著者
青木 恵理子
出版者
龍谷大学
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.269-281, 2005-03-25
被引用文献数
1

'Lifeworld' is a social field in which people have everyday face-to-face communications and interactions, and in which what they say and do inevitably influences it. It is meaningfully autonomous from modern subsystem fields such as the state and capitalist economy in which actions are adjusted by controlling media such as administrative power and money. Lifeworld is 'the horizon within which communicative actions are "always already" moving (Habermas 1987: 119)'. It evades our cognitive grasp. It has a form of knowledge on its own, which comprises assumptions and skills that we make use of almost without awareness (Habermas 1987: 113-197; Nakaoka 1996). Habermas holds that in the late capitalism lifeworld is controlled or 'colonised' by modern system fields and may lose autonomy and liveliness. This article aims at elucidating how gossiping can inspire the embodied imagination shared by participants to prevent 'colonisation' of lifeworld by modern systems, by drawing on data concerning rabies, ninja and vaccination in Flores, Indonesia.
著者
松居 竜五
出版者
龍谷大学
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.21-29, 2007-05

Creolization is a concept for a form of cultural reception in which superficial elements of a certain culture are borrowed and used apart from the original context. This concept originally came from the research of Caribbean languages transformed by the contact with the European languages, but is now applied to many cultural phenomenon occurring in the globalization. The Japanese culture which expanded its influence rapidly in these ten or fifteen years has also experienced such creolization in many countries. In this paper is analyzed such a creolization of the Japanese cultural elements, especially in the case of Ninja and Samurai in American comics.
著者
松居 竜五 小泉 博一
出版者
龍谷大学国際社会文化研究所
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
no.6, pp.93-97, 2004-03

Minakata Kumagusu (1867-1941), a distinguished scholar both in ecology and folklore, wrote many Japanese essays which are often viewed as pedantic and difficult to read through. It is, however, important to understand that he spent fourteen years in the US and UK, and only wrote essays in English until he was nearly forty years old. Even after his late start as a Japanese essayist, he seems to have put priority on his English contributions to the two London magazines, Nature and Notes and Queries over publications in Japanese. It is therefore necessary to analyse his English essays in order to fully understand his studies and philosophy. In this project, we aim to trace the background to Minakata's English essays in connection with the scholary exchanges published in Nature.
著者
程 曼麗
出版者
龍谷大学
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.256-264, 2004-03-25

『華北新報』は日本降伏前の華北地域における最後のよく知られ,日本軍に操作された新聞である。物質節約及び宣伝強化を目指す "華北政務委員会" 政権の新聞新体制の産物である。『華北新報』はいくつかの新聞を作り上げた。これらの新聞は占領された地域の大多数の人々を,日本侵略者と全てを分かち合わせるとともに,人々の決戦情緒,必勝信念を呼びおこす使命を持つ新聞であった。『華北新報』は総合的な矛盾的新聞である。すなわち,素晴らしい新聞経営理念を含める一方,軍国主義を固守し信奉することを創建基礎とする新聞である。その矛盾性及び『華北新報』の分裂は経営者管翼賢の人格矛盾性及び人格分裂に必然的に反映される。
著者
朴xuan国 Salz Jonah 金 鎮国 高 恵卿
出版者
龍谷大学
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.5-15, 2008-06

