著者
西本 豊弘 藤尾 慎一郎 永嶋 正春 坂本 稔 広瀬 和雄 春成 秀樹 今村 峯雄 櫻井 敬久 宮本 一夫 中村 俊夫 松崎 浩之 小林 謙一 櫻井 敬久 光谷 拓実 設楽 博巳 小林 青樹 近藤 恵 三上 喜孝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
学術創成研究費
巻号頁・発行日
2004

弥生時代の開始が紀元前10世紀末であることが明らかとなった。その後、日本列島各地へは約500年かかってゆっくりと拡散していった。さらに青銅器・鉄器の渡来が弥生前期末以降であり、弥生文化の当初は石器のみの新石器文化であることが確実となった。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01
被引用文献数
1

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。In the Jōmon Period, people subsisted on hunting, fishing and gathering activities; and in the Yayoi Period, also they practiced hunting, fishing and gathering. However, rice-crop agriculture occupied large share of all their subsistence. Their sense of the value of animals must have been different in each period, reflecting the difference in their subsistence. I will consider these differences by the study of animal bones.At first, they had only dogs as domestic animals in the Jōmon Period, and these dogs were for hunting purpose. In the Yayoi Period, they kept pigs and fowls as well as dogs. In this period, dogs were not only for hunting, but also used for food. Because of this, the dogs in the Jōmon Period were buried, but they were scarcely buried in the Yayoi Period.Secondly, regarding the ceremonial use of animals, there is little evidence left that they used animals in such ceremonial events in the Jōmon Period. On the other hand, in the Yayoi Period, they used pigs in some of the agricultural ceremonies. They used pigs not only for food, but also for animal sacrifice. Although the pigs were not always handled in ceremonial ways, a lot of mandibles drilled with a hole in the ramus have been excavated, and there were some instances where they were excavated in such condition that a wooden rod was sticking in the hole. Regarding the boars in the Jōmon Period, there is no instance where their mandibles had a hole. This way of treating the bones started in the Yayoi Period.Thirdly, some dozen instances of wild boar-shaped clay figurines of the Jōmon Period have been excavated, but there were no deer-shaped clay figurines. Deer and wild boars were mainly hunted in the Jōmon Period and almost the same number of them were captured. However, the condition of excavated clay figurines shows a great difference. In the Yayoi Period, there are no wild boar-shaped clay figurines left, perhaps because the tradition of clay figurines itself disappeared. However, regarding the drawings on the pottery and Doutaku (big ceremonial bronze bell), deer are more usual than wild boars. In such ways, the craft works and design in the Jōmon Period and the Yayoi Period are very different.Above all, I considered the differences in handling animals at three aspects between the Jōmon Period and Yayoi Period. When I note these differences, I conclude that not only the concept of an animal but also the value-judgment about how to deal with animals were different in the Jōmon Period from what they were in the Yayoi Period. It is reasonable to say that these differences show not only a change of subsistence from hunting, fishing and gathering to that of agriculture, but also great changes in the whole society. It is not too much to say that the Yayoi society was the result of many agricultural people with totally different senses of value coming over to Japan from the Korean peninsula.
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10-31

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01-20

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
著者
青野 友哉 新美 倫子 澤田 純明 永谷 幸人 篠田 謙一 近藤 修 添田 雄二 安達 登 西本 豊弘 渋谷 綾子 神澤 秀明
出版者
東北芸術工科大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2022-04-01

「縄文時代には争いや格差はなかった」というイメージは、受傷人骨や子供への厚葬の存在により、どの地域・時期でも当てはまるとは言い難い。特に北海道有珠モシリ遺跡18号墓は、頭部に受傷痕跡を持つ8体を含む11体の人骨が1つの墓に再埋葬されており、集団間の争いを想起させる。墓が作られた北海道の縄文晩期後葉は西日本の弥生前期にあたることから、農耕文化の受容に伴う広域的な社会変容の可能性もあり、解明には受傷痕跡の成因や人の移動、血縁関係など多角的な検討が必要となる。本研究では、骨考古学・形質人類学・法医学の知見と骨科学分析により、縄文終末期の日本列島で起きた社会変容の実態と合葬墓の埋葬原理を明らかにする。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p175-194, 1991-11

弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
著者
西本豊弘編
出版者
吉川弘文館
巻号頁・発行日
2008
著者
鈴木 隆雄 百々 幸雄 西本 豊弘 三橋 公平
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.91, no.4, pp.455-463, 1983 (Released:2008-02-26)
参考文献数
21

北海道縄文時代後期末葉に属すると考えられる三ツ谷貝塚出土人骨において,成人および小児の上顎洞内に極めて特徴ある骨増殖像が認められた。この所見は,臨床耳鼻咽喉科学上,いわゆる"遊離骨片"と診断されるものであるが,本症例のように巨大な骨塊を呈するものは臨床的にも,また古病理学的にも比較的稀なものである。今論文はこの"遊離骨片"について,その形態,古病理学的診断等について述べるとともに本症の病因や遺伝的素因についても若干の考察をおこなった。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p49-70, 1993-02

弥生時代のブタの形質について,家畜化現象を見るポイントを説明した後,第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値を中心に検討した。まず,第1頚椎の形態では,朝日遺跡の資料によって,イノシシとブタを区別できることを示した。第1頚椎の上部は,イノシシでは高くなるのに対してブタでは低くなる。縄文時代や現代のイノシシの計測値を参考にすると,高さが長さの58%よりも高いものはイノシシで,それよりも低いものはブタと推定された。これは,ブタが餌を与えられるために,イノシシよりも首の筋肉を使う程度が低く,そのため首の筋肉の発達が弱くなり,それにしたがって骨の発達も悪くなるのではないかと思われる。この基準に従えば,朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタということになった。次に上顎第3後臼歯では,縄文時代のイノシシに比べて弥生時代のイノシシ類では小さくなっていることが明らかとなった。この縮小の程度は,縄文時代以降のイノシシの縮小の程度と比べてみても大きい。気候変化や人口増加・狩猟圧などを含む島嶼化現象だけではなく,家畜化の影響が歯を小さくした大きな要因ではないかと推測された。その他の部位では,これまでにも述べているように,ブタでは頭蓋骨が高くなることを,下郡桑苗遺跡出土の資料で説明した。また,下顎骨では連合部と下顎骨底部の延長線の成す角度が,ブタではイノシシに比べて大きくなることを説明した。The author first explains the points to note in the phenomena of the domestication of the pig in the Yayoi period, then examines their physical character, centering on the measurements of the first cervical vertebrae and of the third molar of the upper jaw. With the shape of the first cervical vertebrae, the author show that the wild boar and the pig can be distinguished according to the materials excavated from the Asahi Site. The upper part of the first cervical vertebrae is high in the wild boar, and low in the pig. Referring to the measurements of wild boars of the Jōmon period and of the present, it was deduced that those in which the height of the first cervical vertebrae was more than 58% of the length were wild boars, and those in which the height was less than 58% of the length were pigs. The reason for this may be as follows: Since pigs were given their food, their neck muscles developed less than wild boars, and thus their neck bones also developed less well. According to this standard, among the genus of Sus at the Asahi Site, 15% were boars and 85% pigs.Next, an examination of the third molar of the upper jaw made it clear that the tooth of the sus in the Yayoi period was smaller than that of the Jōmon period. The degree of reduction was great even in comparison with the degree of reduction in wild boars seen after the Jōmon period. Not only the islanding phenomena, including climatic change, increase in human population and pressure from hunting, but also the influence of domestication, is thought to have been a large factor in the reduction in size of the tooth. As for other parts of the body, the author uses the materials of Shimogoori-Kuwanae to explain that the cranium of the pig became higher. The author further explains that the angle made by the extension of the copula and the bottom part of the mandible was larger in pigs than in wild boars.
著者
小谷 凱宣 FITZHUGH W.W 新美 倫子 出利葉 浩司 切替 英雄 西本 豊弘 佐々木 利和 FTIZHUGH William W KENDALL L. POSTER A. G KATZ A. H FITZHUGH W. KREINER Jos POSTER A.G. KATZ A.H. OELSCHELEGER エッチ.デー KREINER J.
出版者
名古屋大学
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1994

