは、L. カスらが呈示す る偽物と本物の区別、適切な感情などに基づく批判は誤りであり、気分明朗剤および功利主義に対 する決定的な批判とはならない。しかし苦痛とその受容が持つ価値にかかわる議論は快楽主義にとっ て直接的な疑義を投げかけうる。
著者
柏葉 武秀
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.34-44, 2010-03

本稿では、分析的伝統に立脚する現代の倫理学、とりわけリベラリズム政治哲学は障害者を公正に扱いえないという通説を検討する。たとえば、ロールズの社会契約論は正義の名にふさわしいまっとうな社会についての構想から障害者を排除していると強く批判されてきた。本稿の目的は、このリベラリズム政治哲学と障害学を架橋する可能性を探究することにある。本稿は以下の4節に分けられる。まず、障害者への財の分配をめぐって戦わされたロールズとセンの論争を瞥見する。次に、ロールズの政治的人格論こそが政治領域で障害者を不公正にあつかってしまう原因であると示したい。3節では、障害者の政治的・道徳的地位を基礎づけるには、自身の「ケイパビリティ・アプローチ」がロールズ正義論への最善の代替案だというヌスバウムの主張を跡づける。最後にケイパビリティ・アプローチが直面せざるをえない二つの問題を指摘する。
著者
眞嶋 俊造
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.16-27, 2013-10-01

The purpose of this article is to examine the following two questions: one is, why, at what point terrorism cannot morally be justified; the other is, all kinds of acts of terrorism are morally impermissible under any circumstances. This paper is divided into three sections. In the first section, I examine the definition of terrorism and discuss the first question. In the second section, I examine (im)morality of assassination as a means of anti-government terrorism. In the third section, I explore the moral (im)permissibility of assassination by reference to the framework of just war theory in order to consider the second question. I conclude by arguing that there is no such morally justifiable assassination in reality although we can construct an ideal type of just assassination and argue moral permissibility of assassination at a theoretical level.
著者
佐藤 岳詩
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.45-62, 2010-03

本稿では気分明朗剤(mood-brighteners)の服用の是非とそれを通して快楽主義的功利主義の是非について論じる。快楽主義とは快や幸福のみが善であると主張する道徳的な立場であり、経験機械の議論をはじめ様々な批判にさらされながらも一定の支持を集めてきた。しかし近年開発された気分明朗剤という薬がもたらす倫理的問題は、快楽主義に対して新たな疑義を呈しうるように思われる。気分明朗剤とは簡単に言えば不安を緩和し気分を明るくする薬物であり、服用者の快につながるものである。そのため気分明朗剤の使用は快楽主義的に見て肯定されるものである。しかし一方で我々の間にはこの薬物に対する否定的な感情、道徳的な直観がある。この直観が妥当なものであるならば、気分明朗剤の服用は否定されるべきであり、また気分明朗剤の服用を肯定する快楽主義もまた否定されるべきということになるだろう。そこで本稿では主に気分明朗剤の服用を批判する言説を検討し、それが妥当であるか否かを検討する。筆者の考えるところでは、L. カスらが呈示する偽物と本物の区別、適切な感情などに基づく批判は誤りであり、気分明朗剤および功利主義に対する決定的な批判とはならない。しかし苦痛とその受容が持つ価値にかかわる議論は快楽主義にとって直接的な疑義を投げかけうる。
著者
竹下 昌志
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.3-20, 2023-03-31

