著者
マジェッツ アグネシカ マジェッツ アグネシカ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.135-142, 2013-03

本調査はパイロットスタディーとして位置づけられ、ポーランド語のある単語をカタカナ表記に転写する際、音引きを使うべきか否かという疑問がきっかけで始めた調査である。日本語を母語とする話者に、アクセントのあるポーランド語の単語が長音として聞こえるのか、それとも短音として聞こえるのか、を回答してもらう実験をおこなった。その結果、サンプルの68%には長音を示す記号(音引き符号や拗音の小文字)による表記が適当であると見なされた。一方、大多数の被験者が短音として認識する例も少ないながら(12%)存在するということが判明した。 Is the generally accepted transcription of Polish words into katakana an optimal one? Could it be improved? Literature from many languages is translated into Japanese every year. Polish literature is not an exception. Proper names and certain words which are typical for Polish cannot be directly translated into Japanese and therefore are transcribed into katakana. In some cases of transcription the prolonged sound mark is used for certain sounds in Polish and in others it is not. Why is there such a difference in transcription of Polish language into katakana? Would it not be better to unify the transcription by establishing the rule of using the prolonged sound mark consistently or else removing it entirely from the transcription? This is a preliminary study which raises the question of how native speakers of the Japanese language perceive Polish lexical stress in the case of accented vowel duration and, by implication, whether or not it would be necessary to put a mark of prolongation in all transcribed words of Polish. To answer the question, ten native speakers of Japanese were asked to identify twenty-five sound samples with their various versions of transcription in katakana and to choose the version which is the most accurate one. The results show that the transcriptions without any mark of prolongation were recognized as the most accurate in 12% of the cases.
著者
粂 汐里 Shiori KUME クメ シオリ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.19-39, 2015-03

説経、古浄瑠璃は、近松門左衛門以前の、日本の中世末期、近世初期に盛んであった語り物文芸である。従来の文学史、芸能史において、説経・古浄瑠璃のテキスト研究は、近世初期の古活字版や万治寛文以降の半紙本など、版本を中心に進められてきた。しかし、説経・古浄瑠璃は、絵巻、絵入り写本、挿絵の多い草子本などのかたちでも数多く伝わっている。これらは本文研究において正本と同等の有益な資料群であると考えられ、いまは現存しない正本の復元など、多くの可能性を秘めている。にもかかわらず、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本をめぐる総括的研究は、同時代の芸能―能、狂言、幸若舞曲―に比し、いまだ十分とはいえない。本稿では、説経、古浄瑠璃の絵巻、絵入り写本の重要性を示す一事例として個人蔵『しゆつせ物語』を取り上げ、その特徴と意義を報告する。『しゆつせ物語』は森鴎外の著作で知られる『さんせう太夫』の一伝本で、未紹介のテキストである。装丁に着目すると、初期説経正本と同じ三冊本形態である点、説経のテキストとしては珍しい列帖装の豪華絵入り写本である点が注意される。本文もまた、初期のテキストである寛永末年頃刊行の天下一説経与七郎正本、明暦二(一六五六)年刊行の佐渡七太夫正本と同時代の、古態をとどめたものである。しかし個人蔵本は、これら同時代のテキストにはない特徴を有している。まず挿絵をみると、豪華な絵入り写本という形態にふさわしく祝言性を強調し、残忍な描写を回避する傾向がある。これは、説経や古浄瑠璃を題材とした絵巻・絵入り写本の制作意図を把握する貴重な例である。次に諸本を比較してみると、個人蔵本には、従来知られてきた与七郎本系統とは異なる、独自本文が確認できる。また物語にとって重要な場面である天王寺が、個人蔵本では北野天満宮に置き換えられている。この点に着目し、中世末、近世初期に北野天満宮の境内が芸能者の参集する場であったという先行論をふまえつつ、『しゆつせ物語』に当時の北野社の繁栄が投影されていることを指摘した。Sekkyō and early jōruri are types of oral storytelling that flourished at the end of the middle ages and the beginning of the early modern period in Japan, before the time of Chikamatsu Monzaemon. Textual research on sekkyō and early jōruri has focused on half-ream-size (hanshibon) early moveable-type editions (kokatsujiban), that is, on printed chapbooks. However, sekkyō and early jōruri libretti also survive in the form of hand-written picture scrolls and picture books with many illustrations. I believe these represent a valuable body of material on par with printed chanter's proofs (shōhon) which hold many possibilities such as the reconstruction of chanter's proofs that are no longer extant. Nevertheless, intensive research on these manuscript sources lags far behind that on contemporary performing arts like the noh and kyōgen theatres and kōwaka ballads. In this paper I discuss the particularities of a copy of Shusse monogatari in a private collection, as an example of the importance of picture books and scrolls of sekkyō and early jōruri.
