著者
末松 淑美
出版者
国立音楽大学
雑誌
国立音楽大学研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.23-34, 2012

同じ語源に由来する話法の助動詞sollen(ドイツ語)、zullen(オランダ語)、shall(英語)の意味論的比較を試みる。本稿は、その第一段階である。辞書および文法書の例文を集めてコーパスとし、用法別の対照表を作成する。コーパスの規模は小さいが、いくつかの傾向をそこから読み取ることができる。たとえば、非認識的用法の1つで、sollenが「主語以外の意志」に由来する必然性を表しているのに対し、zullenやshallはより強く話者の意志を表現していること。いっぽう認識的用法では、sollenとzullenには「伝聞」の用法があるが、shallにはないこと。また、zullenやshallには、sollenにはない「話者の主観的推量」の意味があることなどである。三者の違いを概観し、報告する。
著者
伊藤 牧子
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
no.55, pp.1-6, 2021-03-31

ピアノは、日本企業の独特の技術革新による低価格化や、音楽教室などの市場開拓を契機とし、日本国内に広く普及した。国内のピアノの生産台数は1980年をピークに世界第一位となり、その後減少しているものの、今までの総生産台数は約1000万台に達する。その結果、ピアノ演奏技術の習得者が増加し、日本の音楽文化に大きな影響を与えた。しかし、昨今、子どもの成長や進学と共に使われなくなって放置され、楽器としての機能を十分発揮できない「休眠ピアノ」が増えている。本来ピアノは新旧によらず、定期的なメンテナンスによってその能力は引き出され、長期の使用が可能である。よって技術的観点から、休眠ピアノのような古いピアノに修理などのメンテナンスを丁寧に実施し、再利用することを提案する。自然素材で作られたピアノを再利用することは、家庭の歴史を刻むことに加え、環境問題にも有効であり、ピアノ文化を発展させていくことにもつながると考える。
著者
井上 郷子
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
no.55, pp.253-259, 2021-03-31

松平頼則と松平頼暁は、現代日本を代表する作曲家であり、親子の関係にある。筆者は、2020年3月1日、東京オペラシティ・リサイタルホールにて「井上郷子ピアノリサイタル#29 松平頼則・松平頼暁ピアノ作品集」(欧文表記"Satoko Inoue Piano Recital #29 Piano Works by Yoritsune Matsudaira and Yori-aki Matsudaira"を行なった。このリサイタルでは、両氏の作曲様式を比較、研究し、演奏することによって浮かび上がらせ、更に現代日本の作曲界が歩んできた道を再確認することをも意図した。本稿はこのリサイタルの報告である。松平頼則、松平頼暁両氏の作品には、長年の作曲活動の中で一貫して変わらない「芯」となっているものがあり、それは、頼則氏の場合は「ヨーロッパ芸術音楽の技法と雅楽との融合」であり、頼暁氏の場合は「形式構造」であることを、本研究を通して確認することができた。
著者
加藤 一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.41-56, 2014

