著者
山口 建治 ヤマグチ ケンジ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-20, 2019-03-20

八坂神社や津島神社の祭神であった牛頭天王は、最初期には「五頭天王」とも称されていた。筆者はこれまで、この「五頭天王」は中国民間の五道大神(五道神、五道将軍とも称される)が日本に伝来した後の別称ではないかと指摘してきた。それはおもにゴトウ(五頭)、ゴズ(牛頭)というコトバの音声の類似性と神格の類似性に基づく仮説であった。ところが最近、滋賀県琵琶湖北岸の塩津港遺跡から発掘された大型木簡のうち、「五頭天王」と「五道大神」の両方がともに記されている一つの木簡があることに気づいた。 五道大神は今日の日本ではほとんど顧みられることのない、かつて日本に伝来してきたことすら忘れさられている中国の民間神である。しかし日本の密教仏典に照らしてみると、11~13世紀のころにさかんに行われた焔魔天(密教では閻魔をこのように称す)の修法のなかで重要な役を演じた神であり、それゆえとくに秘匿を要する神であったことがわかる。10世紀のころまで疫神として人々に崇められてきた「祇園の天神」が、本来どういう神であったかを明確に指摘した人はいないが、五道大神は密教では天部の神、仏法の守護神であり、まさに「祇園の天神」と称されるにふさわしい。11世紀のころ、この五道大神と入れ替わるように牛頭天王が文献上にも顕在化してくる。密教僧は、祇園神= 五道大神を秘匿する代償として、いわばその身代わりに、新たな祇園神= 五頭天王(のちに牛頭天王)を創出する必要があった、と考えられるのである。 小論は、塩津港遺跡起請文札のうちのある一つの木簡に、上界の神「五道大神」と王城鎮守の祇園「五頭天王」の両方がそろって記されていることの意味を読み解き、中国民間の五道大神が牛頭天王にすり替わる、その神格誕生の秘密の経緯をあらためて明らかにし、識者のご批評を仰ごうとするものである。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.97-130, 2018-09-30

柳田国男の登場以前は文字以外に図像による記録がされていた。だが、柳田の登場によりヴィジュアル資料が内包する芸術性や演出の排除がおこり、図像による記録は一旦途切れてしまう。柳田以後は時代が下り、手軽に正確に民俗事象を切り取れる写真が記録手段として選択されるようになる。 ただ、写真が受容された近代以降においても明治期に残された写真は限定的であり、図像資料に頼らざるを得ないのだが、これまで民俗学において明治期の図像資料の検討や活用は十分になされてこなかった。それは資料としての図像の客観性の乏しさが要因の一つだと考えられる。絵師がイメージを出力する過程において不明確な要素が多数生じ、そこには表象された事物の正否はもちろんのこと、画面上に表象されない内包された意味も同時に生まれる。 また、当時の民俗事象全てが図像として描かれてきたわけではなく、描かれて残されてきた民俗事象と、そうでない民俗事象が同時に存在する。そこには近代の図像資料として民俗事象が描かれた意味が内包されており、図像を民俗資料として捉えにくくしている要因がある。 そこで、『風俗画報』に投稿された記事と挿絵を比較してみると、投稿者と絵師における視点の相違から絵師の意向が強く反映されることがあり、両者の主観が混在することで図像の客観性や正確性の低さが浮き彫りとなる。 また、民俗事象の中でも表現できる場面は限られており、距離という物理的な問題から描かれる地域が制約される場合や、日常よりも絵画映えする非日常の行事などが描かれる傾向にあった。加えて、民俗事象の中でも絵師は絵画映えする盛時(クライマックス)の場面を意図的に選択して描くことで、図像資料の場面に偏りが生じることが明らかとなる。 さらに、絵師によって意図的に事物を描かない、あるいは事実とは異なるように改変して事物を描く場合もあり、この場面の選択や事物の改変には柳田が排除した演出が含まれており、図像の客観性の乏しさが改めて露呈した。Prior to the work of(Kunio) Yanagita, scholars created pictorial records of folkloristic events along with written accounts. However, as Yanagita emerged as the leading scholar of folklore studies, iconographic materials as sources for folklore studies came to be rejected on grounds that pictorial representations have an inherent tendency to pay more attention to artistry and dramatic effect than to accuracy. In the period after Yanagita, photographs came to be used as a convenient and accurate method of recording folkloristic events. However, even though the use of photography has been widely accepted in modern and more recent times, photographs from the Meiji era are limited in number and relying on illustrative renderings often becomes necessary. Nevertheless, iconographic materials from the Meiji era have not been adequately examined or utilized until now. One reason may be the lack of objectivity seen in iconographic sources. Numerous undefined factors could have influenced the output process of eshi(painters and draftsmen), casting doubt on the accuracy of the events portrayed and raising the possibility of holding latent meanings which are not clearly evident. Furthermore, not all folklore events of the time were rendered into pictorial representations, with some folkloristic events being recorded as paintings or drawings while other events were not recorded at all. Representations of certain folklore scenes in modern times may also contain latent meanings, which make them difficult to accept as straightforward visual records. A comparison between the articles and their accompanying illustrations in the magazine Fuzoku gaho reveals that some of the illustrations strongly reflect a perspective which is widely different from the viewpoint of the articleʼs author, and the juxtaposition of the two subjective interpretations brings into sharp relief their lack of objectivity and accuracy. Furthermore, only certain scenes could be rendered into pictorial representations ; events taking place at physically distant locations could not be represented, restricting the portrayals of folklore events to certain regions, and there was also a tendency to prefer flamboyant special events over everyday practices. And eshi preferred picturesque scenes depicting the climax of folkloristic events, creating a bias in the iconographic materials. In addition, certain eshi may have intentionally omitted certain features from their representations or made factually inaccurate modifications. This selection of scenes and modifications by the eshi were the aspects of pictorial renderings that Yanagita rejected and has led to a renewed realization of the lack of objectivity in iconographic materials.論文
著者
姜 明采 Kang Myungchae
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.14, pp.275-319, 2017-03-20