著者
黄 昱 Yu HUANG ファン ユ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-16, 2016-03

『徒然草』が漢籍から受けた影響は、文章レベルに止まらず、その思想内容にまで及んでいることは今までの研究において議論されてきたことである。まず『徒然草』が広く読まれていた江戸時代には、本書と漢籍との関係が注目された。『徒然草』最初の注釈書である『徒然草寿命院抄』は、『徒然草』を儒釈道の三教を兼備する書物として捉え、和文でありながら、漢籍的な要素が強い書物とした。江戸中期頃から、『大東世語』『本朝遯史』といった人物伝記や、『明霞先生遺稿』『作文率』といった漢文作品集、さらに、異種『蒙求』といった幼学書に『徒然草』が漢訳されたのは、本書に内在する漢籍的な要素が然らしめたところと言えるだろう。一方、近代の中国では、民国時代から、周作人や郁達夫といった日本文化に心を寄せた文人たちが『徒然草』を中文に訳し、また、一九八〇年代以降、日本の古典文学作品が大陸で盛んに翻訳される中、『徒然草』も五種類の全訳本が刊行されるに至っている。本稿はこのような日中における『徒然草』の漢文訳と中文訳の状況の比較分析を目的とする。具体的には、主に周作人以降の『徒然草』の中文訳を中心に分析し、これらの翻訳にあたっての章段の取捨選択の意図と、訳文の文体・表現の特徴を考察した。一九二五年に周作人が『徒然草』の中から十四の章段を選んで翻訳し、彼が加えた小引(序)・附記(跋)と訳文を考察した。さらに、彼のほかの作品における『徒然草』についての言説を考えることによって、彼の翻訳手法と『徒然草』観を明らかにした。また、一九三六年に周作人と同じく日本文化に関心を持つ著名な小説家郁達夫も『徒然草』から七章段を選訳し、本書が「東方固有思想を代表するに値する哲学書」であると絶賛した。その後、一九八〇年代以降、五種類の『徒然草』中文訳も登場したが、本稿は周作人訳と郁達夫訳とこれら現代の中文訳とを比較し、『徒然草』が中文に翻訳される時の特徴と問題点を示した。最後に、江戸・明治期の漢文基礎教養書である異種『蒙求』に見られる『徒然草』の漢文訳とこれらの中文訳との比較に触れた。『徒然草』は日本と中国の文人の間で愛読され、翻訳されていたが、両者の訳述の異同を分析する作業を通して、日本と中国での本書に対する認識の差を確認し、『徒然草』の漢籍的な要素がさらに明確になったと言える。According to existing studies, the influence of Chinese classics on Tsurezuregusa is seen not only in expression, but also in its contents and philosophy. In the Edo period, when Tsurezuregusa began to be popular, it was first noted to contain ideas about Confucianism, Buddhism and Taoism. The claim was that this book had been strongly influenced by Chinese classical works. This might be one reason why Tsurezuregusa was translated into classical Chinese by Japanese intellectuals during the Edo period. On the other hand, famous Chinese writers, Zhou Zuoren and Yu Dafu, translated some chapters of Tsurezuregusa into Chinese in the 1920's and 1930's. After the 1980's, when there was a boom in making Chinese translations of Japanese classics, five complete translations of Tsurezuregusa were published.This paper is concerned with the characteristics of and differences between the various translations into Chinese of Tsurezuregusa made by both Japanese and Chinese intellectuals. Through a comparative study of these translations, we can identify differences in understanding Tsurezuregusa between Japan and China, and reappraise elements of influence that Chinese classical works must have had on Tsurezuregusa.
