著者
能口 盾彦
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.43-71, 2007-08

英国版『親指トム』とグリム童話の内容は大差無いが、グリム童話の『蛙の王様』や日本の『一寸ぼうし』の様に、蛙を叩きつけたり打出の小槌を振るとかで魔法が解ける展開にはつながらない。親指トムはハッピー・ーエンドに終わるが、フィールディングの原作や改訂版は悲劇或いは悲劇中の悲劇と題されている。英国版親指トムが狼の胃袋に収まる前段階、即ち雌牛に干し草もろとも飲み込まれる逸話を捉え、フィールディングは『悲劇中の悲劇』で巨人達を撃破した凱旋将軍トムを、赤雌牛に飲み込ませて彼の末路とする。『親指トム一代記』でも英雄トムの不慮の死として同様の場面が挿入されているが、『悲劇中の悲劇』同様に乳搾り女や狼が介在することもなく、ゴーストとなった親指トムが再登場し、トムのゴーストが刺殺されることを契機に、登場人物の死の連鎖が繰り広げられる。一方、『悲劇中の悲劇』第三幕第一場に預言者マーリン(Merlin)に姿を変えたゴーストが現れ、親指トムは婚儀を終えた幸せの絶頂期に、ゴーストの予言通りに赤牛に飲み込まれて頓死する。親指トムの死を契機に前作同様、登場人物は次々と凶刃に倒れる。旧来の親指トムでは夢想し得ぬ結末に、フィールディング劇の真骨頂がある。何故フィールディングはハピー・エンドに終わる童話の体を借りて悲劇化を目論んだのか。この課題は劇作家フィールディングの野望と18世紀英国演劇界の状況を把握せずして理解は覚束ないだろう。「きき台詞」の多さや多様さは、芝居通や文芸批評家の衒学さへのフィールディング流諷刺の一端で、専門家気取りの演劇関係者への痛烈な皮肉として、周到に練られた策ではなかったか。前世紀のコングリーブ(William Congreve)等による『風俗喜劇』(Comedy of Manners)が急速に廃れた現実を前に、ホメロス、ウェルギリウス、ルキアノス等の古典に慣れ親しんだフィールディングは、演劇界で糧を得ようとして道化劇や英雄悲劇の形式を踏襲するのも、その紋切り型の手法を揶揄する折衷案、即ち英雄悲劇を茶化す笑劇に活路を見出した。
著者
井上 義夫
出版者
一橋大学
雑誌
言語文化 (ISSN:04352947)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.37-47, 1989-12-20

論文タイプ||論説
著者
辻河 典子
出版者
明治学院大学言語文化研究所
雑誌
言語文化 (ISSN:02881195)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.117-131, 2019-03-31

特集 トランスレーション・アダプテーション・インターテクスチュアリティ
著者
名和 又介
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.[85]-105, 2008-08

研究ノート(note)中国の民間芸は豊かで、其の図案のなかによくみられるのは吉祥の図案である。吉祥とは美しく幸福なシンボルであり、王家大院で多くの吉祥図案を目にした。帰国して吉祥図案を学んで、図案が意味しているものを理解できた。例えば「双獅戯球」は、愛しむ獅子の夫婦であり、獅子の間に刺繍をした球があるが、これは愛情の結晶である。一対の獅子が球をもてあそぶ図案は、獅子が愛情豊かに日々をおくり、やがて子供が生まれることを暗示している。この図案は、人間の夫婦もこの獅子のように仲むつまじく暮らし、子孫繁栄するように教えているのである。このように図案の幾つかを解説・紹介した内容である。中国有很多民间艺术。民间艺术的图案之中、我们常常看到吉祥图案。吉祥是美好、幸运的形象。我以前在王家大院曾经看到过很多吉祥图案、但是回国以后查阅了有关吉祥的资料、才知道图案所代表的含义。例如"双狮戏球"——它是一对恩爱的狮子夫妻、在它们中间有一个绣球、象征着爱情的结晶。一对狮子高兴地把玩绣球的图案告诉我们: 一对狮子恩恩爱爱地过日子、它们将来会生下自己的孩子。它象征着人世间的夫妻也和这对狮子一样和睦相处、福蔭子孙。这样拿几个例子来介绍一下。
著者
中野 知律
出版者
一橋大学
雑誌
言語文化 (ISSN:04352947)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.33-51, 1998-12-25

論文タイプ||論説
著者
新保 淳乃
出版者
明治学院大学言語文化研究所
雑誌
言語文化 (ISSN:02881195)
巻号頁・発行日
no.29, pp.119-145, 2012-03

【特集】シンポジウム「西洋美術とジェンダー ―視ることの制度」
著者
高木 繁光
出版者
同志社大学
雑誌
言語文化 (ISSN:13441418)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.43-68, 2011-08

論文(Article)ナボコフの小説『絶望』の主人公の私=他者の二重性は、無数の仮面による偽装を促す「死の欲動」の下で、たえず新たな役を演じながらコピーとしてスクリーン上に遍在する「映画俳優」的主体である。一方、ファスビンダーはこの映画化にあたって、撮影時の70年代ドイツ社会を、画一化された人間が増殖するファシズム時代に重ね合わせ、絶望の光のうちに残されるヘルマンの狂気に、均質化を免れる差異に基づく分身の可能性を見ていた。Das Doppelwesen Hermanns im Despair von Nabokov steht unter der Wirkung des Todestriebs und konstituiert sich als maskenhaftes Wesen, das sich immer wieder verstellt wie „Filmschauspieler", der als Kopie auf Leinwänden anwesend ist. Fassbinder hat bei der Verfilmung von Despair mit der Zeit des Nazismus auf die politische Situation Deutschlands in 70er Jahren angespielt. Hermann bleibt im Licht der Verzweiflung, aber damit entkommt er auch dem Einebnungsprozeß des Faschismus. Er bleibt immer auf der Suche nach dem Doppelgänger, der nicht auf „sameness", sondern auf Differenz beruht.