著者
劉 守軍
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.67-82, 2011-12-20

宇都宮徳馬は, 第二次世界大戦後, 外交問題を中心に活躍し, 日ソ・日中・日朝国交回復に尽力し, 保守政治家の中でも数少ないリベラリストとして知られる. しかし, 彼は戦前に日本共産党に加入し, 「転向」をへて, 企業を営みながら官僚統制批判の言論活動に従事したという, 異色の知識人・自由主義思想家でもあった. このように日本の知識人の「政治」や「社会主義」, 「平和」に対する一つの特徴を示す存在である宇都宮について, 従来日本では, 一次資料にもとづく充分な検討がなされてこなかった. ことに, 戦後における彼の活動について, 思想史的な追及は不充分である. こうした研究状況を踏まえ, 本稿は戦後から1949年政界進出にいたるまでの宇都宮の思想と行動に焦点をあて, 戦前・戦中における官僚統制や軍部独裁への批判との連続性を意識しつつ, 戦後における彼の思想的立場, とりわけ戦後経済再建に関わる政策論の特徴とその史的位置を確認する.
著者
三宅 香帆
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.28, pp.205-213, 2019-12-20

萬葉集巻二に収録された石川女郎と大伴田主の贈答歌は, 女郎を家に泊めずに帰した田主が「風流士(みやびを)」であるか否かを詠んだ歌群である. 本稿は, 二人の歌が指す「風流」の内実を明らかにするとともに, その差異がいかなる点に依拠していたのかを考察した. 従来一二六-一二八番歌群は, なぜ二人の間で同じ行為に対して評価が異なるのかという点が疑問視されてきた. この問いについて本稿は, 石川女郎の行動の典拠として想定する漢籍は, 従来指摘されてきた『文選』のみでは不十分だと考える. そこで左注を含む当該歌群の持つ論理を明らかにするための作業仮説として, 『文選』だけでなく『遊仙窟』も石川女郎の「風流士」像に影響を与えていたとし, その上で当該歌群の解釈を提示した. まず左注における石川女郎の「火を取る」行為, 「鍋」を提げて来た理由を, 『遊仙窟』の文脈を踏まえて検討する. そのうえで贈答歌について, 石川女郎の一二六番は主に『遊仙窟』と『文選』の文脈を援用するのに対し, 大伴田主の一二七番は『文選』のみを援用していることを示した. つまり両者の「風流士」像の相違はそれぞれ典拠とする漢籍が異なっていた点から生まれたものであった. そして『文選』『遊仙窟』それぞれに代表される「風流」の価値は, 大伴田主と石川女郎という人物に託して対比されていたことが分かる. 一見, 雅俗の極致のように見え, 並列した典拠とするには不釣り合いな『文選』と『遊仙窟』であるが, 当該歌群はその二つの漢籍を典拠としてあえて対にすることによって, 「風流」という言葉に込められた二つの意味を提示した. 「風流」という語彙を共有しながら, その中で雅俗が対になって提示される構造こそが当該歌群の注目すべき点であろう.
著者
杉山 博昭
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.59-77, 2010-12-20

本論は, 十五世紀フィレンツェで上演された聖史劇を手がかりに, 同時代の図像に「何が起きているのか」を検証するものである. シャピローやパクサンダールが指摘したように, 演劇から 図像へという一方通行の即応関係を「実証的」に明らかにすることは困難であるしかし, 図像の「源泉」や「典拠」への拘泥を留保し, 再構成が進められてきた聖史劇についての研究成果をふまえるならば, 演劇と図像のあいだに存在した「反復」や「再演」といった, 双方向の照応関係を発見することが可能となる. まず, 絵画的リアリティに埋没しない演劇的リアリティを帯びた図像中の記号に注目する. 実際の聖史劇の舞台に用いられた記号群が描きこまれることで, 図像中に異質なふたつのリアリティが並び立つ. このリアリティの落差が呼び起こした聖史劇の見物客の眼差しは, 図像の鑑賞者の眼差しへと重ねられたのだ. 次に, 図像のなかに描かれた超常的な光, もしくは点光源の描写に注目する. 聖史劇『昇天』や『受胎告知』などの演目におけるイルミネーションの演出は苛烈を極めた. 図像資料に確認される, 天井に鎮座する神の周囲の光, 天球の表現などは, まさしくこれらのランプや花火の効果の「反復」と考えられ, 鑑賞者と見物客の経験が接近し得たことを示す. さらに, 図像を構成する時空を, 聖史劇の舞台が組織した時空と比較検証する. 聖史劇の時間は, 遅延し, 停滞し, 回帰する特徴を帯び, 演技空間は収縮と拡張を繰り返す. また, 聖史劇の見物客は, このような時空に, 身体ごと参与するよう要請された. そのために, 同じような前近代的な特徴を帯びた図像の前に立っとき, 見物客でもあった鑑賞者の受容は, 重層的なものとなったに相違ないのだ.