著者
金 セッピョル
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.177-193, 2012-03

本稿の目的は、日本社会において自然葬という新しい葬送儀礼に与えられてきた意味を社会文化的コンテクストから明らかにすることである。 近年、従来の地縁・血縁を基盤とする墓、つまり居住地域の旦那寺に設けられ、長子によって継承される墓の形態が問い直され、継承を前提としない新しい選択肢が増えている。海、山などに骨灰をまく自然葬もその一つである。このような変化は、これまで家族構造の変化と人口移動という側面から説明されてきた。しかし、人生において重大な意義をもつ葬送のような通過儀礼は、当面する墓の購入と継承の問題だけでなく、これまでの生を締めくくり死に備える契機として、何らかの意味をもって実践される。本稿は、自然葬という新しい葬送儀礼にみられる重層的な意味の一面を、自然葬を実践する側に比重をおいて考察した。 その結果、自然葬は「近代日本的価値の拒否」という意味付けがあり、それが自然葬の登場と定着を支えてきたことが明らかになった。敗戦と戦後の民主化、大衆消費社会化、国際化の時代を生きてきた自然葬選択者たちは、「葬送の自由をすすめる会」のマスター・ナラティブに影響されながら、家族国家イデオロギー、軍国主義、集団主義と閉鎖性などを認識するようになり、それらを自ら拒否しようとする。しかし彼らは主体的個人、合理主義を求めるが、そのような理想のもとに人生を送ってきたわけではない。むしろ実践し切れなかった理想を自然葬に託しているように考えられる。 また、このような思想的背景をもって進められてきた自然葬は、現在、商業化され拡散している。商業化と、そこで発生している「すすめる会」の差別化戦略のなかで、自然葬の意味がどのように再編されていくかについては今後の課題でもある。This article investigates the meanings given to shizensō in a Japanese socio-cultural context. During the 1990s, new and alternative systems of death rituals appeared in Japan, mainly due to social changes such as urbanization, dissolution of family structures, etc. One of these new rituals is the scattering of cremation ashes, shizensō. I argue that the meanings given to shizensō and the practice thereof are connected with the rejection of modernity in Japan. Practitioners of shizensō who had experienced World War II and the student movement in the late 1960s and 1970s, described themselves as persons who had suffered oppression during these historical events. They expressed rejection of the traditional family structure which had been used as a model for the state and the ideology of militarism. Moreover, practitioners of shizensō who were brought up in the era of globalization, and could experience foreign culture directly, developed a feeling of opposition and strong criticism to group consciousness and the closeness of Japanese society. They considered these to be the side effects of Japanese modernity and expressed their rejection in choosing shizensō. I conclude that the adoption of shizensō is a way of breaking away from the constraints of Japanese society. This resulted in the birth of shizensō.
