著者
白峰 旬
出版者
別府大学
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.53-83, 2005-03

挿図あり

16 0 0 0 IR 大分は戦犯県か

著者
辻野 功
出版者
別府大学
雑誌
別府大学紀要 (ISSN:02864983)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.A115-A127, 2007-02-15

挿図あり
著者
平尾 良光 飯沼 賢司 村井 章介
出版者
別府大学
雑誌
新学術領域研究(研究課題提案型)
巻号頁・発行日
2009

10~17世紀における日本の銅や鉛の生産と流通に関して、経筒、梵鐘、鉄砲玉やキリスト教関連遣物などの実資料に関する鉛同位体比から、それら資料の産地を推定し、銅や鉛の流通の実態を明らかにした。特に16世紀後半以降においては火縄銃の弾や銀生産のために、戦国大名にとって鉛は必須の材料であった。鉛の急激な利用増のため、外国産鉛の流入が日本の歴史に大きな影響を与えたことが明らかになった。
著者
安松 みゆき
出版者
別府大学
雑誌
別府大学大学院紀要 (ISSN:13450530)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.A37-A54, 2001-03

挿図ありCacilie Graf-Pfaff (1862-1939), moderne deutsche Malerin, die zwar offensichtlich enge Kontakte ze dem dritten Reich, aber auch zu dem japanischen Maler Naojiroh Harada und dem Schriftsteller Ohgai Mori hatte, ist auch durch ihr "Japanisches Gespensterbuch" bekannt. In diesem Beitrag wird daruber hinaus ihre tiefe Kenntnisse der japanischen Kunstszene unter Beweis gestellt. Das Buch "Japanisches Gespensterbuch", das Ihr wissenschaftliche Erfolg zeigt, gilt nicht nur als die kostbaren Materialien fur die japanische Literatur und Volkskunde wegen der Genauigkeit der darin beschriebenen japanischen Legenden, sondern auch als die raren, um die damalige Ukiyoe Sammlungssituation in Deutschland zu wissen, wegen der vielen Abbildungen in diesem Buch, die meisten Ukiyoe sind und die Sammlern in Deutschland gehoren.
著者
上野 淳也
出版者
別府大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

日本へ大砲(後装砲)が伝来した過程とその展開を明らかとする為、欧州・東南アジア及び国内で実測と金属サンプルの採取調査をおこなった。ロシア砲兵博物館では、大友宗麟のものとされる大砲の分析結果を発表し、フランス軍事博物館及び王立ベルギー軍事博物館では戦国武将藤堂高虎と佐竹義宣のものと考えられる和製大砲を発見した。国立マレーシア博物館ではイスラム砲の調査を、ポルトガル・スペインでは伝来大砲のルーツに関する調査を実施した。戦国時代の和製大砲は、西欧砲にルーツを持ち、伝播過程において東南アジアのイスラム系技術がこれに大きな影響を与えて成立したものである事を、理科学的な裏付けをもって説明できた。
著者
篠塚 二三男
出版者
別府大学
雑誌
芸術学論叢 (ISSN:09143149)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.39-75, 1997-02-28

挿図あり
著者
福永 素久
出版者
別府大学
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.37-59, 2007-03

挿図あり
著者
中川 佳奈
出版者
別府大学
雑誌
史学論叢 (ISSN:03868923)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.A50-A63, 2006-03
著者
安松 みゆき
出版者
別府大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、ドイツ第三帝国時において日本美術がどのように受容されたのか、その展開を考察するものである。近代のドイツにおいて最も日本と緊密な関係を保持したのは、日本と同盟を結んだドイツ第三帝国の時期であった。この時期にドイツは美術や文化を政治戦略に組み入れており、第一次大戦時には帝国であった日本のイメージを変えるためにも日本美術もその戦略と無関係ではなかったはずだが、そうした問題意識が従来認められず、研究にはいたっていなかった。本考察では、特に政治戦略の問題に焦点をあてて検討をすすめた。その結果は、学術雑誌にまとめているように、つぎのような内容となった。第一に、1939年に日本美術受容の最大のイベントとなったベルリンでの日本古美術展覧会が開催されたのち、ドイツでは、民衆をキーワードとして、美術をとおした交流でなく、映画などの文化という、より幅の広い分野において日本との密接な関係を保持していったことが、ドイツの美術史家ルムプフと日独文化協会の活動によって明らかになった。第二に、文化協定の下で開催された展覧会の再考をとおして、美術品が政治性を担うことでその意味と質を変えていくことを確認し得た。その際に、展覧会が政治性を強く帯びるのは、ドイツ政府が後援となったときよりも、ドイツの宣伝省がかかわった例であったことが把握できた。第三に、第三帝国時の主要都市であるベルリンとミュンヒェンの文化的歴史をふまえて考察することから、日本美術がベルリンでは美術史家の中心的活動によって、西洋美術と同等の価値を与えられて理解されたのに対して、ミュンヒェンでは、美術をも包括する民族学の文脈で把握されていたことを確認し得た。第四に、日本美術を、西洋美術と同等のレヴェルで評価した研究は、ユダヤ人の日本美術研究者の成果に多くを追うことを理解した。第四に、新たに入手した映像資料をとおして、メディアを活用して日本美術が政治的に利用されたことを確認した。
著者
段上 達雄
出版者
別府大学
雑誌
別府大学大学院紀要 (ISSN:13450530)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.53-73, 2008-03