著者
今野 哲也
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.33-48, 2015

本研究は、とくにロマン派以降の作品で愛好され、無調性作品にも多くの例を見出し得る、ひとつのひびき(短3度+短3度+完全4度+短2度の循環)を対象とする。それは伝統的な和声学の中では位置付けがなされなかったが、島岡讓(1926-)の提唱する「クリスタル和音Kristallakkord」(以下"Kr.")は、このひびきの特質を明らかにする試みの第一歩と考えられる。その名称は「このひびきには透明感が感じられ、キラリと光るクリスタルのようだ」という島岡の言葉に由来し、減7の和音の構成音が長2度上方に転位することで生じる、偶発的形態と定義付けられる。島岡による詳細な説明は未公表だが、筆者がテーマとする無調性作品以降の和声分析と連繋させるためにも、Kr.を勘考することは有益と考える。そこで本稿は島岡氏の許諾の下、Kr.の原理を論考しながら、理論化を試みることを目的とする。またその考察を通じて、無調性以降のKr.についても、新たなかたちで認識する。そのため、本研究の関心はまず調性作品に向けられるが、Kr.を理解する上で、島岡が系統立てた理論における「ひびき」と「かたち」、「ゆれ」(転位)と「偶成」、「和音」と「非和音」の概念は不可欠となる。上記の概念の下でKr.は、「ゆれ」の所産による「偶成」であり、伝統的な和声理論のどのような「ひびき」や「かたち」とも一致しない構造を持つため、「偶成非和音」と位置付けられる。「ゆれ」によって生じる同時対斜(減8度・長7度)の緊張度の高い音程が、Kr.の特徴となる。また「偶成」である以上、Kr.はつねに「ゆれ」の解決を前提とする必要があるし、減7の和音が原和音ならば、「ゆれ」の解決の後には限定進行音を正しく解決させる必要もある。本稿は考察の便益上、Kr.をI型:「ゆれ」の解決音を伴うタイプと、II型:「ゆれ」の解決音が同時に配置されるタイプに区分し、減7の和音のどの構成音が「ゆれ」るかで∩3型、∩5型、∩7型、∩9型に区分する。たとえば∩7型のKr.は、L.v. ベートーヴェン(1770-1827)《ピアノ・ソナタ第30番ホ長調》作品109の第I楽章の第9〜10小節のドミナントの中に見出されるし、∩9型は、M. ラヴェル(1875-1937)《ソナティナ》第III楽章の第76〜94小節に、「ゆれ」(短調の固有音[vii])と、構成音の導音[↑vii]に生じる同時対斜(減8度)による、絶巧な用法も見出される。 Kr.の理論化を試みた結果、それはつねに「偶成非和音」に類別され、何らかの「和音」に照らし合わせて論ずることが困難であった点に、従来の和声学で位置付けがなされなかった理由を、本稿は観取する。そして無調性以降に見られるKr.は、19世紀〜20世紀の調性と無調性に関して、より鮮明なかたちで、「偶成」から「和音」へと認識された「ひびき」が存在したことを裏付ける、ひとつの証左と仮説付けるものである。
著者
宮谷 尚実
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.193-199, 2015

In dieser Studie wird der Begriff "Schweigen" in der Abhandlung uber den Ursprung der Sprache (1772) von Johann Gottfried Herder analysiert. Drei Arten des Schweigens sind zu finden: 1) passives Schweigen zum Zuhoren, 2) aktives Schweigen zum Denken und 3) Gedankenstrich als Zeichen des Schweigens. Letzteres kommt zwar an einer entscheidenden Stelle in der Ursprungsschrift vor, wurde aber in den japanischen Ubersetzungen nicht adaquat ubersetzt. Eine Neuubersetzung, in der nicht nur die Stimme, sondern auch das Schweigen Herdes wiedergeben wird, ist deshalb notwendig.
著者
栗山 和樹
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.69-78, 2015

数多くの映画音楽を手がける作曲家ジェームズ・ニュートン・ハワード作品の中から、奇想天外なコメディ作品の中に、ロマンスや人と人との心のふれあいを描く心動かされる秀作、米国映画「デーヴ」の背景音楽に関する作曲技法を、映画1作品を通して、その作曲技法を和声的側面から分析、考察する。ペダル・トーン、オスティナート、旋法和声、ダイアトニック・モーション、遠隔調への転調など映画音楽で使用される代表的な基礎作曲技法がどのように使用されているかや、三度和声、四度堆積和音など近代和声が映像のキューや転調とどのように関わり、どのように構築されているかを分析する。今回はスペースの関係で一部分の背景音楽の分析のみ取り上げているが、和声的工夫による作曲技法が映画音楽作曲に大きな影響力を与えていることを明らかにしていく。
著者
小島 芙美子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.49-64, 2009

ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach(1685~1750)のカンタータ第199番《私の心は血の中を泳ぐMein Herze schwimmt im Blut》(1713年初演)は、数少ないソプラノ・ソロ・カンタータ作品の1つである。そして、私自身が実際に、初めてバッハのカンタータ全曲の演奏に取り組んだ、思い出深い作品でもある。詩人ゲオルグ・クリスティアン・レームスGeorg Christian Lehms(1684〜1717)は、歌詞台本の中に、「私」という人物を登場させ、その心の変容、すなわち「悔い改め」のプロセスを描いた。「悔い改め」とは、キリスト教の信仰において、最も重要な心的行為の1つである。それは、深いルター派プロテスタント信仰を持っていたバッハの宗教曲を理解するために、重要なキーワードになっている。では、バッハは、「悔い改め」をどのように表現したのであろうか。その問題を考察していく最初の手がかりとして、カンタータ第199番を取り上げた。聖書、及びルター派プロテスタント思想の理解をまず念頭に置きながら、カンタータ全曲の歌詞を研究していった結果、バッハのカンタータのテキストが、単に自由詩であるのではなく、詩人レームスのとても深い聖書理解と、整合された聖句箇所の組み合わせによって、テキスト全体が成り立っていることを、改めて実感することができた。この作品では、「私」が主人公である。演奏するものにとっても、「私」は私自身に置き換えられる。それは、ひとつ間違えると、曲の持つすさまじいまでの感情に、演奏者が埋没しかねないことをも意味する。しかし、第4曲目の「悔い改め」のアリアが持つ、その穏やかな音楽の中で、演奏者、そして聴き手は、なんともいえない安らぎに満たされることだろう。それは「悔い改め」という概念が、人にとって、宗教や時代という枠を超えた、普遍的なものであるからなのかもしれない。バッハの声楽曲を演奏する者は、歌詞(言葉)の理解を第一に求められる。そこで今回の論文は、作品に用いられたテキストの理解を研究の目的としている。
著者
中村 匡宏
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.67-79, 2014

本論の目的は、『シュプレヒシュティンメSprechstimme(以下,Sst.)』の技法をある水準まで高めたアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg 1874-1951)の作品を整理、考察し、現代の声を用いる芸術作品の創作における作曲技法的問題と可能性を発見する事である。本論は2部で構成する。第1部ではシュプレヒシュティンメの技法の前身と考えられる『レチタティーヴォRecitativo』『メロドラマMelodrama』『ジングシュピールJingspielの台詞部分』の3つの事項を挙げる。シェーンベルクにSst.の創作のきっかけを与えたのは19世紀の作曲家エンゲルベルト・フンパーディンク( Engelbert Humperdinck 1854-1921)のオペラ《王様の子供たち》で用いた唱法であると言われることが多いが、とりわけ17世紀以降の声楽作品、オペラから見てみも、Sst.の定義が曖昧すぎてSst.の起源の発見は困難である。同様『メロドラマ』や『ジングシュピールの台詞部分』に関しても、音楽を語りに付随させる事は演劇の発祥まで辿らなくてはならない。この疑問は、20世紀のシェーンベルクの用いたSst.の技法、記譜法からも検証し、これらの技法、記譜法の目的を整理することで、Sst.との関連性を見いだせる可能性がある。第2部ではSst.を用いたシェーンベルクの作品全てを概観し、用いられている記譜法全てをまとめSst.の記譜の使い分けを分類する。結果シェーンベルクの使用しているSst.の記譜法は5種類あり、その用法の分類は『音高(メロディ)とリズムが指示されている唱法』『音程関係(イントネーション)とリズムが指示されている唱法』『タイミング(語りだし)のみの指示がされている朗読』の3つであった。シュプレヒシュティンメと音楽に同一の価値をもたせる、もしくはシュプレヒシュティンメの音楽的存在感が背景の音楽に負けない芸術作品の制作をするためには声そのものの『音色』の指示に加えて『イントネーション』『リズム』『発音のタイミング』が記譜されることが最も重要になると考えられる。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-16, 2011