著者
光平 有希 Yuuki MITSUHIRA ミツヒラ ユウキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.10, pp.251-271, 2014-03

太古から現代に至るまで、人間は心身の治療や健康促進、維持する手段として音楽を用いてきた。私はそうした音楽療法の奥深い歴史の中で生み出された大いなる遺産を紐解くことが、現代の音楽療法理解にも繋がると考えており、その1例として、本論文ではリチャード・ブラウンの『医療音楽』(1729)を取り上げた。というのも、薬剤師であるブラウンは、これまでは主として哲学者や聖職者が取り上げてきた音楽療法について、初めて医療の立場から『医療音楽』という1冊を割いて、音楽の持つ治療的作用について言及しており、このことは、音楽療法の歴史を考える上で先駆的なものであると考えられるからである。 しかし、同書についての先行研究に関しては、『医療音楽』全体に焦点を当てた著作や本格的な論文は未だ見当たらない現状にある。そこで本論文は『医療音楽』について、ブラウンによって匿名でその2年前に書かれた『歌唱・音楽・舞踊機械論』も参考にしながら、1.書誌学的考察、2.ブラウンの人物像、3.『医療音楽』の内容、4.『医療音楽』に見られる機械論的身体観、5.『医療音楽』で重視された治療原理、と稿をすすめながら、ブラウンの音楽療法を解明することを研究目的とし、それと共に音楽療法の歴史における『医療音楽』の位置づけも試みた。 その結果、ブラウンの音楽療法には、ピトケアン学派の影響が顕著に見られ、その中で治療原理として「アニマル・スピリッツ」と「非自然的事物」という2つの概念を重視していたことが明らかとなった。『医療音楽』は理論書であり、実践書ではないものの、現代の音楽療法と同様に、「歌唱」、「音楽」、「舞踊」を通じてもたらされる生理的、心理的、社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上を図ることを目的として書かれている。その点で、『医療音楽』はやはり、音楽療法史上、現代音楽療法の萌芽とも言うべく、重要な著作であると考えられる。Since primeval times, people have used music as a component of physical and mental therapy and as a means of promoting and maintaining good health. To fully understand music therapy in its contemporary form, it is crucial to reveal the rich heritage of music therapy in the course of history. This study analyzes Medicina Musica (1729) by Richard Browne. Browne was an apothecary who worked on music therapy, a subject historically taken up primarily by philosophers and clergymen. His contribution in Medicina Musica made him the first to offer insight into music therapy from a medical perspective. Browne's description of the therapeutic effects of music is believed to be a pioneering work in the history of music therapy. In previous studies that treat this book, neither books nor scholarly articles focusing on Medicina Musica in its entirety have been found. This article investigates Browne's music therapy by analyzing Medicina Musica itself. Making reference also to a work that Browne wrote anonymously two years before the publication of Medicina Musica called A Mechanical Essay on Singing, Musick and Dancing (1727), this article includes (1) a bibliographical review, (2) an account of Browne's life and times, (3) a description of the content of Medicina Musica, (4) a description of the mechanistic view observed in Medicina Musica, and (5) a summary of the therapeutic principles found in Medicina Musica. Finally, I have tried to position Medicina Musica in the history of music therapy. Browne's approach to music therapy was significantly influenced by Pitcairn and his students. Furthermore, Browne emphasized two concepts which constitute his therapeutic principles: "animal spirits" and "non-natural things." Even though Medicina Musica is not a practical book but a theoretical one, like modern music therapy it highlights the theme that singing, music, and dancing can aid in the recovery of physical and mental health.