本研究計画に関連するアイヌ・コレクションは、北米と西ヨーロッパに所蔵されている。このほかに、アイヌ資料はロシア各地の博物館に所蔵されていることは広く知られている。平成7年度より、ロシア国内のアイヌ資料調査が千葉大学・荻原眞子教授らのグループにより開始され、その研究成果がまとめられつつある。ロシア資料の調査結果と北米・西欧における研究成果と合わせることにより、海外のアイヌ・コレクションの全体像とアイヌ物質文化に関する新知見が得られよう。この一連の研究はさらに、北方地域の一民俗に関わる博物館資料の悉皆調査という初めての試みであり、現代文明の影響を受けて変容した北方狩猟民文化に関する研究資料の再検討という意味で、優れて現代的意義を有する。本研究計画による研究成果に、とくに北太平洋地域の研究者が一致して注目しているゆえんである。そして、本研究計画は、欧米の北方文化研究者が立案している「ジェサップ2計画」の先駆的役割を果たしつつある。西欧と北米のアイヌ資料との比較の試みを通して、欧米の研究者がアイヌ研究と資料収集に特に関心を抱いた知的背景が明確になってきた。西欧のアイヌ文化の研究者は、広義の自然史学(基礎科学)の枠組みの中で知的訓練を受けていることが指摘できる。このことが、アイヌ文化の伝統が維持されていた時期に調査収集が行われた事実と相まって、学術的に質の高いコレクション収集を可能にした背景である。さらにフランツ・フォン・シ-ボルト以降、「高貴な野蛮人」、「失われたヨーロッパ人」、「消滅しつつある狩猟民」としてのアイヌ民族文化への関心が、アイヌ研究を推進した。19世紀半ば頃から提唱された「アイヌ=コーカソイド仮説」は、欧米諸国民と研究者のアイヌ文化へ関心をいっそう高め、ドイツとアメリカにおけるコレクション収集を加速した。アイヌ文化を含む北方狩猟民文化研究の動きは、第一次大戦勃発とそれにともなう社会変化のために停止した。日本人研究者による本格的なアイヌ文化研究とコレクション収集の努力は、第一次大戦以降にはじまったことが浮き彫りにされてきた。前年までの在米アイヌ資料の調査の遺漏を補うために、シカゴ(シカゴ大学とフィールド自然史博物館)とニューヨーク(アメリカ自然史博物館)で補充調査を実施した。なかでも、シカゴ大学図書館特別資料部所蔵のフレデリック・スターのコレクションにふくまれる映像資料(スライド類)お精査し、さらに、写真類も入手したことにより、スターが収集したアイヌ関係資料の全容がほぼ判明してきた。すなわち、スターは明治末の10年足らずの間に、アイヌ資料を約1,200点、アイヌ関係映像資料を約100点、そのほかに膨大な量の未公表フィールドノートと往復書簡類を残していることが解明できた。スターが収集したアイヌ資料の数は北米の総資料の約40%を占め、世界的にもきわめて大きなアイヌ・コレクションの一つといえる。また、彼の残した未公表資料は貴重な背景資料であり、アイヌ文化研究史においても重要である。スターのアイヌ関係資料の集大成が緊急の課題である。最後に、スミソニアンの極北研究センターにおいて、アイヌ文化に関する特別展覧会の準備が開始されたことは注目に値する。これは本研究計画の成果が展覧会企画の契機になったもので、研究成果の相手国への還元につらなる。また、ジェサップ北太平洋調査開始から百周年を記念する国際学会が1997年秋にアメリカ自然史博物館で開催される予定であり、また、「ジェサップ2計画」(1897-1903に行われたF・ボアズによるジェサップ北太平洋調査時に収集された未公表の諸資料の整理公表の事業)が始まる予定である。新たなる眼で北方諸文化の資料を再整理し、変容しつつある先住民文化の理解の促進とアイデンティティ確立に資するものである。これは、本研究計画、アイヌ資料悉皆調査の目的と一致するものである。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.175-194, 1991-11-11