本研究はバッハ復興の機運が高まりつつあった19世紀初頭にポーランドで生まれ、フランスで活動したピアノの巨匠フレデリック・ショパン(1810〜1849)が、どのようにバッハを受容していたかを、彼の弟子ポーリーヌ・カザレンの楽譜に記されたショパンの書き込みを基に考察したものである。全ての調による《24の前奏曲》作品28を書いたショパンの音楽は、様々な要素とレベルにおいて、バッハの音楽から大きな影響を受けていたと言われている。しかし、これまでショパンがバッハをどのように受容していたかを示す具体的な資料が明らかにされて来なかった為に、この分野の研究は類推的な段階に留まっていた。そうした中で、カザレンが用いていたバッハ《平均律クラヴィーア曲集》全2巻の楽譜が見つかり、そのうち、ショパンの手による書き込みが記されている第1巻の楽譜が2010年にパリ音楽学協会から複写版の形で刊行された(J.S.Bach.Vingt-Quatre Preludes et Fugues (Le Clavier bien tempere. Livre I) Annote par Frederic Chopin.Commentaire de Jean-Jacques Eigeldinger. Paris: Societe Française de Musicologie.2010.)。本研究では、この楽譜に記されたショパンの書き込みを詳細に検討することによって、次のような知見を得ることができた。先ず、ショパンはカザレンの楽譜の第1番のプレリュードから第7番のプレリュードに亘って、当時、パリのヴェーヴェ・ロネール社から刊行されていたチェルニー版の注釈を、ほぼ完全な形で転記していた。これは、ショパンがチェルニーの校訂に一定の理解を示していたことと共に、この楽譜の教育的な価値を試そうとしていたことが推測される。ショパン独自の書き込みについては、テキストの修正、フーガにおける分析的な注釈、演奏に関する注釈に大別される。テキストの修正は本研究で最も重要なものであり、そこにはショパン独特な音響感覚が示されていた。彼は多くの個所でバッハが用いた自然的短音階を和声的短音階に修正しており、そこに含まれる半音進行と増2度進行は独特な歪な響きを作り出していた。また、テキストの修正には不協和音程の回避、拍毎に調が変化する調性の流動性、理論的な正当性に基づく音の修正、そして、3度の二重トリルといった彼独自のピアノ奏法を示すものも含まれていた。フーガにおける分析的な注釈は、フーガのテーマの開始部分と終了部分にテーマの形に応じて印を振るものであり、これはケルビーニの『対位法とフーガ講座』にも用いられている方法であった。演奏に関する注釈には彼独特な同じ指の連続使用を含む運指法や左右の手の取り分け、オルゲルプンクト等の重要な音に注意を向ける指示、更に、スティル・ブリゼといったフランス・バロックに由来する古典的な装飾技法等が含まれていた。本稿で得られた新たな示唆によって、ショパン理解が進展し、ショパン演奏に活かされることを願う次第である。
著者
横山 修一郎
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.37-46, 2009

ダンテ・アリギエーリは、『神曲』の「天国」第2歌において、月の表面にはなぜ斑状の模様(月の海)が見えるのか、という議論を展開する。そして、ダンテは、この「月の斑点」の理由説明をきっかけに、最終的には神から地上世界に至るまでの宇宙全体の組織図とその組織を動かすものが何か、ということを示す。ゆえに「天国」第2歌は、読者に論理的に思考することを求める言わば「学術的な」歌章であることは否定できないだろう。しかしながら、「天国」第2歌からは、知識という外在的な学術的要素と詩人ダンテの内在的な詩的発想とが、見事に調和する様を読み取れるのではないだろうか。
著者
山崎 法子
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.45-60, 2013