大正期は、(短い間であったにもかかわらず社会全般に大きな変化をもたらしており、こうした変化に影響を受けた建築界でも、)新しい建築への数多くの試みとして様々な建築様式が登場してきた時期である。本稿は、こうした大正期における建築デザインの動向を検討するため、1924(大正13)年12月22日より1925(大正14)年2月28日まで実施された震災記念堂の設計競技に注目した。震災記念堂の設計競技応募図案は現在、全221案のうち設計競技の当選図案図集である『大正大震災記念建造物競技設計図録』に掲載された36案の当選図案と、震災記念堂の収蔵庫に収蔵されている39案の選外図案の75案が残存している。設計競技の当選図案とこれまで公開されていなかった選外図案の外観デザインを対象に、当時流行した建築デザインの要素とその傾向を考察することを本稿の研究目的とした。立面図や透視図などで外観の形状がわかる74案の応募図案を古典主義風、表現主義風、アール・デコ風、モダニズム風、和風、東洋風の6つのデザイン様式に分類し、各様式で最も多く見られたデザインの要素をまとめた結果、以下のことが明らかとなった。 まず、全体的な外観形状としては、不要な装飾的要素を抑え、ジッグラト風デザインや直線を多く用いて垂直性を強調した計画が多く見受けられた。また、ドーム屋根に左右対称の縦長開口部を多く用いた古典主義風の塔の形状とした「コンペティションスタイル」との類似性も見られ、すっきりしたモダンなデザインと均衡が取れた古典主義風デザインが共存していた様子がうかがえた。更に、その細部には、単純幾何学的装飾の反復と変形アーチの開口部などの装飾の要素を設けられ、設計者の個性を発揮したことが考えられる。こうしたシンプルな外観と個性的な細部装飾のデザイン要素から、大正期における建築デザインの動向が読み取れたと考えられる。In Taisho Period, architects conceived a variety of different styles, striving for new designs. This study take a close look at the Memorial Hall for Great Kanto Earthquake Design Competition held from December 22, 1924 to February 28, 1925, and attempt to reveal architectural trends in the era. Seventy-five of the 221 designs submitted to the competition have remained to date, with 36 contained in the collection of Designs Awarded in the Memorial Hall for Great Kanto Earthquake Design Competition ; 39 designs did not meet the award criteria but continue to be stored in the Memorial Hall Archive. So, this study analyzes the external appearance of the designs that are elected one and unselected one that have not been open to public viewing to examine the prevailing design elements and the design trend. The elevation and perspective plan of Seventy-five designs which shows the shape of the external appearance have classified 6types of design style ; Classicism, Expressionism, Art-Deco, Modernism, Japanese-temple Style, Oriental-temple Style, and clarified the most frequent elements in each style. First, lots of the external appearances of designs were appeared to restrain the unnecessary decorative elements and stack the floor like ziggurat style, also emphasize the verticality using the vertical line. And, there were also appeared ʻCompetition Styleʼ which is the classical tower shape using dome-like roof and the opening which are vertically symmetry. Therefore, it makes clear that Neat modern design and well-balanced classical design coexist in that time. Furthermore, it can be considered that designers demonstrate their individuality in details, like the repetition of the simple geometric design and deformation arch opening, etc. Thus, this study can be assumed to read the trend of the architectural design in Taisho period, the simple exteriors and unique details.2015年度奨励研究 成果論文
著者
青野 正明 Aono Masaaki
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.15, pp.15-24, 2017-09-30