近年、私たちがより道徳的になる方法の1つとして、道徳的エンハンスメントが提案されている。道徳的エンハンスメントとは、ある道徳的主体の道徳的能力の改善や道徳的能力の獲得・選択を目的にした何らかの処置や介入のことである。道徳的エンハンスメントの方法として多く議論されているのはバイオエンハンスメントであるが、これは個人の自由や自律性を損なうという懸念がある。そこで、近年のAIの発展を受け、道徳的AIエンハンスメントが提案されている。提案されている道徳的AIエンハンスメントには、道徳的判断を下しユーザーに伝えるAI、ユーザーに助言するAI、ユーザーと議論するAIがある。しかし、道徳的AIエンハンスメントには、道徳的エンハンスメントに成功しないのではないか、AIの助言にしたがうことは問題があるのではないか、などの指摘がなされている。そこで本稿では、道徳的AIエンハンスメントの種類や、道徳的AIエンハンスメントが何を改善するのかについて整理した後、六つの批判を取り上げ、それらに対して反論することで道徳的AIエンハンスメントを擁護する。また既存研究でほとんど擁護されていない、質問を受けて答えるだけのAIによる道徳的AIエンハンスメントも擁護する。
著者
杉本 俊介
出版者
北海道大学大学院文学研究科応用倫理研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-50, 2012-10-01

In this paper, I will discuss Peter Singer's answer to "Why be Moral?". There have been many debates regarding the "Why be Moral?" problem. It is, however, still unclear whether at least one answer is correct. I take up and examine Singer's argument. Firstly, I will provide a brief overview of the literature on the Why be Moral? problem, and place Singer's contribution within the literature. Secondly, I claim that Singer's argument from a meaning of life does not intend to provide everyone with the reasons for acting morally, as opposed to the standard interpretation. His 1973 article supports my claim. However, in fact, Singer requires us to be moral, which is an apparent contradiction to my interpretation. Lastly, I explain why it is not a contradiction.本論文は、ピーター・シンガーが「なぜ道徳的であるべきか」(Why be Moral?)という問いに十分に答えているかどうかを検討する。この問いは誰がどう答えたかは知られていても、それが十分な答えかどうかはあまり明らかにされていない。そこで本論文では、シンガーの答えを取り上げ、彼の回答がWhy be Moral? という問いに対する十分な答えであるかどうかを検討したい。本論文のおおまかな流れは以下のとおりである。まず、Why be Moral? 問題の概要を示すとともに、そのなかでのシンガーの答えがどのように位置づけられてきたかを確認する。次いで、従来の解釈と異なり、シンガーは〈あらゆる人にとって道徳的であるべき理由を与えようとはしていない〉ことを確認する。彼がどうしてこのようなスタンスをとるかについても説明を与える。これに対しては、実際シンガーは道徳を気にかけない人々を説得しようとしているではないかという反論が挙げられるだろう。一見すると「なぜ道徳的でなければならないか」という問いに答えられないことを認めているにもかかわらず、我々に道徳的になるように要求することは矛盾した態度であるように思われるからだ。最後に、この反論を検討する。
著者
草野 原々
出版者
北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター
雑誌
応用倫理 (ISSN:18830110)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.34-44, 2022-06-30

本稿の目的は、ソーシャルロボットの倫理問題に対して、フィクションの哲学を使ったアプローチを提案することにある。第一部では、われわれがロボットを、社会的関係を結ぶことのできる社会的存在者として見なしているという事実を確認し、そこに倫理的問題が秘められていること、また、その問題がフィクションについて論じられてきた問題と類似していることを論ずる。第二部では、ロボットとわれわれとのあいだの社会的関わりを広い意味での「フィクション」とする「フィクション論的アプローチ」を提案する。先行研究であるRodogno(2016)と水上(2020)を確認し、水上はウォルトンのメイクビリーブ説を採用しているが、それは記述的には正しくないことを指摘する。第三部では、フィクションにかかわる情動を分析した「フィクションのパラドクス」を利用し、ソーシャルロボットにかかわる情動についてのトリレンマとなる「ソーシャルロボットのパラドクス」を提案する。そして、その分析からソーシャルロボットとの社会的関係をフィクションと見なしたときに生ずる倫理的問題を考察する。最後に、ソーシャルロボットの倫理的問題に関して、美学的観点から新しい光を投げかける。すなわち、社会的存在者としてのソーシャルロボットをフィクションと見なすべき美的規範があるのではないかという新たなアプローチを唱える。