著者
游 舒婷
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.125-149, 2019-03-20

西来庵事件という植民地期台湾で最も大規模な武装蜂起が1915年に起きたことを背景に、 宗教的な問題が表面化し、1919年に『台湾宗教調査報告書』が刊行された。蜂起に巻き込まれた 農民は「迷信」にとらわれる「愚か」な民衆と捉える傾向があった。だが、信仰に基づいた民衆世界はまさに俗民社会の一つの特質を表すものであると考える。僧侶・道士・巫覡・術士といった宗 教的職業者が、民衆にとってはどのような存在であったのか、彼らの社会的地位はどうであったの か。本稿は民間療法、識字問題、職業の階級的な分類などの側面から、その一端を考察するもので ある。 僧侶・道士・巫覡・術士というのは職能による便宜上の分類で、実際に複数の職能を有する人が 少なくない。植民地初期における彼らは社会地位の低い存在であった。僧侶や道士の大半は寺廟に属するものではなく、市井において生計を維持し、寺廟や信徒に対して権威を持たないものである。 巫覡は清領期では娼女や俳優と同じく「下九流」という賤民階級に属していた。日本統治下、こうした身分制度は廃止されたが、この職業に向けられる差別意識が民衆の中に根付いていったようである。ところが、植民地初期における識字者は極めて少なかったという状況の中、それらの宗教者(特に術士)はある程度の漢学的能力、即ち文化資本を持っている存在でもあった。また、病気による死亡率が高かったという状況の中、彼らは「病気平癒」を行ったりすることで、民衆に頼りにされる存在であった。彼らは病気の原因について現報因果説を説いたり、社会秩序の維持にも貢献したりした。1918年における僧侶・道士・巫覡・術士の人口割合について、澎湖島は台湾島(特に西部)のそれより遥かに高い数字を示した。このことが両地域の社会的差異を語っているのであろうか。
著者
游 舒婷 Yu Shuting
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.14, pp.321-347, 2017-03-20

台湾で流通していた暦には、清国、日本、国民党それぞれの統治の正統性を象徴する公式の暦(官暦)と、それを底本にして編纂されていた民間暦がある。清国の時間規範である旧暦、特にその中の吉凶日は、宇宙論的王権のイメージを表象するものである。民間暦に記されている吉凶的意味づけに官暦と違う解釈がみられると同時に、宇宙論という前提を共有する上で、宇宙論的王権のイメージが、福建や広東から輸入された民間暦の流通や吉凶的意味を読み取れる人を通して台湾に拡がっていった。 それに対して、近代文明を表象する時間規範である新暦は、清末を端緒としてキリスト教の宣教師によって台湾に伝わった。それから、日本統治下に入ると、天皇を頂点とする時間秩序と新暦を文明開化とする二重のイメージが表現されている日本暦(明治政府が1872年に下した改暦詔書を基にして頒布した官暦)は、神宮教によって普及されたが、台湾総督府がその普及に積極的な姿勢を示さなかった。それに替わって、1913年に総督府は「日本暦」と「中華暦」の折衷ともいわれるような体裁をとっている「台湾民暦」を頒布した。台湾民暦は行政システムを通して上から下へと普及されていく過程で、地方行政レベルの社会に侵入し、記憶された。それが原因であるようで、戦後、台湾民暦と似たような構成をとっている民間暦(「農民暦」という)が刊行された。国民党統治下で中華文化が推進されていることが背景にあると考えられるが、そのような民間暦に記されている吉凶日は段々と増えて、60、70年代の高度経済成長と共に、台湾の家々に浸透していった。 本稿は、暦に記されている吉凶日の変容、さらに暦の流通、暦と関わっている人々の実態について考察したものである。それによって、宇宙論的王権のイメージが日本そして国民党統治時代にわたってどのように再編されたか、どのように継続していたか、その消長を明らかにし、それを通して台湾における近代化の様相の一端をみることを目的とする。Taiwan has adopted an official calendar that represents the orthodoxy of the Qing Dynasty, Japanese rule and the Nationalist government, and a folk calendar developed based on the official one. The old calendar that the dynasty used as a dating system―the notion of days of fortune and misfortune in particular―symbolizes cosmological sovereignty. The interpretations of those days differ between the two types of calendars. Moreover, along with cosmology itself, the concept and image of cosmological sovereignty spread to Taiwan through the circulation of the folk calendar imported from Fujian and Guangdong and interpreters of the days of fortune and misfortune. The new calendar signifying modern civilization was introduced at the end of the Qing Dynasty and brought into Taiwan by Christian missionaries. Under Japanese rule, the Japanese calendar that incorporated a date system based on the period of the reign of the emperor and Japanese cultural enlightenment was adopted and promoted by a sect of Shinto called Jingu-kyo. It was an official calendar proposed by the Meiji government, but the Taiwan Governor-Generalʼs Office was not willing to circulate it. Instead, the office adopted the Taiwanese folk calendar that combined the Japanese and Chinese chronological systems in 1913. It was introduced to the public in a top-down manner through the government administration system and came to be commonly used at a local government level and downward. After World War II, an agricultural calendar similar to the Taiwanese calendar was launched in the wake of the promotion of Chinese culture under the Nationalist government. The number of days of fortune and misfortune in this calendar gradually increased and started to be widely used in Taiwanese households during the period of high economic growth in the 1960s and 1970s. This paper will examine changes in the days of fortune and misfortune in these calendars, the circulation of each calendar system, and people involved in the process. In doing so, the rise and fall of the concept of cosmological sovereignty, such as how it was reconstructed and preserved under Japanese rule and the Nationalist regime, will also be discussed, thereby revealing aspects of Taiwanʼs modernization.2015年度奨励研究 成果論文
著者
華 雪梅
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.149-175, 2019-09

秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を探すために、徐福(ジョフク)が日本に渡来したという伝説は、日本最北の地 北海道から最南端の鹿児島県に至るまで、全国に伝承されている。本論文では、筆者がさまざまなロマンにあふれる佐賀県佐賀市の徐福ゆかりの地を訪れ、人々に語り継がれてきた徐福伝説の歴史と現状を考察する。地元に語り継がれている口碑と文字記録として残された史料などを併せて分析すると、徐福伝説が地元で盛んに流布されていた時代は、江戸時代であろうと推測される。 佐賀市には徐福に関わるさまざまな地名や事物、伝説がある。浮盃(ブバイ)・寺井・千布(チフ)という地名は、徐福伝説に由来するといわれ、古くから地元の人々に語り継がれてきた。事物としては、「徐福が持ってきた」といわれている樹齢2200 年のビャクシンの古木がある。また、筑後川に生息する「エツ」という川魚は、葦の片葉が川面に落ちて生まれたという伝承や、徐福が見出した「フロフキ」という仙薬もある。伝説としては、徐福と地元の娘のお辰との悲恋伝説がある。地元の住民たちは、この伝説を熟知し、情熱を傾けて語り継いでいる。さらに、佐賀市に伝わる口碑によると、徐福は不老不死の仙薬を探すため、金立山に登り、地元の金立神社の祭神となったといわれる。往古から住民たちの信仰を集め、「金立大権現」と呼ばれて祭られている。このように徐福伝説は、佐賀市でさまざまな形で伝えられ、地元に融合し、生き生きと伝承されている。 民間伝承として伝わる徐福伝説は、関連する事物によって、地元の人々に記憶として刻み付けられている。特に、雨乞い行事と金立神社例大祭が行われる時期になると、徐福伝説にちなんだ事物は、その伝説に対する記憶を思い出す糸口となり、古くからの徐福信仰の記憶を呼び戻しながら、また新たな信仰の記憶を構築する。本論文は佐賀県佐賀市の徐福伝説にまつわる事物の調査や、地元の人々に対する聞き取り調査を基に、徐福伝説が佐賀市で定着し、語り継がれている背景や要因と、その伝承形式を明らかにするものである。論文
著者
佐々木 長生
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。論文
著者
程 亮 Cheng Liang
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.253-274, 2017-03-20

