著者
長森 美信
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.1-32, 2020-02

壬辰丁酉(文禄慶長)の戦乱(1592~98年)によって多くの朝鮮人が日本軍に連れ去られた。朝鮮政府は,彼らを被擄人(被虜人)と呼び,その「刷還(送還)」につとめたが,17世紀前半までに帰国したことが確認できる被擄人の総数は6000人余りという。数万人とされる被擄人の大部分は異域・異国で暮らすことを余儀なくされたのである。被擄人のうち,有田・萩・薩摩などで陶磁器生産に従事した陶工や一部知識人等についての研究が蓄積されているものの,一般的な被擄人たちの定住過程については不明な点が多い。被擄人の大部分は自ら記録を残すことがなかったからである。本稿では,日本で洗礼を受けてキリシタンとなった被擄人の記録,すなわち,16世紀末~17世紀に日本で活動した宣教師の記録と17世紀前半の長崎平戸町の人別帳史料を通して,朝鮮被擄人が日本に連行され,定住していく過程を考察した。
著者
石村 広明
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.41-57, 2020-02

In this paper, clarified the high school baseball culture that approve "pitching too much". One of the problems of high school baseball in Japan is "pitching too much". As a countermeasure, "pitch count limits" has not been implemented. Fans feel the appeal of "hometown" and "hard" in high school baseball. Such factors have created the ideal games for high school baseball. And fans think that "pitch count limits" loses the appeal of high school baseball. That's one of the reasons against "pitch count limits". However, it is clear that "pitching too much" has an adverse effect on the body of high school baseball players. This is a problem that should be tackled not only in high school baseball but also in the entire Japanese baseball world. High school baseball is the yearning and goal of many baseball boys and girls. And high school baseball has a great influence. The most effective reform is to change the high school baseball world. Even if the game of "pitch count limits" becomes basic, there is a possibility that a new appeal will be born there.
著者
山倉 明弘
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.29-57, 2020-10

1790年に初めての帰化法を制定した合衆国議会は,帰化の資格を「自由白人」であることとした。アメリカ人の境界を定めるのに人種という基準を用いていた162年間の始まりである。奴隷制の存続を巡って戦われた内戦の後に行われた革命的政治変革により,それまでの帰化諸法は改正され,帰化の資格に「アフリカ生まれの外国人とその子孫」であることを加えた1870年帰化法が成立したが,その審議において,奴隷制廃止運動の急進派のリーダーであった上院議員が帰化要件から「白人」の語を削除することを提案し,それが中国人を「アメリカ人」の境界内に編入することを意味したために審議は大いに紛糾し,結局中国人の帰化は明示的に否定された。本論は,1860年代末までの帰化を巡る合衆国の動きを法的な側面を中心に概観したうえで,1870年帰化法審議の歴史的意味を考察する。
著者
中袮 勝美
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.1-28, 2020-10

バルバラの代表作のひとつで,「独仏和解の歌」としても知られるGöttingenには,フランス語版のほかにドイツ語版(1967年)があり,作者は後者にも格別の愛着をもっていた。小論では,これまで十分な光が当てられてこなかったドイツ語版の成立を,独仏文化交流史における興味深い事例として捉え,さまざまな立場でドイツ語版LPの成立に関与した人々の具体的なやりとりを観察することで,1960年代半ばの西ドイツのポピュラーソング界におけるフランス志向について考察した。また,小論の後半では,バルバラがステージで初めてドイツ語版を披露したゲッティンゲンでの「凱旋コンサート」が実現した経緯をたどるとともに,バルバラが書いたオリジナルの歌詞とブランディンの訳詞を比較し,訳詞の特徴と訳者のねらいを明らかにした。
著者
中村 久美
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.71, no.1, pp.41-65, 2019-10

真珠はシェイクスピアにおいて特徴的な使われ方をしている。クレオパトラがアントニーとの晩餐で,王国が買えるほどの高価な真珠を酢に溶かして飲んだという逸話が大プリニウスの『自然博物誌』に記録されているが,シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』にはこの有名な逸話は登場せず,逆にクレオパトラはアントニーから別れの餞別に真珠を贈られる。また,『ハムレット』では,国王クローディアスがハムレットの健勝を祝して盃に真珠を入れるが,ハムレットはその盃を口にすることはなく,母ガートルードがそれを飲んで死に至る。『リチャード3世』や『あらし』では,罪人の集めた真珠は当人の元に長く止まることなく,再び海の底に戻る。シェイクスピアにおいては真珠を所有する資格のない者や,粗末に扱う者には天罰が下るのである。このことは,真珠の価値が富にあるのではなく,その象徴するところの純潔と美徳にあることを示している。同時にそれは真珠好きで知られる時の女王エリザベスがスペインの無敵艦隊を破り,英国に富と繁栄をもたらしたことがエリザベスの純潔性に由来することを象徴的に示そうとしたものと解釈できる。象徴としての真珠の起源は聖書における「天国の門」「豚に真珠」の例にまで遡るが,その純潔,高貴,美徳のイメージは,中世の真珠詩人(Pearl Poet) にも引き継がれるなど,十字軍遠征以後ヨーロッパ中に広まり,「庶子」エリザベスが国内外に女王としての正当性をアピールするのに欠かせない道具であった。これを反映してか,シェイクスピア作中の人物が真珠をどのように扱うかは,その人物の善悪や貴賎を知る一種の試金石となっている。
著者
渡辺 優
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.1-28, 2018-10

今日の人文社会科学全般に巨大な足跡をのこしたミシェル・ド・セルトーであるが,領域横断的なその業績を包括的に理解しようとする試みはいまだ少ない。本稿は,彼の言語論を軸に「ひとつのセルトー」像の提示を試みる。神秘主義の言語論からはじめて,彼のキリスト教論の重要性を強調し,「パロール」をめぐる思考を追跡する。それは,経験と言語活動の乖離という,キリスト教および文化の危機をめぐる先鋭な問題意識に裏打ちされていた。パロールをめぐる彼の「神学的」思考は,1970年代以降,歴史記述論や日常的実践論を通じて西欧近代の学知の根本的な問いなおしへと展開してゆく。「他者のパロール」を求め続けた彼の思考は,それ自体,「宗教」が学知のうちで「思考不可能なもの」となった時代の宗教言語論である。
著者
中村 久美
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 = Tenri University journal (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.77-92, 2017-02

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の序文では,鏡がこの作品を読み解く鍵であることを暗示する文章が並ぶ。鏡自体,ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』や,ギリシャ神話のメドゥーサ退治に使われた鏡のように,一種魔術的な要素を持ち,虚像と実像の乖離を本来的に内包するものだが,この作品においては肖像画が鏡の役割を果たすというひねりを効かせており,「誠実」な人間と「真実」の人間という世紀末的対立を際立たせている。肖像画が魂の真実を映し出す時,鏡に映っているモノとはいったい何なのだろうか。本稿では夏目漱石の『幻影の盾』もヒントにしつつ,『ドリアン・グレイの肖像』を中心にワイルドにおける鏡と真実,ほんものとにせもののありようを探る。