本稿は、フーゴ・ヴォルフのHugo Wolf(1860〜1903)の《メーリケの詩による歌曲集》を研究対象とし、その演劇的表現の諸相について考察することを目的としている。 今回この歌曲集を選んだのは以下の理由にある。第1に《メーリケ歌曲集》がヴォルフのその後の歌曲創作の出発点となったこと、第2にその創作のなかに、以後の《アイヒェンドルフ歌曲集》、《ゲーテ歌曲集》などの手法を確立するヴォルフの最初の独創性が示されていることにある。 ヴォルフの独創性については、先行研究においても、大きく見て3つの観点から論じられてきた。第1に朗唱法の観点(エッガー)、次にピアノ・パートの構造の観点(エップシュタイン)、最後に形式の観点(ガイアー)からである。しかしこれらの研究は、それぞれの楽曲の構造上の特徴を導き出しているものの、ヴォルフの表現の本質を論じるには至っていない。筆者は歌手としての立場から、ヴォルフの歌曲の本質は演劇的な要素を伴った表現にあるのではないかと考えている。ヴォルフの音楽からは、今、そこで、そのことが生起しているようなリアリティーを感じるからである。本稿で述べる「演劇的」とは、「観客を前に、俳優が舞台で身ぶりやセリフで物語の人物などを形象化し、演じてみせるようなもの」である。ヴォルフ自身も、歌手が舞台で演技を行うような表現を、メーリケ歌曲において思い描いていたと推測される手紙を残していることから、それがいかなるものであるかを明らかにすることが、これらの歌曲の本質を探ることにつながる。このことを考察するためには、従来研究されてきた朗唱法、ピアノの描写的効果に加え、歌唱旋律のリズム、音楽の間や呼吸感などを加味する必要がある。本稿は、歌唱旋律に重点をおきながら、この特質を導き出し、ヴォルフがメーリケの詩から鋭敏に読み取って音楽で表現した演劇的並びに心理的な側面を明らかにした。 構成と内容は以下の通りである。第1項ではメーリケの詩の特質をならびにヴォルフの《メーリケ歌曲集》について述べた。第2項では、ガイアーの分類で「リートに近い形式」に属する〈捨てられた少女Das verlassene Magdlein〉と「拡大された形式」に属する〈エオリアンハープに寄せてAn eine Aeolsharfe〉をとりあげ、詩と楽曲の分析を、それぞれシューマンとブラ-ムスの歌曲と比較しながら行った。そして分析の結果、韻律の置き換えやダーシの音楽化など音楽の"間"を通して、「私」をめぐる感情や出来事が、瞬間、瞬間のものとして表現されていることが明らかにされ、手法に差異はあるものの、いずれの楽曲においても、メーリケの詩に即した生き生きとした表現がみられることが導きだされた。 ヴォルフは、音高や音の長さ、休符、強弱、リズムといった音楽要素を媒介して楽譜に記しているが、さらにメーリケの詩に即して、ダーシ、コンマ、余白、といった詩語以外のサインについても意味解釈を行って音楽化している。これらは語り手(あるいは登場人物)の心を写実的に表すことにつながるもので、その演奏は広い意味で「演劇的」と述べてよいと、筆者は考えている。ヴォルフの歌曲を演奏するということは、これを読み解き、演奏によってこれを再現することである。
著者
槌谷 智子
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.81-92, 2014

パプアニューギニアに暮らすフォイでは、多くの昔話、寓話、神話、歴史的出来事が口頭で伝承されてきた。フォイの伝承には、結末で人間が動物や植物に変身するものが多いが、本論では人間が鳥に姿を変える伝承を集めた。伝承を通して、フォイにおける、善と悪、美と醜、強者と弱者への視点と価値観、社会的規範、超自然的力や存在に対する信仰、悲しみと怒りといった感性を知ることができる。伝承の中で、人間は動物に変身し、霊的存在は動物にも人間にも化身する。結末での動物への変身は、人間としての死と動物世界での再生が暗示されている。そこには絶対的価値の対立があるのではない。絶対的善や悪が存在するのではなく、美と醜、弱者と強者は時に逆転する。超自然的存在は現実世界に包含され、あるいは超自然的世界に人間は包含される。超自然的存在と人間は相互に交流し、相互に転換しうる。フォイにおいて人間と動物、現実世界と超自然的世界は断絶したものではなく、連続的なものである。
著者
中辻 小百合
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.107-122, 2010