初期ロマン派の時代に、ピアノ音楽の分野で独自の芸術的境地を打ち立てたフレデリック・ショパン(Frederick Chopin 1810〜49年)は、ピアノのペダリングにおいても新たな地平を切り開いた。本研究は、ショパンの《24の前奏曲》作品28-1, 2及び13の自筆譜を資料とし、彼のペダリングについて考察したものである。ピアノのペダルの基本的な用い方は、バスでペダルを踏み、非和声音の前でそれを上げる方法であり、ショパンも基本的にはこの方法に従った。しかし、彼は、個々の曲の音楽的内容に応じ、より多様な方法でペダルを用いていた。《24の前奏曲》作品28の第1番ハ長調は一定のモチーフの反復からなるが、ショパンは曲の頂点や再現部の前、或いはコーダでペダルを短縮し、響きを抑制していた。これは、主観的な表現を避け、古典的な形式感を尊重すると共に、この前奏曲集の後続の曲に音楽的な発展の可能性を残す内容となっている。こうした方法は、表現の抑制によって詩性の美学を浮かび上がらせるものと言える。また、同第2番イ短調には、ペダルの指示が一つしか記されておらず、それはコーダの前で響きを暈し、影を落とすような内容となっていた。この一つのペダルは、暗く、深いこの曲の詩的想念と結びつき、あたかも死の世界を暗示するような存在となっている。これに対し、この前奏曲集の中程に位置する第13番嬰ヘ長調は明るい響きを持ち、この曲の前半では、ペダルによってフレーズの頂点に充実した響きと色彩を与え、フレーズに呼吸を生み出していた。また、この曲の後半では、主旋律の上に付加された声部に対応してペダルが用いられており、倍音を増幅させるような効果を生み出していた。これらは、ショパンのペダリングとベル・カントとの関連を示すものである。ショパンのペダリングは、多彩な方法によって個々の作品の芸術的内容を鮮明に描き出し、この前奏曲集においては、曲集全体の構成とも関係していた。本研究では、こうした考察を経て様々な示唆を得ることが出来た。特に、第1番のペダルの短縮は、エキエル版やペータースの新批判版等の最新の原典版にも充分に反映されておらず、ペダリングによる響きの抑制という新たな概念を提示することになった。この点は、ピアノのペダリングを考える上で重要な問題となろう。また、第2番で一つだけ記されたペダルのシンボリックな意味や、第13番に見られたペダルのベル・カント的な表現効果など、有益な知見が得られた。ショパンのペダリングは彼が愛用したプレイエル・ピアノの軽く、透明な響きを源泉とするものであるが、本研究によって、新たな視点から、彼の芸術的思考の一端に光を与えることが出来た。
著者
宮入 恭平
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.159-169, 2014

〈右傾化〉が囁かれる日本社会において、J-POPはどのような立ち位置をとっているのだろうか。表面的には政治と乖離しているはずのポピュラー音楽が、政治と近接しながら〈右傾化〉する社会でのプロパガンダとして利用される可能性がある。ここで重要になるのは、音楽に政治的な意味が含まれるかどうかではなく、政治性の希薄な音楽が無自覚的に政治利用されてしまうことへの懸念だ。もちろん、ポピュラー音楽は商品として消費されるものだが、その一方で、人びとの意識を変革させるだけの影響力をも持ち得ている。したがって、たとえ音楽そのものに政治的な意図が含まれていなかったとしても、音楽家(作詞家、作曲家や歌手)、および楽曲そのものの意志とは無関係に、音楽が政治的に利用されてしまうこともあり得るのだ。
著者
稲崎 舞
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.97-110, 2009

本研究は、イーゴル・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky,1882-1971)の12音技法作品の楽曲構成原理を解き明かそうとする試みの一つである。ストラヴィンスキーの全時代の作品を通して表れている特徴として、しばしば指摘されるのは、「ブロック・ジュクスタポジション」と呼ばれる楽曲構造である。確かに、完成された楽曲をスタティックなものとして捉えた場合に、この構造は、12音技法作品においても見出すことができる。しかしながら、12音技法による個々の音列と、こうした構造との間の関係性に対しては、十分に論じられていないように思われる。そこで本研究では、完成された楽曲をスタティックなものとして捉えるのではなく、楽曲が完成されるまでの作曲プロセスを辿る形でこの問題に近づくことを試みた。今回、1951年以降に書かれた12音技法作品を対象に、パウル・ザッハー財団所蔵のマニュスクリプトに基づき、分析を行った結果、作曲プロセスは、大きく二段階に分かれていたことが確認された。第一段階は断片的なスケッチを作る作業で、第二段階はそれらの断片的スケッチを繋ぎ合わせて全体を構築してゆく作業である。しかし、断片的なスケッチをただ並置させただけでは、全体性の保証は得られないはずである。なぜ、断片的なものから全体を構築してゆくことができたのか。この問題を考察するにあたり、《レクイエム・カンティクルス》(1965-66)のスケッチの断片に執拗に繰り返されていたある音に着目した。その音とは、ストラヴィンスキーが晩年に多用した「6音ローテーション・システム」によって見出された音であった。「6音ローテーション・システム」とは、エルンスト・クルシェネク(Ernst Krenek, 1900-91)が創案した12音技法の発展的な用法である。このシステムのうちの「音程のローテーション」によって導き出された「同一音から成る垂直配列音」が、断片と断片の「ジョイント」のような役割を担っていた。このことから、二段階の作曲プロセスの前段階に、全体の整合性をとるための「ジョイント」となる音として、「同一音から成る垂直配列音」を断片の中に設定するという作業があったのではないか、という仮説を立てるに至った。ストラヴィンスキーは、12音技法というオートマティックな性質をもったシステムを使用しながらも、それが完全にオートマティックになることを避けたのである。こうした問題は、12音技法作品においてのみならず、「ストラヴィンスキーは、作曲行為の中で、部分と全体の関係性をどのように捉えていたのか」という根本問題とも深く関わるであろう。
著者
中西 千春
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.95-105, 2011