戦前、神社神道は非宗教とされ、植民地民を含めて日本国民が参拝する祭祀とされた。植民地朝鮮(1910~1945年)では国体明徴声明以降(1935年~)、皇祖神崇拝(アマテラスへの一神教的な崇拝)を強める神社神道が、日本国民というナショナリズムの形成(=国民教化)に用いられた。 この立場から本稿では、植民地朝鮮において神社神道が行政に追従し、天皇崇敬システム(国体論)と結びついたことを村落レベルにおいて紹介する。そして、村落レベルでの「神社」とは何かという問題を考えてみる。 まず日本人移住者の村々では、信仰の二重性を見いだすことができた。それは、天照大神(アマテラス)と「内地」の他の神々という祭神の二重性であった。彼らのこのような信仰の二重性に対して、神社行政は天照大神奉斎に吸収させる統制、つまり日本人移住者の国民教化を図る統制を推進していった。 一方、大多数である朝鮮人の村々では地方行政により官製「洞祭」(村祭り)の設置が企図されたことがあった。官製「洞祭」は在来「洞祭」と神社施設が接近して生まれた性質のもので、①神社と在来「洞祭」の習合を図るタイプと、②在来「洞祭」を神社化するタイプに二分される。前者のタイプは神社神道の土着性を重視する施策であったが、1935年以降の国体明徴期にはこのタイプは顧みられず、土着性よりも国民教化を優先させる意図のもとで、後者の在来「洞祭」を神社化する政策が推進された。 戦後、神社神道は単一的なナショナリズム形成をサポートし続けてきた。また、観光地などの神社が栄える一方で、過疎化が進む地方の神社は衰退の途にある。村落レベルにおいて神社とは何か、それは神社神道が今日も問われている問題ではないだろうか。*用語の説明 神祠:神社の下のクラス 無願神祠:行政から設立許可を受けていない神祠招待論文
著者
田島 奈都子
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-29, 2020-03-20