本稿は、湯浅譲二 (Joji Yuasa, 1929-) によるバリトンとトランペットのための《天気予報所見 Observations on Weather Forecasts》(1983) において、言語コミュニケーションに関する問題がどのように反映させられているのかについて、作品の分析を通して明らかにすることを目的とする。この作品においては、身体的動作や身振り、感情表出といった非言語的な側面が重要な位置を占めていると考えられる。湯浅は言語コミュニケーションに含まれる非言語的な側面を実際にどのように考えているのだろうか。この問題を考察するにあたって、本稿では非言語的な側面に焦点を当て、作品の分析を試みた。その手順として、曲中における非言語的な側面を、テキストがない箇所における動作と、テキストの提示と同時に指示される身振り・感情表出および楽語とに分けたうえで詳細な分析を試みた。その結果、第一に、テキストがない箇所における動作が構成されるにあたっては、旋律やリズムといった音楽的要素を作品として構成していく方法を応用した音価および時間の段階的縮小と、freezeの動作に代表されるような期待されるものへの裏切りとの2つの特徴的な手法が、第二に、テキストと同時に指示される身振りや感情表出、楽語が配置される際には、前述した身体的動作と同様に、音楽的要素を作曲する際に用いられるシンメトリックな配列や三部形式が利用されていることが確認でき、西洋音楽の作曲における伝統的な方法のもとで構成されていることが明らかになった。一方、テキスト=語られる内容と非言語的な側面との関係の在り方には湯浅の独自性が表れており、分析の結果、情報伝達を目的とする天気予報と身振りや感情表現とは、一部の例外を除き、互いに対比させられたものとして位置づけられていることが明らかになった。この作品では、クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916-2001)らが提唱したような、送り手から受け手へ事実が伝達されるという言語通信システムにおいてはノイズと考えられる側面-すなわち、語られる声の個性や身振りといった音響的側面、言語活動にともなう感情表現としての身振りや動作といった身体的側面に焦点が当てられている。この点から筆者は、この作品をシャノンらの情報理論への音響的および身体的な側面からのアンチテーゼとして考えた。湯浅は、言語コミュニケーションに含まれるこのような非言語的側面に芸術的価値を見出し、詩や演劇といった形態としてではなく、音楽家としての立場から、それらをひとつの音楽作品として組織化したと言える。この《天気予報所見》は、言語コミュニケーションに含まれる非言語的側面を自らの手によって再構成し、音楽化したいという湯浅の創作意欲のあらわれであると結論付けた。
著者
中溝 一恵
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.61-72, 2006

江戸時代の錦絵などに木琴が描かれていた。歌舞伎の演目『天竺徳兵衛韓噺』で木琴が舞台上で奏された場面に始まり、ほぼ19世紀を通じて描かれ続けた。描かれた木琴の中には現在の木琴に存在しない部品が描かれている場合があり、どのように解釈すべきかという点に絞って検証した結果、当時のインドネシアのガンバンと呼ばれる木琴に同様の部品が付けられていたことが判明した。描かれた木琴とガンバンは構造上も際立った類似性を持つ。18世紀末の資料にオランダ人と木琴の関係に触れた記述が既に見られることから、描かれた木琴はオランダの植民地インドネシアのガンバンを模したものである可能性が高い。従来日本の木琴は中国に由来するとされており、描かれた木琴と中国由来の木琴に関する課題が浮かび上がってきた。
著者
白石 美雪
出版者
国立音楽大学
雑誌
音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.17-32, 2012

本論文は、1898(明治31)年の『読売新聞』に掲載された署名入り音楽関係記事を読解することによって、明治期における「音楽批評」の形成を活写しようとするものである。明治初期から新聞雑誌では政治的、道徳的な観点による音楽改良が論じられ、さらに専門雑誌『音楽雑誌』では音楽理論や音楽研究をテーマとした論文が発表されてきた。しかし、音楽会での演奏そのものを対象とした「批評」が成立するためには、外在的な価値観だけでなく、批評家と音楽そのものの間の内在的関係が必要となる。具体的には「批評家」自身が音楽の専門知識をもち、演奏家や作曲家の専門性を批評しようとする態度が生まれて初めて、「音楽批評」が成立するといえよう。このような認識のもとに、具体的には「演奏批評」を意図して計画的に長文で執筆し、さらには「楽評」自体を批評する論考が執筆される段階となった1898(明治31)年の『読売新聞』の音楽批評全19点を取り上げ、「批評」、「批評家」という認識、批評家としての姿勢、演奏の評価基準等を分析した。『読売新聞』を対象にしたのは文芸批評、演劇批評、美術批評の連載評論の伝統をもっていたからであり、とくに1898年に注目したのは、同声会や音楽学校の演奏会、慈善演奏会のほか、1月から明治音楽会の演奏会が定期的に開催され、日本音楽会の活動も再開して、西洋音楽を含む演奏会の数が格段と増えた年だったからである。その結果、年頭に「明治三十年の音楽界」を書いた会外生から、「演奏批評」を書いた神樹生、霞里生、楽石生(伊澤修二)、四谷のちか、なにがし(泉鏡花)、藤村(島崎春樹)、そして楽評を批評した聰耳庵まで、「音楽批評」が自覚的に形成されたことを確認することができた。すなわち、会外生は洋楽の知識と聴取経験による音楽観にもとづいて音楽会を「論評」し、神樹生は身体化した西洋音楽の音感覚から「音楽会批評」「演奏批評」のスタイルを確立し、自ら「批評家」を名乗って「素人評」と区別した。神樹生の共同執筆者である霞里生や、神樹生の執筆機会を継承した伊澤修二は、その批評スタイルを踏襲している。「素人」を自称した泉鏡花や音楽学校選科生の島崎藤村、四谷のちかもまた、自らの知識と経験を生かしつつ、神樹生の批評スタイルを意識した。聰耳庵または坂部行三郎と伊澤修二との論争は、東京音楽学校とその関係者の評価をめぐる内容ではあったが、そこで展開されたのは文字通りの「音楽批評家」批評であった。
著者
近藤 伸子
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.231-236, 2023-03-31