弥生時代の遣跡から出土する「イノシシ」について,家畜化されたブタかどうか,再検討を行った。その結果,「イノシシ」が多く出土している九州から関東までの8遺跡では,すべての遺跡でブタがかなり多く含まれていることが明らかとなった。それらのブタは,イノシシに比べて後頭部が丸く吻部が広くなっていることが特徴である。また,大小3タイプ以上は区別できるので,複数の品種があると思われる。その形質的特徴から,筆者は弥生時代のブタは日本でイノシシを家畜化したものではなく,中国大陸からの渡来人によって日本にもたらされたものと考えている。また,ブタの頭部の骨は,頭頂部から縦に割られているものが多いが,これは縄文時代には見られなかった解体方法である。さらに,下顎骨の一部に穴があけられたものが多く出土しており,そこに棒を通して儀礼的に取り扱われた例も知られている。縄文時代のイノシシの下顎骨には,穴があけられたものはまったくなく,この取り扱い方は弥生時代に特有のものである。このことから,弥生時代のブタは,食用とされただけではなく農耕儀礼にも用いられたと思われる。すなわち,稲作とその道具のみが伝わって弥生時代が始まったのではなく,ブタなどの農耕家畜を伴なう文化の全生活体系が渡来人と共に日本に伝わり,弥生時代が始まったと考えられるのである。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.53-74, 1985-03-25

In a previous paper, an analysis was attempted of hunting and fishing in Hokkaido during the Jōmon and Epi-Jōmon culture by examining faunal remains. One of the conclusions was that although Ezo deer and salmon were generally maintained to be the main animals of subsistence, sea animals were also important good.This paper is a sequel to the previous study, presenting research into subsistence activities, mainly the transition of hunting and fishing activities in Hokkaido after the Epi-Jōmon Period to the Edo Period. As a result, it is estimated that at the time of Satsumon Culture Period the society of Hokkaido was strong influenced by the peasant society of Honshu and that a great amount of crops were consumed in Hokkaido. But farming was not intensively carried out after the Period of Satsumon Culture. The Ainu People of Hokkaido after the people of the Satsumon Culture was engaged in economic activities centered in the money economy of Honshu. Although hunting and fishing were done, it seems that after the Satsumon Culture these activities were complement to crops and wageworking. Of course, this tendency is observed mainly in Southern Hokkaido, where there was a certain amount of communication between the people of Honshu and Hokkaido. In the Northern and Eastern districts of Hokkaido, people relied more on the traditional means of hunting and fishing. After the appearance of the Matsumae-Han and spread of Bashouke System throughout the island, Hokkaido was incorporated into the money economy of Honshu during the Edo Period. Needless to say, during this period the Ainu Culture was continued to be handed down through their culture system from generation to generation although it was transformed in many ways.
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03-31

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
青野 友哉 西本 豊弘 伊達 元成 渋谷 綾子 上條 信彦 大島 直行 小杉 康 臼杵 勲 坂本 稔 新美 倫子 添田 雄二 百々 幸雄 藤原 秀樹 福田 裕二 角田 隆志 菅野 修広 中村 賢太郎 森 将志 吉田 力 松田 宏介 高橋 毅 大矢 茂之 三谷 智広 渡邉 つづり 宮地 鼓 茅野 嘉雄 永谷 幸人
出版者
伊達市噴火湾文化研究所
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2014-04-01

