著者
高橋 雅人 Masahito TAKAHASHI
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.127-137, 2014-06-20

プラトンの『ポリティコス』と『国家』とはどのような関係にあるのだろうか。本論文はこの問いに答えるために、『ポリティコス』における理想的な政治家が『国家』における哲人王にではなくて、理想国の創設者に対応することを明らかにする。『ポリティコス』と『国家』の関係がいかなるものであるかについては、そもそも関係を論じないもの(加藤)、異質であることを強調するもの(スコフィールド、チェリー)、同質であることを主張するもの(カーン)、といった解釈がなされてきた。1で筆者はこういった解釈を簡単に紹介し、2でそれらに対する批判を述べる。筆者の見るところ、加藤の解釈はアリストテレスの最善のポリスの在り方についての考え方を楽観的にとらえすぎているように思える。スコフィールドの解釈は理想国の創設者がどのように誕生するかをプラトンがなぜ論じていないことを見落としている。チェリーの解釈はエレアからの客人とソクラテスとの違いを強調しすぎる。確かにエレアからの客人は、哲人王を主張するソクラテスとは違って、哲学者と政治家とを区別する。しかしたとえ哲学者と政治家が区別されるのだとしても、同一人物が哲学的知と政治的知の両方を持つことを妨げるものではない。かくして筆者は最後の解釈を取るカーンの議論に賛成する。しかし、カーンの解釈にも批判すべき点はある。3で筆者はそれを述べ、自己の見解を明らかにする。カーンは理想的な政治家と哲人王を同一視するが、筆者はその解釈をとらない。なぜならば、理想的な政治家が法を超えた存在であるのに対して、哲人王は確かに法をつくる働きは持つが、しかし国家の根幹をなす重要な法はこれを決して変えないことが期待されているからである。『ポリティコス』における理想の政治家はむしろ理想国の「創設者」と同一視されるべきなのである。
著者
高橋 雅人
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.127-137, 2014-06

プラトンの『ポリティコス』と『国家』とはどのような関係にあるのだろうか。本論文はこの問いに答えるために、『ポリティコス』における理想的な政治家が『国家』における哲人王にではなくて、理想国の創設者に対応することを明らかにする。『ポリティコス』と『国家』の関係がいかなるものであるかについては、そもそも関係を論じないもの(加藤)、異質であることを強調するもの(スコフィールド、チェリー)、同質であることを主張するもの(カーン)、といった解釈がなされてきた。1で筆者はこういった解釈を簡単に紹介し、2でそれらに対する批判を述べる。筆者の見るところ、加藤の解釈はアリストテレスの最善のポリスの在り方についての考え方を楽観的にとらえすぎているように思える。スコフィールドの解釈は理想国の創設者がどのように誕生するかをプラトンがなぜ論じていないことを見落としている。チェリーの解釈はエレアからの客人とソクラテスとの違いを強調しすぎる。確かにエレアからの客人は、哲人王を主張するソクラテスとは違って、哲学者と政治家とを区別する。しかしたとえ哲学者と政治家が区別されるのだとしても、同一人物が哲学的知と政治的知の両方を持つことを妨げるものではない。かくして筆者は最後の解釈を取るカーンの議論に賛成する。しかし、カーンの解釈にも批判すべき点はある。3で筆者はそれを述べ、自己の見解を明らかにする。カーンは理想的な政治家と哲人王を同一視するが、筆者はその解釈をとらない。なぜならば、理想的な政治家が法を超えた存在であるのに対して、哲人王は確かに法をつくる働きは持つが、しかし国家の根幹をなす重要な法はこれを決して変えないことが期待されているからである。『ポリティコス』における理想の政治家はむしろ理想国の「創設者」と同一視されるべきなのである。
著者
納富 信留 栗原 裕次 佐野 好則 荻原 理 大芝 芳弘 田中 伸司 高橋 雅人 土橋 茂樹 田坂 さつき 近藤 智彦
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