本稿は「大戦ポスター」としばしば称される、第一次世界大戦期に欧米で製作されたポスターが、1910年代半ば~1920年代までの間に、日本のデザイン界においてどのように受容され、影響を与えたのかについて論じた「戦前期日本のデザイン界における第一次世界大戦ポスターの受容と影響」の続きであり、1931年の満洲事変勃発以降、1945年の終戦までの間に、大戦ポスターがどのように取り上げられ、受容されたかについて検証することを目的としている。 日本における政治宣伝を目的としたプロパガンダ・ポスターは、1929年に陸軍省と文部省を依頼主として製作された作品に遡る。ただし、その製作が本格化したのは、1931年の満洲事変勃発以降であり、1937年の日中戦争開戦を契機として、それは一段と活発化した。しかし、それまでの日本においては、プロパガンダ・ポスターが製作されてこなかったことから、依頼主となる各省庁も依頼を受ける図案家も、どのような図案にすればよいのかわからず、その際に参照・翻案 とされたのが大戦ポスターであった。 こうして、大戦ポスターは十五年戦争期に再び注目され、ポスターや新聞広告を製作する際に盛んに翻案とされたが、この時代に積極的に選ばれたのは、銃剣を手にして戦う兵士を主題としたものや、機関銃や戦車、弾薬など、前線を感じさせる作品であり、1920年代までとは大きく異なっていた。ただし、十五年戦争期の日本においては、実際の製作・使用から10年以上が経過した大戦ポスターが再び注目され、新たなグラフィック作品を製作する上で大いに活用されたのは事実であり、その頻度は欧米よりも高く、影響は長く続いた。 なお、この時代の大戦ポスターは、市民に対して銃後の覚悟を促すための、格好の材料としても盛んに活用され、実際にはそのような文脈で、直接的に紹介・使用されることの方が多かったことも忘れてはならない。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.81-110, 2019-09-30

『風俗画報』に収録された挿絵の数も膨大であり、且つ形態や描かれた時代、画題なども様々である。さらに、挿絵を描く絵師と、それに関連する記事を書く編集員あるいは地方の好事家も多数存在することで、極めて複雑であることが、同誌の資料的評価を困難にしている要因だろう。そこで、本論考では『風俗画報』の挿絵を描いた絵師を数人選別し、特に地方を描いた風俗画に着目して正否を分析するように試みた。 まず、その前提となる『風俗画報』を取り巻く出版背景についてまとめる。吾妻健三郎は石版印刷技術を習得後、同誌を創刊すると非常に人気を博した。そのため、全国に流通し、全国各地の風俗に関する投書が送られるようになる。また、編集会議では好事家による投稿記事を精査し、どの風俗を掲載するのか検討され、絵師には編集員から指示が降り、その編集方針に従って挿絵を描くことになる。遠方への取材の場合は、編集員に絵師が同行し、現地で絵師はスケッチを行い、編集員は記事にする風俗について調査するのが基本の形である。 このような方法で描かれた地方の民俗事象は、風俗を記録する視点を持った編集の意図が反映されたものであった。遠方への取材では編集員に絵師が同行する形をとるため、的確に特定の民俗事象を伝える場面の選択、モチーフやランドマークを配置する画面構成が行われる。そのため、絵師によって特定の民俗事象の描き方に大きな差異が生まれることはなく、編集員によって一定の統一性が図られているといえる。 中には、社会的・政治的背景によって意図的に描かれない場面や事物もあるが、描かれている事物や場面に関しては実際の風俗や出来事を表象している。つまり、戦争絵や災害絵など、絵師が直接見聞することが困難な場面を描く際は想像画にならざるを得ないが、全国各地の風俗を収集する場合は基本的には取材を行い、実景を得て描いているため資料的価値は高いといえるだろう。論文
著者
加治 順人
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。The aims of this paper are to provide an overview of the history of the Shinto shrines in Ryukyu⊘Okinawa, and to discuss their unique multi-faceted characteristics. The history of shrines in Okinawa has been influenced by that of Japan-Ryukyu⊘Okinawa political relationships. However, it does not mean that Ryukyu⊘Okinawaʼs indigenous religious beliefs have been passively assimilated to the religious traditions of Japan. Okinawa has been indeed influenced by the Japanese culture, including its government policies. But, within Japanʼs sphere of influence, the Okinawans have developed their own unique shrine culture. Okinawa has benefited from reinterpreted and modified the Japanese governmentʼs preferential measures. Though the first shrine in Okinawa was probably founded in the late 14th century, well before then its people had developed religious beliefs which were very similar to Shintoism of Japan. Then the Ryukyuʼs Eight Shrines, the official shrines of the Ryukyu Dynasty, clearly blend together their own religious traditions and the Japanese Shinto, while keeping its uniqueness Furthermore, during the periods of increasing pressure to" become Japanese" such as during the Meiji reforms, the Japanʼs modern wars since the Sino-Japanese war, and the reversion to Japan in 1972, Okinawaʼs indigenous religion found a way to formally merge into the system of the mainstream Shintoism of Japan, and allowed the Okinawan to develop a unique Shinto shrine culture in Okinawa. The author is currently an active Shinto priest who has served at the Gokoku Shrine in Okinawa for 22 years. This paper draws on his personal experience as a Shinto priest, based on interviews with relevant parties, as well as discoveries made through fieldwork research. The author also attempted to elucidate the history of religion in Ryukyu/Okinawa, by including nonwritten M aterials such as photographs, old maps, rchitecture, and descriptions of traditional customs.招待論文
著者
李 千
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.273-298, 2021-03-20

