著者
中村 晃 ナカムラ アキラ Akira NAKAMURA
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.1-20, 2004-06-30

現在まで自己愛(narcissism)の概念に関しては多くの議論が重ねられてきているが,また同時に混乱が多い分野であることが知られている。その混乱の最も大きな原因は,自己愛そのものの定義が研究者によって異なっており,「自己愛」という用語がさまざまな意味で使われていることが挙げられる。そこで本研究では,今までの自己愛に関する議論を整理することを目的とした。特にこれまで重ねられてきた議論をふまえ,自己愛の健康的・適応的な側面と,不健康的・不適応的側面の本質的な差異に注目し,自己愛の構造を検討した。その結果,健康な自己愛(self-love)と不健康な自己愛(narcissism)に分けて考えることの重要性が指摘された。また,不健康な自己愛の表れ方には,大きく分けて「誇大型」と「過敏型」の,一見正反対の性質のように見える2種類に分類できることが示されたが,両者に共通する性質として「他者が待つ自分に関する評価への関心の集中やこだわり」があり,これが不健康な自己愛の本質であることが考えられた。このようにこれまでの自己愛の定義にある「自分自身に対する関心の集中」を,「本当の自分自身に対する関心」と「他者から見られる(評価される)自分に対する関心」の二つの側面に分けることが自己愛の健康性を考えるうえで重要であることが考えられた。

2 0 0 0 OA 奪われた王妃

著者
花田 文男 ハナダ フミオ Fumio HANADA
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.13-44, 2011-03
著者
水野 均
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.21-41, 2004-06

『朝日新聞』は1960年における日米安保条約の改定に際して,「日本が関係のない戦争に巻き込まれないと同時に,米軍の対日防衛をより強固なものとする」ことを要求し,世論の啓発に臨んだ。当時の日本国内には社会党を中心に「日米安保条約を廃棄して非武装中立による日本の平和を実現しよう」とする動きもみられたが,『朝日新聞』はそれを「実現の可能性が乏しい」と終始批判し続けた。また米国と対立する中ソ両国からの「安保条約の廃棄」を求める「外圧」に対しては,日本政府と共に強く反発する姿勢を崩さなかった。さらに国会が改定安保条約を批准する際に生じた激しい抗議運動には,日米関係の動揺を避けるために事態の鎮静化を求めた。しかし日本政府の実現した改定安保条約は,米国の対日防衛を強化するのに成功した反面,日本の対米防衛を明文化しなかった代償として,「極東における米軍の活動」等の便宜を供与する形を旧安保条約から引き継ぐことを余儀なくされた。こうした日米安保条約に基づく日本の対米依存構造は,日本の米国への便宜供与を一層強化する一因となっていった。
著者
箕原 辰夫
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.37-51, 2009-09
著者
塩谷 透
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.103-124, 2003-12-31

リューティはフォルクス・メールヒェンの独自性は個々のモティーフにではなく,それが語られる様式にあるとして,その様式の特性を表す様々な概念を提唱した。それによって彼が目指したのは,他の口承文芸のジャンルとの相違を,語りの様式を通して明確にすることであったが,同時に,一定の様式を持つものとしてメールヒェンを文学の一つのジャンルとして認知させることでもあった。その際,彼はヴォリンガーの抽象芸術についての理論に依拠した。ヴォリンガーは未発達なものと評価されていたエジプトの美術などを抽象衝動という観点から解釈し,稚拙と思われることが一つの様式の必然的な結果であり,ギリシアやルネッサンスの美術とは異なった基準で評価されねばならないと論じた。この美学は,同様の評価の下に置かれていたメールヒェンに対して,小説などに対するのとは異なる評価と理解の基準を構築することに努めていたリューティにとっても有効なものだったのである。
著者
郭 莉莉
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.89-105, 2005-06-30

張潮の『幽夢影』は明代晩期,及び清代に盛んに作られた「清言小品」という形式の作品の一つである。「小品」は明代と清代を代表する古典文学形式であり,「小品文」とも呼ばれ,「詩」,「詞」,「曲」などの韻を踏む文体と相対して,韻を踏まない「散文」である。このような明代・清代の「小品」という文学の中に,さらに「清言」という独特の文学形式が存在する。「清言」の厳密な定義は存在せず,当時自らの「小品」の作品を特に「清言」(もしくはそれに類似する呼び方)と呼んだ作家も厳密な基準は持ち合わせていなかったものと思われるが,一般的には短くそして警句のようなものを「清言」としていた。内容は,清雅と思われる文人の趣味,書,画などを含む芸術品の鑑賞や,無欲であり,清高と思われる老荘思想,仏教思想に基づいた人生に関する格言などがある。明代や清代の「清言」作品の中で,日本で最も広く知られているものは『菜根譚』であり,版本の違う日本語注訳を入手することは容易である。それに比べ,思想内容や文学形式の面から見てもそれに価値相当する他の「清言」作品の注訳は少ない。本稿は当時また近代の中国では知名度の高い張潮の『幽夢影』から二十五条を選び,日本語の注訳を付ける。
著者
杉浦 一雄
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.66-48, 2009-03
著者
宮田 大輔 ミヤタ ダイスケ Daisuke MIYATA
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.183-191, 2015-10
出版者
千葉商科大学国府台学会
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.1-150, 2022-07-31
著者
花田 文男 ハナダ フミオ Fumio HANADA
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.17-38, 2004-12-31

殺害者がいると死体は血を流す,血を流して殺害者を告発することは中世人にとってはあり得べきことであった。古くから受け継がれた伝承,信仰であると同時に事実の認識であった。中世の歴史家はたびたびその事実を報告している。おそらく死者にも意思が存在するという信仰の名残りであろう。とりわけ非業の死をとげた者ほど強い意思,うらみが残った。このモチーフを文芸作品の中ではじめて用いたのは12世紀後半のクレチアン・ド・トロワである。『イヴァン(獅子の騎士)』では,イヴァンは致命傷を負わせた騎士を追ってかえって城の中に閉じこめられる。魔法の指輪によって姿の見えなくなったイヴァンの前を騎士の遺体が通ると,遺体から血が噴き出す。遺体から血が流れているのに,犯人が見当らないことに周囲の者は不思議に思う。作者がどこからこの想を得たかは不明にしても,殺害者が自ら殺した者の葬列の場に居合わせざるをえないという状況がこのモチーフを用いさせた動機となったのではなかろうか。彼の追随者たちは好んでこの主題を取り上げるが,師ほどの成功を収めることはなかったようだ。
著者
三枝 昌幸
出版者
千葉商科大学国府台学会
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.155-172, 2021-11-30