3 0 0 0 IR 三日月と待月

著者
陳 馳
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.29, pp.93-103, 2020-12-20

三日月は太陽の光を反射する角度により, 一ヶ月の中で最初に夜空に出てくる月である. 国文学では三日月はなかなか待月と結びつきにくいが, 中国では一ヶ月中, 全ての月が待月の対象となっているため, 中国の漢詩文には三日月の待月は存在する. 平安時代において, 三日月の待月の国文学の例は見られないのに対して, 漢詩文では, その受容は一時見られるが, やはり広く浸透しなかったのである. その原因は, 平安時代において, 待月といえば満月以降の月という印象が強すぎたためと考えられる. しかし, 鎌倉時代に入ると, 初秋の三日月という表現から派生した, 悲秋観を表す待月の例が見られるようになった. さらに時代が下ると, 三日月の待月は春の三日月も詠まれるようになって発展を遂げた. ただし, いずれの三日月の待月は, 漢詩文の表現と通じる部分があるが, 独特な感性が感じられる, 日本独自の観月の表現であり, 漢詩から受容したものではなかったと言えよう.
著者
池野 絢子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.47-58, 2010-12-20

本論は, 戦後イタリアの芸術家ジュリオ・パオリーニ(1940生)の初期作品の考察を通じて, 芸 術作品における「作者」のありょうを一考するものである. パオリーニは, 1960年代のはじめに, イメージを排除する反イリュージョニズムの作風で出発するのだが, 67年以降, 彼の作品には写 真複製された過去の巨匠たちの絵画が登場し始める. このような写真複製の利用は, とはいえ, 単純に過去の作品の「引用」として片付けることはできない. というのも, その制作において問題化されているのは, 既存のイメージを新たなイメージの一部として制作に応用することではなく, むしろあるイメージを複数の作者たちに結び、つけることだと考えられるからだ. ロラン・バルトの名高い「作者の死」(1968) と相前後して発表されたパオリーニの作品にあって, しかしながら「作者」は, 完全に葬り去られたとも, 単純に回帰したとも言いがたいように思われる. 本論では, パオリーニの制作の展開を追いながら, 芸術作品における「作者」の所在を再考する端緒を探りたい.
著者
伊藤 弘了
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.75-90, 2017-12-20