台湾原住民セデック(Seediq・賽德克)族は、台湾中央山脈の中部を中心に暮らしてきた原住民族である。彼らは出草(首狩り)、文面(顔面の入れ墨)という風習をもっていたことで知られている。以前の研究では、セデック族はタイヤル族の一部(支族・亜族・言語系統)として扱われ、タイヤル族研究に位置づけられていた。2008年、セデック族は台湾政府により、14番目の台湾原住民族として認定された。そのことにより、セデック族の文化に関する研究は独自の分野となり、大きな意義をもつようになった。台湾原住民の中で純粋な文面文化をもっている民族はタイヤル族、セデック族、タロコ族である。彼らは文面民族と総称される。文面はセデック族にとって、一人前になったという成人の証である。また、民族識別として重要な社会的機能もある。さらに、人生儀礼とアイデンティティーに深く関わり、重要な役割を果たしてきた。日本統治時代の1913年、文面の風習は禁止され、文面の技術は途絶えてしまった。そのことは、文面がもっていた社会的機能に大きな影響を与え、セデック族のアイデンティティーに揺らぎが生じた。現在、伝統的な文面を施しているセデック族は老人1人だけとなり、この風習は廃れてしまったようにみえる。ところが21世紀初期から、伝統的な方法とは異なる手段により、文面文化を復興させようという動きがみえるようになった。本論では、台湾南投県仁愛郷で暮らす西部セデック族の伝統的な文面文化を中心に述べていく。具体的には文面の条件、起源伝説、施行の過程、タブー、器具、男女の紋様に関する問題を取り上げ、考察を試みた。同時に、他の語群やタイヤル族、タロコ族の文面紋様との比較研究も行った。また、現在の文面文化の復興運動の趨勢や現状、復興の過程における問題も取り上げた。最後に聞き取り調査をとおして、文面文化に対する現在のセデック族の考えや意識も明らかにした。
著者
劉 琳琳
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.95-110, 2021-03-20

本稿は日本の金属業の祭祀の代表例――鞴祭りの形成過程に関わるいくつかの文化要素を考察してみた。鞴祭りの神話的基礎は中世の小鍛冶神話であり、小鍛冶宗近の宝剣作りを稲荷神が助けるというストーリーに、稲荷神が金属業の守護神であるという意識が含まれており、この意識はのちに京都の鍛冶職人をはじめとする金属業界において広まった。一方、鞴祭りの儀礼面の基礎となすのは京都で広く行われた冬の火焼行事と考えられる。一条兼冬の『世諺問答』の記述の分析を通して、火焼の源流は宮中の鎮魂祭御神楽およびその一環としての「庭燎」に遡ることが明らかである。鎮魂祭の深層にはもともと天岩戸神話があり、鎮魂祭は冬至に際して太陽のよみがえりを祈るという意識が含まれることになる。火焼・鞴祭りの成立に伴って、そうした意識もこの二つの行事に流れ込んだと考えられよう。さらに、室町時代以降、中国哲学の一端である一陽来復説が、火焼・鞴祭りの成立の観念面の根拠と見なされるようになった。一方、丙午と五月五日を吉日とする中国冶金業の吉日意識は日本にも伝わったが、ついに中近世の金属業に受け入れられた形跡が見つからず、日本における影響は限定的だと言わざるをえない。一陽来復説が鞴祭りに流れ込んだことによって、金属生産の営みが宇宙の運行とつながる形で捉えられ、暗黒や困難を乗り越え、希望をいつまでも持ち続けていくという前向きな価値観が金属業に結び付くようになった。鞴祭りは一見ごく単純な金属業の祭祀であるが、そのなかに人々の素朴な心理や神話・儀礼・哲学・技術という様々な側面が含まれ、多彩な国際文化交流および選別の結実として生まれたという、興味深い祭りである。論文
著者
小村 純江 Komura Sumie
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.25-55, 2017-09-30