古代ギリシアにおける「正義」概念を明らかにし、現代社会の諸問題に応える目的で、プラトン『国家』(ポリテイア)を共同で検討した。その研究成果は、将来まとめて欧文研究書として海外で出版することを目標に、国際学会や研究会で報告され、欧文論文として海外の雑誌・論文集に発表されている。2010年夏に慶應義塾大学で開催された国際プラトン学会大会(プラトン『国家』がテーマ)では、メンバーが運営と研究の中核として、内外の専門家と共同で研究を推進した。
著者
高橋 雅人
出版者
神戸女学院大学
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.31-42, 2009-01

Plato's Symposium is one of the most puzzling dialogues among his works to interpret. It has many diverse parts such as the followings: the introduction, which shows that this dialogue is a report of the reported dialogue: different people's eulogies to Eros in different styles; Socrates' report of Diotima's Speech on Eros, in which the form of beauty is told; and Alcibiades' eulogy to Socrates. Not only each of them but also the unity of the whole dialogue is difficult to grasp. In the section 1 of this paper, I suggest that Symposium is "the second apology of Socrates", as it were, because the dialogue explains why Socrates is always with young handsome guys, and yet he is not responsible for their corruption. As an Eros, he pursuits beautiful youth and wisdom (because it is also beautiful) and is on the "ladder" to the form of beauty. In the section 2, by examining how ordinary people in ancient Greece think about ' the boy-loving' or homesexuality, I point out that loved boys (eromenoi) who are expected to play a "passive" role but in reality take an "active" one between their homosexual relationship may not take any political office or action. In the last section, by analyzing Alcibiades' eulogy to Socrates, I clarify two points. First, although Alcibiades may not take any political activity because of his seduction of Socrates, he will take a decisive role in the fall of the imperial Athens. This is why the corruption of Alcibiades is due, not to Socrates, buto to himself. Second, it is Alcibiades' knowledge and ignorance about Socrates that leads him to call his master "hybristes". He knows that Socrates is superior to himself in wisdom; but he never knows that this wisdom is the awareness of ignorance.
著者
バンフォード ジュリアン 高橋 雅人
出版者
文教大学
雑誌
湘南フォーラム:文教大学湘南総合研究所紀要 = Shonan Forum : Journal of the Shonan Research Institute Bunkyo University (ISSN:18834752)
巻号頁・発行日
no.12, pp.27-31, 2008-03-01

In this bilingual article, we describe an English class that motivates students and helps them develop confidence and basic speaking ability. This class is contrasted with conventional English classes in terms of purpose, method, content, class material and the role of the teacher.
著者
高橋 雅人 Masahito Takahashi
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.31, pp.133-153, 2017-03

本論文は、プラトン『法律』には女性性を評価する視点があることを論証しようとするものである。そのために、まず一節でプラトンの『法律』でクレイニアスの求めに応じてクレテ島に建設されることになるマグネシアにおける女性の主に政治との関わりについて確認する。ついで二節において、『法律』における結婚の意義について『国家』の妻子共有論と比較しながら考察する。三節ではプラトンの女性の「本性」観を検討し、女性性と節制との関係を明らかにした上で、『法律』が節制を重んじる対話篇であることから、プラトンが女性性を重視していることを明らかにする。
著者
佐藤 康邦 谷 隆一郎 三嶋 輝夫 壽 卓三 山田 忠彰 勢力 尚雅 高橋 雅人 熊野 純彦 下城 一 船木 享 湯浅 弘
出版者
放送大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

哲学的概念としての「形態」に関する問題は古くて新しい。形態という概念は、内容に対して事物の表面に漂う外面的なものを指す一方で、「かたち」という和語からして、かたいもの・確固とした真理という含意もある。西洋思想では、プラトンのイデア、アリストテレスのエイドスなど、古代ギリシアに遡りうる概念である。近世以降、機械論や還元主義を特徴とする自然科学の立場から、形態概念は排斥されがちであったが、美的形態や有機体の形態を扱うカントの『判断力批判』は、近代思想における形態論の先行例といえる。その形態論的発想は、むしろ、現代では、最先端の科学において見出される。構造主義生物学、ゲシュタルト心理学、認知心理学、量子論、熱力学(シナジェティクス)、複雑システムなどの多領域において、形態論の復権の動きが認められ、自然科学と人文科学との積極的対話の可能性が開かれつつある。倫理学においても、この観点から新たに検討されねばならないだろう。本研究では、形態という概念を手がかりに、人文科学としての倫理学の独自の意義と使命とを問い直すことを意図した。倫理思想史上の諸学説を形態論の観点から再考しつつ、応用倫理学や規範学という狭い領域に限定せず、現代の科学論における形態論復権の動向に対応する新しい倫理学の可能性を探究した。(1)古代ギリシア思想(2)古代ユダヤ思想(3)中世キリスト教思想(4)カントの形態論(5)近代思想(ドイツ観念論・イギリス経験論)(6)現代思想(7)科学論(8)藝術・文藝(9)日本近代思想(和辻哲郎・西田幾多郎・三木清)。以上の分野を専門とする研究分担・協力者を(若手研究者の研究発展にも寄与すべく特に留意)組織し、毎年度数回の全体会議において、各々の個別研究をふまえた対話・討論を行った。以上の研究成果は、最終年度に論集(成果報告書)としてまとめられたほか、別項11にある各員の業績を通じて公表された。
著者
高橋 雅人
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.37-53, 2003-03-31