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.81-97, 2013-03

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant's visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan's first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
王 暁瑞
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.57-70, 2012-03

近世後末期の越前国福井(現福井県)出身の歌人橘曙覧が詠んだ五二首からなる連作詠「独楽吟」は、すべて初句が「楽しみは」、末句が「時」で揃うという形になっている。これは従来の和歌に見られない独特な表現形式とされ、その形成について、先行研究では、「くつかむり」の方式などが作者の発想と構成を促した、あるいは俳諧歌や狂歌から影響を受けたとするものなど、日本の韻文に関連した指摘が多くあるが、十分に納得のいく具体的な説明はいまだ提出されていない。 一方、中国文学との関わりについては、前川幸雄氏が、論文「橘曙覧作「日本建国之吟」考」(『福井大学教育地域科学部紀要』第五二号、二〇〇一年十二月)において、曙覧の「独楽吟」を北宋の邵雍の詩作に関連付け、さらに、論文「橘曙覧と邵雍と―「独楽吟」と「首尾吟」の関係について―」(『国語国文学』第五〇号、福井大学言語文化学会編、二〇一一年三月)において、「独楽吟」と邵雍の連作詩「首尾吟」との関係、即ち作者の人生、処世観、作品の構成(形式上の)、作品の思想上の類似性、共通性について考察した。これは、曙覧の「独楽吟」を考える上で非常に示唆的なものであった。 「首尾吟」とは、邵雍の詩集『伊川撃壤集』巻二十に収められる連作詩であり、各詩の首句と尾句が「堯夫非是愛吟詩」という同じ句で統一されており、従来、見られない特殊な漢詩の体裁となっている。また、この連作の各詩の首聯は、例えば「堯夫非是愛吟詩、詩是閑観蔬圃時」(「首尾吟」第六五首のもの)のように、首句が「堯夫非是愛吟詩」という同じ句で統一されているだけではなく、第二句「詩是閑観蔬圃時」の句尾も「…時」という詞で統一されている。『伊川撃壤集』では、このような形式の詩が一三五首連続して並んでおり、連作の全体に音律的リズムを与えている。本稿では、こうした首聯での表現形式と、曙覧の「独楽吟」の表現形式との相似性に焦点をあてて、両者の影響関係について考察する。そしてまた、「首尾吟」は、その表現内容においても、自然や田園、生活や家庭の楽など身近な楽しみを詠み上げているが、曙覧の「独楽吟」にも「首尾吟」の発想や趣向をとりなしたとみられる例が散見されることについて検討を加えた。In the late Edo period, Tachibana no Akemi wrote a linked poem called Dokurakugin, which had a unique form of expression by starting the upper phrase with "tanoshimi wa" ("the moment I'm feeling happy is") and concluding the lower phrase with "toki" ("when") The form of this poem has long been thought to be a unique artistic form of waka. Up to now, no research has been able to explain how the form of this poem came to be.However, the Northern Song Dynasty poet Shao Yong left a famous group of 135 poems called Shao wei yin (Jp. Shubigin), all of which were included in his collection Ichuan Jirang ji (Jp. Isen Gekijō shō). A special characteristic of these poems is that each upper and lower phrase reads "Gyofu kore shi ginzuru o aisuru ni arazu" (I wrote a poem because I want to enjoy life, not because I like to write a poem). Moreover, each of these poems uses "toki" to end the second sentence. That is to say, for every poem, the first sentence is "Gyofu kore shi ginzuru o aisuru ni arazu," and the end of the second sentence is "toki." Thus we can see that this form has a kind of rhythm between the first sentence and the end of the second sentence, and that it appears to be similar to the form that Tachibana no Akemi uses in Dokurakugin. In addition, the ideas and artistic conceptions of Shao wei yin and Dokurakugin in their expressions regarding landscape gardens and happy family life are also quite similar. I believe this is sufficient evidence to conclude that the expressive form of Shao wei yin had an influence on the form of Dokurakugin in its development process.