本論文では, 是枝裕和『海街diary』の記憶表象が持つ映画史的な意味について, 理論的な言説を参照しながら明らかにし, それが映画の観客に及ぼす作用を分析する. 『海街diary』の記憶表象を考えるにあたっては, 是枝が小津安二郎から受けた影響を踏まえることが有効である. 小津と是枝の映画における演出上の重要な共通点として, フラッシュバックの排除と視線の等方向性の強調が挙げられる. 第1節では, 是枝と小津の映画におけるカメラが非人称的な存在にとどまっている点を確認する. カメラの非中枢的な知覚と人間の中枢的な知覚は別のものであり, 両者を同一視するところに映画のごまかしが生まれる. 第2節では, 是枝と小津の映画が映画のごまかしを避けるために, フラッシュバックを伴う主観的な回想シーンを排除したことを指摘する. 第3節では, 小道具としての写真に注目する. 是枝や小津の映画では, 画面上に写真が映ることがほとんどない. その理由について, ロラン・バルトやヴァルター・ベンヤミンの議論を参照しつつ, 写真と記憶の違いについて考察し, 是枝の『海街diary』では記憶の重視が徹底されていることを論証する. 第4節では, 写真との関係から視線の等方向性を問題にする. 複数の登場人物たちが同じ対象に視線を注ぐ場合, 見られている対象が重要なのではなく, 一緒に見ているという経験自体が意味を持つ. そこでは視覚の不一致よりも記憶の共振が重視される. 第5節では, 不可視の写真をめぐる序盤と終盤のシーンの分析を通して, 視線の等方向性の綻びが, 登場人物と映画観客に悟りの経験をもたらす仕掛けを明らかにする.This paper clarifies the historical meaning of the memory representation in Kore-eda Hirokazu's Umimachi Diary with reference to the theoretical discourse, and analyzes its effect on the spectator. While considering the memory representation of Umimachi diary, it is beneficial to examine Ozu Yasujiro's influence on Kore-eda. Kore-eda inherits from Ozu the elimination of flashback and the peculiar structure of looking in which characters look at the same object, which is not revealed by the camera. In Section 1, I confirm that the cameras of Kore-eda and Ozu have an impersonal presence. The non-centered perception of the camera and the central perception of the human being are distinct from each other, and a film can cheat by identifying one with the other. I argue that this idea allows both Ozu and Kore-eda to eliminate subjective recollection scenes with flashback. In Section 2, I examine the problems involved in the use of flashback, and analyze how Kore-eda and Ozu endeavored to avoid the issue, believing that it would constitute a compromise of the artistic integrity of their films. In Section 3, I focus on the use of photographs as props. The films of Kore-eda and Ozu feature few photographs on the screen. Therefore, I not only examine the difference between photographs and memory by referring to Roland Barthes and Walter Benjamin but also demonstrate the importance of memory in Umimachi diary. In Section 4, I consider parallel looks with regard to the motif of photographs. When characters cast their eyes on the same object, the object being viewed is not important ; rather, the experience of watching them together is significant. Therefore, frequent emphasis is placed on memory resonance rather than real sight. In Section 5, I analyze the scenes at the beginning and end of the invisible photographs to clarify the mechanisms where the disorderliness of the parallel looks provides an experience of enlightenment to the characters and audiences.
著者
早瀬 善彦
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.21, pp.175-190, 2012-12-20

政治哲学者レオ・シュトラウスの提示した論点は数多いが, なかでも, もっとも重要なテーマの一つが披のレジームをめぐる議論である. シュトラウスによれば英語の「レジーム」という言葉の語源はギリシャ語の「ポリテイアJにあるが, このポリテイアとは, 本来いかなる法律よりも一層根本的なものであり, また社会に性格を与える秩序であると同時に, その形態でもあった. 小論の日的は, こうしたレジームという観念がもっ原理の重要性を考察することである. はじめにレジームと社会の関係から, 善き生き方とレジームの関係をみつつ, レジームの起源が人為的力にあることを明らかにする.次に, 善きレジームの形成の問題についてシュトラウスの『国家』解釈を通し明らかにしていく. そして, 最後に, 哲学者がレジームを越えていくという論点を提示し哲学と政治社会の関係はどうあるべきかという問題に一定の結論を提示する.
著者
MICHISHITA Toshinori TAKAHASHI Teruo
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-15, 2018-12-20

This paper presents a new strategy which allows us to achieve a successful Foucault pendulum with a portable and free-standing device developed. A numerical calculation for the two-dimensional Hamilton's equations predicted that the pendulum realizes the ideal Foucault performance when the time-averaged action vanishes. Experimental results strongly confirmed the numerical prediction from measurement of the action as a function of the distance between the control magnets. The device has performed the Foucault pendulum with the sufficiently accurate and reliable rotation rates corresponding to the latitudes. Independency of latitude for the optimal condition to the device was verified by the measurement of the rotation rates of the pendulum at different latitudes. Limit cycle and locking phenomena for the pendulum rotation were observed depending on the distance between the magnets. A criterion for their occurrences was examined by using the Adler equation.
著者
町田 奈緒士
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.17-33, 2018-12-20