狐仙〈Huxian〉信仰は中国北方地域において極めて普遍的な民間信仰の一つである。中国人にとって、狐は古代から身近な動物であった。狐が霊力を持つ生き物と信じられ、やがては狐信仰、狐神信仰、狐仙信仰という伝承となって定着していくのである。現代中国の東北地方や華北地方などの農村部では、今でも狐仙祭祀の事例が報告されている。 筆者は2014 年から2016 年まで、これまで狐仙信仰調査の空白地帯である華中地方に入り、湖北省西北部の山村部において狐仙信仰の現地調査を行った。調査地では、狐仙が家に祀られる理由に邪症〈Xiezheng〉治療と富の増加があげられるが、「病気が治った」という理由で狐仙を祀り始める事例が多い。それは、現地では狐仙の憑依、祟りが邪症の原因と見なされているためである。村人たちは「病気」を「実病〈Shibing〉」と「邪症」に分けて対応する。邪症の原因に、鬼、祖先、神の祟りなどがあるが、狐仙の憑依、祟りがほとんどである。本発表では、湖北省西北部の山村部における邪症治療の実態を報告し、それと狐仙信仰の関係性を明らかにした。 当地における邪症の治療者として、馬子〈Mazi〉、法官〈Faguan〉、端公〈Duangong〉、陰陽仙〈Yinyangxian〉などの民間巫医がある。彼らは邪症の原因を狐仙などの超自然的存在と説明し、邪症の治療を行い、狐仙信仰の伝播者として存在する。 邪症の病者に女性が圧倒的に多い。村社会の女性たちは婚姻、生育、家庭安全などの面で男性より精神的ストレスを受けているため、時には元気も気力も弱くなり、時には熱が出て頭痛し、時には意識障害になる。彼女たちは上述した症状を邪症と認識し、巫医に治療を求める。邪症が治った際、病者は狐仙の信者となり、その信仰の伝播者として存在する。 狐仙信仰は邪症の説明体系として巫医たちによって維持され運用されていると考えられる。また、邪症治療という実践を通じて治療者・巫医と病者・村人の双方によって伝承されている。
著者
李 百浩 Li Baihao 松本 康隆 Matsumoto Yasutaka
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.63-80, 2016-09-30

This paper will outline the history of the former Nanjing Shrine―parts of whose hallof worship and shrine office still remain―from the perspective of the architectural history of Nanjing City, and discuss reasons why parts of the shrine have been preserved. Before the shrine was erected, Mount Wutai, or Qingliang Shan, was an educational district where construction of a stadium and a conference hall was planned. In 1939, after Japan occupied the region, it was decided that a shrine be built in the area. Land was acquired for this purpose in 1941, and construction started in 1942, followed by a ceremony to summon the spirit of a deity called Chinza-sai in November 1943. The construction was completed in 1944. Gokoku Shrine was built next to Nanjing Shrine around the same time. After Japan's surrender, Nanjing Shrine was turned into a memorial hall for heroes of national resistance, and Gokoku Shrine became a pillage exhibition center. The Mount Wutai area came to serve its original function as an educational district ; consequently, the plan to build a stadiumwas revisited, leading to its construction after the People's Republic of China was founded. The former Nanjing Shrine came under the management of the Sport Bureau of Jiangsu Province, causing it to be used as a facility for table tennis, the bureau's senior activities and meetings. Later, the shrine faced the danger of possible demolition due to the need to collect cypress bark for paper production in 1958 and housing construction in 1985. Nevertheless, university professors called for its preservation. It is unknown until when its inner shrine remained intact and when Gokoku Shrine was torn down. Of all of Nanjing Shrine's structures, only its hall of worship and office remain. Four reasons why they have not been destroyed are in chronological order as follows : they are of high quality in terms of structure and space ; the inner shrine started to be used as a war memorial hall because shrines and such memorial halls both enshrine holy spirits ; the shrine lost its original function upon the foundation of People's Republic of China but maintained its value as a usable structure ; and a plan in 1985 to tear down the shrine arose from a decrease in the value of onestory structures in response to accelerated urban congestion after China's reform and opening up. Conversely, the shrine started to be viewed as a historical heritage.論文