韓半島の南部には予祝儀礼として綱引きをおこなう村が多い。年の初めに,村の人々は大量のワラを集め,力を合わせて大きな綱を作って,綱を引き合ってその年の作物の吉凶を占うのである。この儀礼がいつから始まったのか,現在のところ記録を見出すことはできない。綱引きは韓半島のみならず,世界の各地でおこなわれている。運動会におこなう綱引きがそのいい例であるが,韓半島の場合は古代から儀礼としておこなってきたところに特色がある。綱の材料はワラであり,ワラは稲作を象徴するものである。この地方の綱引きに使われる綱は直径1m,長さ130mもある大きなものが少なくない。それを作るための技術や労力,儀礼のためのさまざまな手続きが必要である。単なる遊びではなく,信仰を共にする人々の熱い思いとエネルギーが結集され,伝承されてきた儀礼である。韓半島東南部(慶尚道)は嶺南地方から洛東江にかけて平野が広がり,稲作が盛んにおこなわれている地方である。霊山における綱の制作方法は,同じ韓半島西南部(全羅道)に位置する金堤の月村面,井邑の精良里のものとよく似ている。両地方は距離にして150kmあまり離れている。さらに沖縄県糸満地方の綱引きの綱の作り方とも共通するところがある。これが伝播によるものか,それぞれの地方で個別に発生したものであるのか,現状では結論を出すことはできないが,文化の発生,伝播,定着を考える上で貴重な資料である。霊山の綱引きでさらに興味深いことは,規模がたいへん大きいこと,また嶺南地方は稲作が盛んであるにもかかわらず,綱引きが行われているのは霊山だけであり,その周辺の地方では綱引きの報告がないことである。さらに霊山の綱引きは軍事的な色彩が非常に強いことがもう一つの特色ある。綱引きに先立って,その年に村の中から大将,中将,少将の3人が選ばれ,綱引きのすべての儀礼の指揮をする。大将,中将,少将の3人は,階級に準じた伝統的な衣装(軍服)を身につけ,刀を差し,馬に乗って綱引きの指揮をしたという。これに対して,先に記した金堤地方の綱引きは,軍事的要素を多少含んでいるものの,農耕儀礼の色彩が強い儀礼である。このような点に注目しながら,霊山の綱引きを報告する。
著者
松居 竜五
出版者
龍谷大学国際社会文化研究所
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
no.6, pp.98-115, 2004-03

Minakata Kumagusu contributed altogether fifty papers to Nature magazine published in London. Many of them are related to other papers published in the magazine, and they often promote and develop discussions. Four typical topics concerning such essays of Kumagusu are thus analysed in this paper; the Constellations of the Far East written in 1893 as Kumagusu's first contribution to Nature, works concerning folklore of bees and wasps written during 1894-1898 inspired by the work of Russian entomologist Osten Sacken, works on finger print method which were initiated by criticism to a paper of a British colonial officer who claimed himself as the inventor of finger-print method, and correspondence with Arthur Morrison concerning Kumagusu's English writings. First hand materials, articles mainly in Nature, and correspondence related to his papers found in Minakata's residence, are also presented.
著者
柳 美姫
出版者
龍谷大学国際社会文化研究所
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
no.9, pp.77-80, 2007-05

自身舞踏家でもある韓国の舞踏研究者である著者によるこの論文では,自然性,気エネルギーの循環,力動性と即興性,維持された曲線美が,韓国舞踏の中心的な美の概念であることを指摘される。
著者
幸泉 哲紀
出版者
龍谷大学国際社会文化研究所
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
no.6, pp.179-194, 2004-03

国中至る所に色鮮やかな寺院や仏塔が点在し,また忙しい街路では托鉢をする僧と食べ物を施与する在俗者の姿が常に見られるタイは,仏教を実践する国と言うことができる。仏教は国教であり,タイの人々の生活のあらゆる側面にその影響が見られる。これに対して,異次頓の殉教の話や頭部を破壊された仏像に象徴されるように,韓国は堅忍な仏教徒の国と言える。数世紀にわたる排斥と迫害の歴史にもかかわらず,仏教はなお多くの熱心な信徒をもっている。言うまでもないことであるが,タイの人々にとっても韓国の人々にとっても仏教は輸入文化である。両国における仏教文化の出発点は,前論文で「説得による文化移転」と特徴付けたところの文化移転である。しかし両国におけるその後の仏教文化の展開は極めて対照的である。この論文では,タイ仏教と韓国仏教の違いがどこに見られ,その違いはなぜ生じたのかを分析する。タイと韓国の人々が仏教を自らの文化として受容するようになった経緯を分析することで,前論文で提起した文化移転に関する一般的な問題,つまり「移転された文化が移転先の人々に受容されるには,なぜ,どのように,どこに,またどの程度の移転文化の変容がなされるのか」という問題について,幾つかの有用なヒントが得られることが期待される。
著者
バン ザイル
出版者
龍谷大学国際社会文化研究所
雑誌
龍谷大学国際社会文化研究所紀要 (ISSN:18800807)
巻号頁・発行日
no.9, pp.81-89, 2007-05

韓国舞踏研究の第一人者である著者によるこの論文では,韓国と日本の美学の比較研究が,まだ試験的な段階にあり,限られたものであることが指摘される。また,この種の研究で避けられない内部者によるエミックと外部者によるエティックという視点の違いが強調される。その上で,恨,動中静,神明という内部者が挙げる美の概念に加えて,外部の観察者である著者自身が見てとった連携性と非対称性という韓国舞踏における美の概念が提唱される。