トランスジェンダーとは, 自らがある性別に属しているという自己イメージを意味するジェンダー・アイデンティティが, 出生時の性別に一致しない状態として定義されている. 従来のトランスジェンダーに関わる研究では, 性ないし性別違和は, 個人の内部にあるものとして語られてきた. しかしながら, 性とは, 他者との関係のうちに立ち上げられてしまうような側面があるのではないだろうか. 本論文は, 性ないし性別違和を関係論的な視座から捉え直すことを目的とし, 対話的自己エスノグラフィと語り合い法というアプローチを用いて調査を実施した. その結果をもとに, <器>という記述概念を導入し, それと類似概念との整理を行い, 他者とのあいだでどのように性別違和が体験されるのかについて論じた.
著者
藤原 征生
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
no.28, pp.81-92, 2019-12-20

『地獄門』(衣笠貞之助, 1953年)は, 戦後日本映画の国際的躍進の端緒として, あるいは日本映画のカラー化の嚆矢として, 映画史上に一定の評価を得ている. しかし, この作品の映画史的・音楽史的重要性は芥川也寸志による音楽にも見出せる. そこで本稿は, 『地獄門』の音楽的特徴を, 同時代の映画音楽からの影響による共時的要素と, 芥川の後年の映画音楽にも存在する通時的要素に分けて指摘したのち, 『地獄門』の音楽と芥川の代表作<<交響曲第1番>>が「モティーフの流用」という点で強い繋がりを持つことを示す. <<交響曲第1番>>は, 芥川が團伊玖磨・黛敏郎と結成し音楽史に大きな足跡を遺した「3人の会」の初回演奏会で初演された. 興味深いことには, 同曲は『地獄門』と同時期に成立しただけなく, 同根の音楽動機を持っていることが確認できる. かくして, 従来『地獄門』を巡ってなされた議論からは導き出され得なかった視点, すなわち戦後日本音楽史との繋がりから作品の再評価を提示する.As a landmark in Japanese cinema's overseas advance or as one of the earliest successful color motion pictures in Japan, Gate of Hell (dir. Teinosuke Kinugasa, 1953) has received a certain appreciation in the film history. However, its music composed by Yasushi Akutagawa has been overlooked. This essay firstly points out the characteristics of the music of Gate of Hell in both 'synchronic' features, that is, influences from other film music of the times, and 'diachronic' features which can be found in his later film music. Then I show how the music of Gate of Hell is strongly connected to his Prima Sinfonia (1954/55) in terms of the reutilization of motifs and the similarity of thematic. Prima Sinfonia was premiered at the first concert by San-nin no Kai (「3人の会」). Sannin no Kai, a collective formed by three composers, Akutagawa, Ikuma Dan, and Toshiro Mayuzumi in 1953, left big marks on post war Japanese music culture. What's interesting is that both Prima Sinfonia and the music of Gate of Hell, composed around almost same time, use the same motif. Thus this essay reevaluates Gate of Hell from a viewpoint of the connection with the history of music in post war Japan which has been scarcely mentioned by former studies.
著者
谷川 嘉浩
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.89-99, 2018-12-20

本稿は, 経験を書くこと, 生活を記録することをめぐる鶴見俊輔の思想を探索する. 彼の思想を貫くのは, 日本の知識人が状況変化に応じて態度転換していったことへの批判である. その場の解答をなぞるだけの優等生は, 知的独立性を失いがちなのだ. これへの対処として, 自身の経験に基づく作文に鶴見は注目した. 本稿の目的は, 自己を含む状況全体を相対化する契機を, 鶴見がどのように確保したのかを明らかにすることである. 彼の「方法としてのアナキズム」に基づき, 生活綴方論以降の彼の作文論で, 当初の想定と現実との齟齬への注目が重視されること, そして, 齟齬と対峙する人間の力を「想像力」に帰したことを明らかにする. さらに, 想像力が繰り返し立ち返る場となるように, 鶴見が提出した経験を書く際の基準について, 後年展開された彼の文章論を踏まえて論じる.