本稿は2022年4月5日,本学講堂大ホールにて,基礎ゼミお話(1)「シュトックハウゼンを知っていますか?」と題して行ったレクチャーの報告である.あまり触れる機会のない「現代音楽」の魅力を伝えると同時に,シュトックハウゼンのクリエイティブで固定観念を打ち破る作品や生涯から,今後の学生生活へのヒントを汲み取って欲しいと願い,このテーマを選んだ.
著者
川﨑 瑞穂
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.31-41, 2023-03-31

クロード・レヴィ=ストロースのテーバイ神話群の分析に想を得た音楽分析を、本来的な意味とは異なるという指摘はあるものの「範列分析 paradigmatic analysis」と呼ぶことがある。本稿では、民俗芸能のうち、東日本を中心に各地に伝わる「三匹獅子舞」の歌を例に、範列分析の応用可能性を検討する。筆者は本誌第52集に掲載した拙稿にて、狭山丘陵南麓に伝わる二つの三匹獅子舞「横中馬獅子舞」「箱根ヶ崎獅子舞」について研究した。しかし、拙稿ではその歌について考察することができなかった。本稿ではまず、範列分析を大略紹介したのち、箱根ヶ崎獅子舞の歌の構造を提示する。その後、三匹獅子舞の「歌」の意味論を展開した石川博行の論文「おばあさんの涙」を経由しつつ、歌詞の意味論の可能性、とりわけ「相同性」に着目した分析の方向性について若干の検討を試みる。
著者
宮谷 尚実
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.85-96, 2021-03-31

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの著作、特に『言語起源論』で用いられた各種の補助符号を手がかりとして18世紀ドイツ語語圏における句読法の一断面を明らかにする。その際、同時代の言語学者であり近代ドイツ語正書法の整備に貢献したヨハン・クリストフ・アーデルングによる句読法手引に記された符号の種類や使用法を参照することで、当時の句読法をめぐる状況からヘルダーの句読法を読み解いていく。ヘルダーの『言語起源論』には自筆稿や清書稿、初版と第2版という諸段階があり、そのプロセスで変更された符号もある。その後の複数の校訂版において補助符号がどのように変更されたかを比較検討し、さらに日本語訳において句読法をいかに「翻訳」できるのかという問題についても考察する。
著者
宮谷 尚実
出版者
国立音楽大学
雑誌
研究紀要 = Kunitachi College of Music journal (ISSN:02885492)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.127-137, 2022-03-31

18世紀ドイツ語圏における句読法の一断面を、ゲーテ『若きヴェルターの悩み』におけるダッシュ(Gedankenstrich)を手がかりとして明らかにする。初版(1774年)と改訂版(1787年)を比較すると、改訂版においてダッシュの使用回数が顕著に増え、補助符号も多様化している。『ヴェルター』におけるダッシュのさまざまな機能を、アーデルング『ドイツ語正書法完全手引』も参照して分析することにより、イギリス多感主義文学からドイツ語圏にも取り入れられたこの補助符号の系譜が浮き彫りになる。読み手や聴き手の思考や共感を要求する「沈黙の記号」としてのダッシュを日本語の縦書き文で再現することは容易ではない。音楽と言語の狭間に位置する句読法を日本語への翻訳においていかに反映させるか、その取り組みを提示することで今後にむけた翻訳の課題や可能性を提示する。