It is well known that Plato insists in the Books II-III of his Republic that guardians' education should be consisted of both music and gymnastics. While one of these, i. e. music (or poetry), is widely and thoroughly argued in this dialogue, the other, i. e. gymnastics, is much less discussed. However, this does not lead us to the conclusion that gymnastics is not so important for the education. In this paper I analyze 403c9-412bl of Republic III, 'the gymnastics part', with two purposes : first, to show the unity of 'the gymnastics part', which is at first sight seemed to have a digression ; second, to clarify the feature of gymnastics in Plato's educational system. Before analyzing 'the gymnastics part', I check how Plato uses the word 'rouvaotikn (gymnastics) in all of his dialogues. According to these data, when he argues art as itself (as in mainly Gorgias), he always treats gymnastics with medicine. On the other hand, when his concern is about the application of art (as in Republic and in Laws), Plato never discusses gymnastics without music. In the next section I propose the unity of 'the gymnastics part', which can be divided into three segments. This reading shows that the second segment (405al-410a6) is not digressive but significant for our understanding of Plato's treatment of gymnastics. The reason why he discusses medicine here is that gymnastics is important not only for childhood and youth but also for a person's whole life in order that one does not need physicians except unavoidable wounds or seasonal diseases. And Plato's critic against Herodicus, who mixed gymnastics with medicine, is to be linked with the final segment (410a7-412bl) in which he tells us that the mixture of gymnastics with music is good and desirable. In this blend the other and main purpose of gymnastics is newly uncovered. In the first segment (403c9-404e6) gymnastics is said to be for physical strength, but in the final it is declared to be for psychic harmony. The last section of my paper deals with the question how and by whom gymnastics can be mixed with music. That a 'philosopher' can mingle the two arts most befittingly with his wisdom is my answer.
著者
高橋 雅人 バンフォード ジュリアン
出版者
文教大学
雑誌
情報研究 (ISSN:03893367)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.317-329, 2005-07

大学を含む英語教育についての政府の計画は具体的な方向性を帯びてきている。文部科学省の「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3 月31日)と平成16年3 月に開かれた「英語が使える日本人」の育成のための行動計画東京フォーラムは文教大学での英語教育と学生の英語能力に関係し責任を負う教職員にとって手引き、方向性を示すものと言える。パート1 では2003「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の中から大学に関する考察、パート2 では日本企業からの大学生の英語能力についての要望、パート3 では我々の考える文部科学省の指針と企業からの要望に成功裏に応えるための提案をする。
著者
高橋 雅人 Bamford Julian
出版者
文教大学
雑誌
情報研究 (ISSN:03893367)
巻号頁・発行日
no.33, pp.317-329, 2005

大学を含む英語教育についての政府の計画は具体的な方向性を帯びてきている。文部科学省の「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3 月31日)と平成16年3 月に開かれた「英語が使える日本人」の育成のための行動計画東京フォーラムは文教大学での英語教育と学生の英語能力に関係し責任を負う教職員にとって手引き、方向性を示すものと言える。パート1 では2003「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の中から大学に関する考察、パート2 では日本企業からの大学生の英語能力についての要望、パート3 では我々の考える文部科学省の指針と企業からの要望に成功裏に応えるための提案をする。