妙見信仰は北極星や北斗七星を神格化した信仰である。古代、中近東の遊牧民や漁民に信仰された北極星や北斗七星への信仰は、やがて中国に伝わり天文道や道教と混じり合い仏教に取り入れられて妙見菩薩への信仰となり、中国、朝鮮からの渡来人により日本に伝わったといわれる。 秩父地方も古くから妙見信仰が伝わった地域であり、その信仰体系の中には現在「屋敷神的要素」「氏神的要素」「生産神的要素」の三つの要素を認めることができる。 本稿で秩父地方を事例とし、この三つの要素を基に妙見が地域に果たす役割と地域の人々の妙見への思いについて調査したところ、次のような傾向を認めることができた。 一つ目の「屋敷神的要素」については、秩父市中宮地にある関根家の敷地内に祀られている「妙見塚」と周辺地域に伝わる妙見を調査した。その結果、「妙見塚」と宮地地域に伝わる妙見は、関根家の屋敷神的存在であるとともに地域の屋敷神的存在として代々守り伝えられていた。二つ目の「氏神的要素」については、秩父神社を災いから守るために祀られたと伝えられる「秩父七妙見」の一つである身形神社を調査したところ、妙見に対する地域の人々の意識は以前と変わらず、今後も妙見を守り伝えていく心意気を持っていた。三つ目の「生産神的要素」については、妙見の祭祀である秩父神社の「御田植際」と「秩父夜祭」を調査した。この二つの祭祀に係る人々は、現在、秩父市内で農業や商業・加工業等、主に生産業に携わっており、妙見への祈りは生産神への祈りとなっている。また、この三つの要素は互いに影響し合う一面を持っていた。 以上の調査を踏まえ、現在の秩父地方の妙見を概観すると次の二つの様相が認められた。一つは「古態の持続性を維持する」妙見であり、「屋敷神的要素」を持つ妙見と「氏神的要素」を持つ妙見の中に伝えられていた。もう一つは妙見の祭祀を媒介とし「地域振興の育成」に貢献する妙見であり、「生産神的要素」を持つ妙見の祭祀の中に伝えられていた。
著者
後田多 敦 シイタダ アツシ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.23, pp.21-45, 2021-09-30

本稿では、首里城(沖縄県那覇市)の正殿正面石階段の登り口両側に設置されていた大龍柱と呼ばれている一対の龍柱の向きを検討した。大龍柱は首里城の特徴を象徴する造形物の一つ。琉球国末期からの大龍柱(3代目とされる)は首里城が接収された以降、破壊と向き改変がなされたため、本来の向きについては二つの見解がある。これまで、向き合う形だとする説(相対説)と正面向きだとする説(正面説)が対立しているが、本稿では首里城接収直前から、近代における大龍柱の向きを検証し、本来の向きは正面向きだったと結論づけた。 琉球国の王城だった首里城は1879(明治12)年に明治政府の「琉球処分」で接収された後、日本軍が駐屯したほか学校や沖縄神社などに利用され、1945(昭和20)年の沖縄戦で破壊された。戦後は一時、琉球大学用地として利用された後、1992(平成4)年には正殿などが復元(平成復元)された。平成復元では「1712年頃再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則」とする方針が採用され、大龍柱は「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記」(1768年成立、以下「寸法記」)などの絵図資料を基に向き合う形(相対向き)で設置された。この正殿を含む復元された建物8棟などは、2019(令和元)年10月31日未明の出火で焼失している。 平成復元が採用した相対説の「寸法記」絵図解読は、首里城接収後に駐屯した日本兵によって大龍柱の向きが正面に変えられたことを前提にしている。本稿ではその前提を検証対象とし、現在確認されている最古の首里城正殿写真(1877年撮影)などから、首里城接収を挟んだ時期以降の明治大正期における大龍柱の形状変化を検討した。そして、向きは日本兵によって改変されたのではなく、沖縄神社拝殿としての正殿修復< 1928(昭和3)年から1933(昭和8)年>で相対向きに変えられる以前は正面向きだった事実を示した。その上で相対説の「寸法記」絵図理解の前提が成立しないことを実証し、相対説は絵図資料を「誤読」していると指摘した。 これらの検証を通し、本稿は3代目大龍柱の「本来の向き」は、平成復元が基準とする1768年から正面向きだったと結論づけている。
著者
佐々木 長生 ササキ タケオ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09-30