著者
陳 可冉
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.43-56, 2012-03

林鵞峰編『本朝一人一首』(寛文五(一六六五)年跋刊)は、日本漢文学の本格的な研究書の嚆矢として、新日本古典文学大系にも収録された名著である。今から三百二十年前の元禄四(一六九一)年、同書が落柿舎の机上にも置いてあったことは、芭蕉の『嵯峨日記』によって知られる。 落柿舎中の芭蕉は『本朝一人一首』を読み、中の詩作に対する自己の所感まで書き残しているのである。『本朝一人一首』が芭蕉と日本漢詩との接点を裏付ける重要な糸口であることは間違いあるまい。ところが、芭蕉研究における『本朝一人一首』の意義をめぐって、これまで十分な検討がなされているとは言い難い。本稿では、『本朝一人一首』の性格と特徴をよく把握した上で、『嵯峨日記』と『おくのほそ道』を中心に、芭蕉における『本朝一人一首』の受容について若干の考察を試みたい。 『嵯峨日記』四月二十九日・晦日の条は、いわば『本朝一人一首』の読書メモにあたる。稿者は、その前日である四月二十八日の条に焦点をあて、現在最も信頼された『嵯峨日記』の底本である野村家蔵本(原本所在未詳)を参照しつつ、四月二十五日の条の末尾との比較によって、『嵯峨日記』には本文と自注という二種類の異質な文章が併存し、しかも芭蕉はそれらを意識的に書き分けているのではないかと論じる。次に、「思夢」の話を扱う『本朝一人一首』巻五・高階積善「夢中謁白太保元相公」に注目し、芭蕉が評釈の手法を好んで用いたのは『本朝一人一首』の詩評からの影響であろう、という見解を述べる。 以上の結論を踏まえて、執筆時期が『嵯峨日記』に近い『おくのほそ道』をも俎上に載せ、句評の形式で曽良を紹介した「黒髪山」を取り上げ、鵞峰の詩評の特徴に合致した芭蕉の行文を分析する。さらに『おくのほそ道』「立石寺」・「尿前の関」における語句の出典として、『本朝一人一首』巻六・藤原実範「遍照寺翫月」と巻三・空海「在唐観昶法和尚小山」を指摘し、芭蕉と『本朝一人一首』所収の日本漢詩との関わりを探る。Honchō ichinin isshu (HII, hereafter), a masterpiece written by Hayashi Gahō, represents the first full-fledged research on Japanese kanshi. It is included in the Shin koten bungaku taikei series of classical Japanese literature. Bashō's Saga nikki (SGN) informs us that Bashō kept this book on the table in Kyorai's Rakushisha lodge. We know that while staying at Rakushisha, Bashō read through HII and made personal notes on the poetry in the book. There is no doubt that SGN provides us with an important clue to a possible link between Bashō and writings by the Hayashi family. However, there has not been much work done on how relevant HII is in research on Bashō. This essay illustrates the nature and the characteristics of HII before discussing how HII may have influenced Bashō, focusing on Oku no hosomichi (ONH) and SGN in particular.Bashō's entries on April 29th and 30th in SGN could be viewed as notes made while reading the HII. I argue, based on a comparison between the last part of the April 25th entry and that of April 28th, that the main body of SGN and its self-created commentary are of a completely different nature, and that Bashō intentionally kept them separate. I made use of a version in possession of the Nomura family, one believed to be the most bona fide among the versions of SGN. Next, I will talk about Shimu, arguing that the poetry critique found in HII may have inspired Bashō to adopt the style of explanatory critique in his writing, based on observations from book five of HII.This essay also points out that some of Bashō's text shares certain characteristics found in the critiques by Hayashi Gahō, and demonstrates a possible link between Bashō and Japanese kanshi in HII by noting that some words Bashō used in ONH, Ryūshakuji, etc., actually come from books six and three of HII.
著者
李 忠澔
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.27-42, 2012-03

『太平記』に登場する正成は、智仁勇の三徳を兼備した武将で、天皇のために命を捧げた英雄として広く知られているが、近世期以降はその教訓的な側面が正成伝説の普及を支える肝要な要素となっていく。 『太平記』において正行の母は、父正成の戦死を悲しみ自ら命を絶とうとする正行を諌め、正成の遺訓の意味を再度教え諭す。このエピソードが端緒となり、その後正成の妻は良妻賢母として顕彰されていくことになる。 一方、近世前期に流行した「太平記読み」のテクストであった『理尽鈔』は、兵学中心の合戦談という性格から、正成の妻が正行に父の遺訓を教え諭す場面を省略し、その代わりに正成の首をめぐって足利直義と楠家の家臣間で繰り広げられた駆け引きに関するエピソードを挿入している。これは、合戦談の中では女性の存在が副次的にしか認識されないことから、『太平記』における正成の妻の情緒性豊かな描写が省略された結果と見られる。 このような『理尽鈔』における扱いとは別に、正成の妻は近世の早い時期から啓蒙目的の女訓書に登場している。仮名草子女訓書『本朝女鑑』では、『太平記』原典の正成の妻に関するエピソードが簡略な形で引かれており教訓を主眼とする女訓書の性質に即して、母として息子の誤りを戒める内容が中心になっている。 さらに、時代浄瑠璃においてはそれ以前とはやや異なる正成の妻のイメージが形成される。近松門左衛門の『吉野都女楠』において、正成の妻「菊水」は従来と同様に夫の遺志を継ぎ、息子を訓戒する良妻賢母として登場するが、その上に大力という性質をも兼ね備えた逞しい女性として描かれる。ここでは、男性のために自己を犠牲にする時代浄瑠璃の典型的な女性とは異なる、戦乱という苦難を生き抜く強い女性像が正成の妻に付与されていると言える。 