北海道南部の噴火湾沿岸は日本有数の貝塚密集地帯であり、1950年代から貝塚研究の中心地の一つであった。この60年以上にわたり蓄積された調査成果と、現代的な視点で行った近年の発掘調査による新たな分析は、当該地域の環境変遷と人類活動の実態の復元を可能にした。本研究では、噴火湾沿岸の遺跡データの集成と、伊達市若生貝塚及び室蘭市絵鞆貝塚の小発掘により得た貝層サンプルの分析の成果として、時期ごとの動物種の構成比を明示した。これは縄文海進・海退期を含む気候の変動期における当該地域の環境変遷の詳細なモデルである。
著者
西本 豊弘 篠田 謙一 松村 博文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

茨城県取手市の中妻貝塚から、縄文時代後期初頭の人骨100体以上がひとつの小さな土壙墓からまとまって出土した。これまでに縄文時代の遺跡からは多くの人骨が出土しているが、ひとつの土壙からこのような多数の人骨が出土した例はない。しかも発掘状況から、被葬者は堀ノ内2式期のごく短期間のうちに死亡した集落内の血縁の濃い人々であったと考えられた。縄文時代の社会組織については、住居址や埋葬形式などの考古学的事例や民族学的事例から論議されてきたが、いずれも想像の域を出ていない。とりわけ、人骨から議論されたことは一度もない。考古学を専門とする西本は取手市の依頼により中妻貝塚の発掘報告書を刊行すると同時に、1994、95年にわたり形質人類学を専門とする松村を分担者として、科学研究費助成金(一般C)の支援を受け、人骨の復元・整理・記載等の作業をおこなった。また試験的にこれら被葬者のうち29体の歯の計測値にもとづく血縁関係の分析を行ったところ、この29体に2つの家系とみられるクラスターが見出された。今回の基盤研究(C)による研究では、一つには、中妻貝塚人の歯の計測値にもとづいて推定された血縁関係がどの程度まで信頼できるかを別の方法で検討することとし、さらには中妻貝塚以外の遺跡について血縁関係を追及することとした。前者については、分子人類学的手法として、歯根部からDNAを抽出することにより血縁解析を実行した。最終的に歯の形態とDNAによる血縁関係の突合せることによって、確信のもてる血縁関係を明らかにした。歯冠計測による血縁推定とDNAによる血縁解析との対比が大きく注目されるところである。従来の単独の方法による血縁推定は精度の限界から、推定がどの程度事実を反映しているのか、検証が困難であったからである。両者の方法による結果の突合せは画期的であり、血縁推定の有効性や方法論についても大きな進歩が期待される。
著者
飯泉 克典 国府田 良樹 小池 渉 西本 豊弘 安藤 寿男 伊達 元成
出版者
一般社団法人 日本地質学会
雑誌
地質学雑誌 (ISSN:00167630)
巻号頁・発行日
vol.116, no.5, pp.243-251, 2010 (Released:2010-10-13)
参考文献数
20
被引用文献数
1 3

茨城県つくば市の花室川河床から海生哺乳類である鰭脚類の化石骨を発見し,ニホンアシカZalophus japonicusオスの左上腕骨と同定した.また,中島ほか(2002)に中手骨あるいは中足骨と報告されていた標本を再検討の結果,Z. japonicusメスの左距骨と同定した.Z. japonicusの左上腕骨の骨組織について14C年代測定を行い,27,900±120 14C BPの年代値と31,950~31,300 cal BPの暦年較正年代値が得られ,この化石の供給源は化石の産状も考慮して桜川段丘堆積物に相当する緩斜面堆積物であると推定された.この年代は,ナウマンゾウPalaeoloxodon naumanniに代表される花室川の哺乳類化石群の含有層の年代が後期更新世末期であることを裏付けるものである.また,陸生哺乳類を主体とする花室川の哺乳類化石群から鰭脚類の左上腕骨と距骨が産出した理由については,後期旧石器時代人による人為的行為の可能性を検証する必要性が指摘される.