近年,欧州連合(EU)の外国語教育では,Content and Language Integrated Learningと言われる「内容言語統合型学習」(CLIL型学習)が,広く取り入れられている。教科を非母語で学ぶことにより,教科知識・語学力・思考力・コミュニケーション力を統合して育成するCLIL型学習は,画期的な学習法とされている。CLIL型学習では,「4C」と呼ばれるCで始まる4つの要素(Content, Communication, Cognition, Culture)を組み合わせて,質の高い教材・授業を作りだす。本論では,先行研究を概観し,CLIL型学習の定義と特徴,CLIL型学習導入に至ったEUの言語政策と実施状況を論じる。本論の目的は,EUにおけるCLIL型学習についての小論が,日本の外国語能力育成の議論に資するところにある。
著者
横山 修一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.97-107, 2006

ダンテ・アリギエーリ作『神曲』の「天国」第3歌結末部において、ベアトリーチェは登場人物ダンテに対して強い輝きを放つ。すると登場人物ダンテは沈黙する。つづく第4歌冒頭部においては、2つの疑問の狭間でどちらを先に話すべきかわからずに沈黙する登場人物ダンテが描かれる。理由の異なる2つの沈黙がつづけて描かれることに違和感を覚えたことが本稿の執筆動機である。本稿では、まずベアトリーチェの強い輝きの意味を探る。第3歌結末部のベアトリーチェの強い輝きは、ベアトリーチェが見るための照明のような役割を果たしている。このことを踏まえて2つの沈黙の関係を整理する。その上で、「天国」第4歌においてベアトリーチェが述べることを確認し、「天国」第3歌結末部から第4歌冒頭部への話の展開が、作者ダンテのどのような意図により構成されているかを明らかにする。
著者
古山 和男
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.89-100, 2007

日本語律文の「七五調」は、かな文字2音で構成される音節を1拍とする拍節リズムで詠じられる。この1拍を構成する2音は、音楽的な勢いにより時間の長短を生じる。これは「イネガル音符」と同じ現象である。この「イネガル音符」や「カダンス」に関わる、拍節の「ムーヴマン」という古典派以前の音楽概念を援用して考察するなら、「七五調」の「字余り」の意味とそれが許される条件、「四三調結句の忌避」の理由が、「ムーヴマン」の加速の方向を区別して認識することで明快に説明できる。また、この「ムーヴマン」の加速方向という観点で、現代の口語を分析すれば、日本語固有のリズムの原理が明らかになる。2語が連結されると、後の語頭が濁る現象、あるいは「乱れ」と捉えられている言葉の変形も、この原理に従った法則性の高いものである。
著者
伊藤 直子
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.13-24, 2007

本稿は大正期のオペレッタ受容のあり方について、当時もっとも人気の高かったスッペの《ボッカチオ》を例に考察することを目的とする。まず最初に社会的・文化的背景として、都市化と大衆化、消費と娯楽、メディアの発達などの現象を挙げ、音楽的下地としては、明治期すでに外来歌劇団によるオペレッタ公演や軍楽隊によるオペレッタ関連楽曲の演奏が行われていたことを確認した。大正期のオペレッタ受容は明治期の官主導型の洋楽受容とは様相を異にし、帝劇、ローヤル館、浅草と上演空間を転じながら、大衆化の道のりを歩んでいった。上演の実際については、オペレッタ受容に不可欠である訳詞の観点から主に論を進め、代表的な訳者の一人で、《ボッカチオ》の訳詞を手がけた小林愛雄を取り上げ、あるべき訳詞の姿を求めて文語体から言文一致体へと至る小林の訳業と、その後の浅草オペラにおける庶民的かつ自由奔放な訳詞の世界を追った。