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。
著者
田島 奈都子 タジマ ナツコ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.35-72, 2021-03-20

本稿は中国のポスター史の黎明期に当たる、1880 ~ 1920年代半ばに製作された中国語表記のポスターを研究対象とし、それらに見られる特徴について、考察・検証したものである。この時代については、現存作品が極めて少なく、そのことが長らく研究上の足かせになっていた。しかし、2017年から数年にわたって、論者は香港文化博物館とマカオ在住の個人コレクター・蕭春源氏が所蔵する、大量の戦前期のポスターを、中国人女性研究者の呉詠梅氏と共同で、直接閲覧調査する機会を得たことで、多くの新発見を得ることができた。中国におけるポスター史は、現存する作品を見る限り、イギリス系商社である泰隆洋行を依頼主とする、1889 ~ 90年用の作品によって幕が開いた。そして以降も 1920年代後半まで、つまり技術的には製版方法が描画で、その作業に膨大な手間隙と資金を要した時代に、中国のポスター界を牽引したのは、香港や上海を拠点に活動した、貿易に携わる外資系の損害保険、商社、海運、エネルギーの四業種であった。これらは度重なるポスター製作を通して、後世につながる中国製ポスターの基本的な仕様、具体的には四六半切のアート紙を用いて、上段のリボン状の部分に社名を横書きで記載し、下段にカレンダーを配することなどを、実質的に規定・定着させた。ただし、画面中央部のポスター主題に関して述べると、外資系企業は中国の古典や故事に則ったものを選ぶ傾向が強く、これらは清代に製作・流布した蘇州版画と重なる。ところが、1910年代半ば以降になって、ポスターの依頼主として登場した中国人資本の企業は、こうした主題を採用せず、それらは同時代の近代的な風俗画を好んだ。なお、最初期の中国語表記のポスターは、これまで上海のイギリス租界に所在した印刷会社が窓口となって受注し、同社のロンドン工場で製作されたと認識されてきた。しかし、今回の調査によって、早い段階から香港に所在する印刷会社も製作を請け負っていたことが判明した。
著者
姜 明采 Kang Myungchae
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.275-319, 2017-03-20

大正期は、(短い間であったにもかかわらず社会全般に大きな変化をもたらしており、こうした変化に影響を受けた建築界でも、)新しい建築への数多くの試みとして様々な建築様式が登場してきた時期である。本稿は、こうした大正期における建築デザインの動向を検討するため、1924(大正13)年12月22日より1925(大正14)年2月28日まで実施された震災記念堂の設計競技に注目した。震災記念堂の設計競技応募図案は現在、全221案のうち設計競技の当選図案図集である『大正大震災記念建造物競技設計図録』に掲載された36案の当選図案と、震災記念堂の収蔵庫に収蔵されている39案の選外図案の75案が残存している。設計競技の当選図案とこれまで公開されていなかった選外図案の外観デザインを対象に、当時流行した建築デザインの要素とその傾向を考察することを本稿の研究目的とした。立面図や透視図などで外観の形状がわかる74案の応募図案を古典主義風、表現主義風、アール・デコ風、モダニズム風、和風、東洋風の6つのデザイン様式に分類し、各様式で最も多く見られたデザインの要素をまとめた結果、以下のことが明らかとなった。 まず、全体的な外観形状としては、不要な装飾的要素を抑え、ジッグラト風デザインや直線を多く用いて垂直性を強調した計画が多く見受けられた。また、ドーム屋根に左右対称の縦長開口部を多く用いた古典主義風の塔の形状とした「コンペティションスタイル」との類似性も見られ、すっきりしたモダンなデザインと均衡が取れた古典主義風デザインが共存していた様子がうかがえた。更に、その細部には、単純幾何学的装飾の反復と変形アーチの開口部などの装飾の要素を設けられ、設計者の個性を発揮したことが考えられる。こうしたシンプルな外観と個性的な細部装飾のデザイン要素から、大正期における建築デザインの動向が読み取れたと考えられる。
著者
蒋 明超
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.199-221, 2019-09-30