一方、西沢一風・田中千柳の『南北軍問答』においては新しい趣向が設定され、正成の妻は女色に溺れる正行を訓戒する。正行の誤った行動を戒めるという点では、『太平記』と軌を一にするものの、正行が好色者として描かれる点に加えて、「泣男」杉本佐兵衛が正成の妻に代わって訓戒の内容を伝えるという点が新しい構想となっている。 このように、正成の妻は『太平記』から時代浄瑠璃に至るまで、良妻賢母としてのイメージを保ちながらも、その上に新たな趣向を取り入れつつ受容されていくことになる。As he appears in the Taiheiki, Kusunoki Masashige is a military official who had a combination of the three virtues of wisdom, benevolence, and valor, and he is broadly known as a medieval hero who gave his life for the Emperor. After the passing of the Edo era, the instructive aspect of Kusunoki Masashige came to be emphasized, and this was the primary reason for dissemination of his legend.In the Taiheiki, the wife of Masashige persuades their son Masatsura, who is distraught over the death on the battlefield of his father, not to kill himself by reminding him of the meaning of the instruction which Masashige had left behind. With this episode as starting point, the wife of Masashige afterward became known to society as, in the Meiji-era phrase, "a good wife and wise mother."However, in the Rijinshō, a retelling of the Taiheiki tales that was popular in the first half of the Edo era, the text treating Masashige's legend consists mainly of war talk and military science. It omits the scene in which the wife of Masashige taught her son the dying injunctions of his father and instead inserts the episode about the confrontation between the enemy camp and the members of Masashige's household over the treatment of Masashige's severed head. This substitution for the extensive description of Masashige's wife in the Taiheiki is seen as an example of the relegation of the existence of females to secondary position when the main subject is war talk.In contrast to the Rijinshō, the wife of Masashige appeared for the purpose of edification in the lesson books of the early Edo period addressed to women. In the instruction for women, Honchō jokan, the episode about the wife of Masashige in the original text of the Taiheiki is quoted in simplified form to suit the nature of instruction for women, the major purpose of which was to teach the example of a mother reasoning with her son to correct his wrongs.In the jidai jōruri genre, the image of the wife of Masashige is formed a little differently. In Chikamatsu Monzaemon's Yoshino miyako onna Kusunoki, the wife of Masashige appears as in previous versions as a good wife and wise mother who disciplines her son to succeed to the legacy of her deceased husband, but in addition she is described as a sturdily built woman with physical strength and a strong character. Here, unlike the typical woman who sacrifices herself for a man in the jidai jōruri genre, the image of a strong woman who overcomes the troubles of war is granted to the wife of Masashige.In another example of this genre, Nanboku ikusa mondō, the authors, Nishizawa Ippû and Tanaka Senryû, added a new feature. In their account, the wife of Masashige preaches at the son for indulging in sex with women. The point at which she preaches at him for his wrongdoing is the same as in the Taiheiki. But in addition to the description of the son as a womanizer, there is another change: It is the servant Nakiotoko who delivers the admonition on behalf of the wife of Masashige. This can be said to be a new conception.In short, although the wife of Masashige maintained the image of good wife and wise mother from the medieval Taiheiki through the early modern jidai jōruri genre, over time new elements were added to the image and accepted.