「石敢當」は中国古代の習俗の一つで、一般的に道路の突き当たりや家の壁、橋の入り口などに設置される魔除けや厄除けのための石造物である。石敢當には一般的な石敢當(泰山の文字がない物)と泰山石敢當がある。具体的な出現時期と発祥地は不明であるが、石敢當は唐代末期に今の福建省南部で誕生したと考えられている。宋元時代には北方の山東泰山地域で泰山石敢當が出現した。 中国古代史料の中に、石敢當に関する事柄が頻繁に出ているが、石敢當を建てる習俗の記述を除くと、そのほとんどは石敢當の由来についての解明である。古代資料には泰山石敢當の実物及び泰山石敢當を設定する事情の記述も多くあるが、興味深いことに、泰山石敢當の由来についての記述は一つもなかった。 1970 年代以後、日本でも石敢當に関する多くの書物に中国の石敢當が書かれているが、その研究は主に中国南方に限られており、単独で泰山石敢當を対象にしたものは特に行われていなかったといえる。一方で、同時代の中国の石敢當研究は、まさに泰山石敢當ブームであったともいえる。現時点では、中国においても、日本においても、石敢當と泰山石敢當を分けて比較する研究はほとんど行われていない。 本稿では、中国北方と南方における石敢當のフィールドワークを通し、先行研究の資料と併せて各地域の石敢當の様子、石敢當と泰山石敢當の割合、地域住民の石敢當に対する認識などを調査し、中国南北の石敢當にはどのような異同があるのかを究明したい。中国の地理テキストは秦嶺―淮河を境界線にして、中国南方と北方を分けている。本論文で使用する中国南方と北方はおおよその範囲であり、必ずしも地理定義のように精確なものではない。なお、中国少数民族集住地域と山東省、福建省、浙江省など漢民族集住地域の石敢當はまた違うため、本論文では少数民族集住地域を対象外とする。調査地域は、中国北方の山東省泰山地域と南方の福建省中南部地域を選定した。
著者
下地 和宏 シモジ カズヒロ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-30, 2020-01

日本の神社には鳥居、狛犬、灯籠、拝殿、神殿などの付属施設が建設されている。沖縄の宮古の御嶽の奥中央にはイビ(威部)と呼ばれる御神体の石が安置され、神が鎮座すると考えられている。他に複数のイビがある。これは遙拝の神である。イビ手前の広場が神庭であり、ここに祭祀のために籠る祭祀小屋が設けられている。宮古には800余の御嶽があるといわれる。多くの御嶽は神社風に施設が建設され変化しているが、厳かなる場所に変わりはない。 「琉球併合」後の沖縄の近代化は、「忠君愛国」の教育とともに歩んできた。「教育勅語」の暗唱、「御真影」への最敬礼、宮城遙拝、天皇陛下万歳三唱などを強制されてきた。いわゆる「皇民化教育」の洗礼を受けた人々が、日本への「同化」に向けて、多くの住民が参詣する由緒ある御嶽の「神社化」を図った。鳥居、灯籠を建立、籠り屋を拝殿に、イビを神殿に改築し神社風に変えた。とりわけ鳥居は御嶽(神社)への入り口として象徴的に扱われた。鳥居建立の風潮は戦後も引きずることになる。むしろ拡大し、御嶽に神社と表記する地域も見られる。今や鳥居は違和感なく御嶽に建立されている。老朽化した神明系の鳥居は明神系に再建される傾向にある。招待論文
著者
加治 順人 カジ ヨリヒト
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09-30

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。