- 著者
-
中村 羊一郎
Yoichiro NAKAMURA
- 出版者
- 静岡産業大学情報学部
- 雑誌
- 静岡産業大学情報学部研究紀要
- 巻号頁・発行日
- no.10, pp.262-221, 2008
複雑に入り組んだ陸中海岸の入江では、回遊してくるイルカの群れを追い込んで文字通り一網打尽に捕獲する「イルカ追い込み漁」を、大正時代まで行っていたところが二ヵ所知られている。そのうちの岩手県下閉伊郡山田町大浦については、本紀要の前号において同タイトルの(上)として報告した。本稿はそれに続いて、もう一ヶ所のイルカ追い込み漁実施地区であった岩手県大船渡市赤崎の事例を報告する。赤崎におけるイルカ追い込み漁の開始時期は明確ではないが、漁の瀬主であった志田家に残る収益配分などを記載した勘定帳には享和二年(一八〇二)のものがあり、少なくともそれ以前から追い込み漁が行われていたことは確実である。本稿では、この志田家文書を基本史料とし、現地における聞き取り調査を加えて追い込み漁の実態と、それが村落生活と如何なる関係をもって実施されてきたかを考察する。なお、大船渡湾はイワシ漁に好適であっただけでなく、海草や貝類なども豊富であったため海面使用をめぐる争いが生じ、赤崎村は対岸の大船渡村との間で、いわゆる海論を繰り返してきた。その初めは元禄時代にさかのぼり、明治のいわゆる旧漁業法施行前まで三十回以上に及ぶ。注目すべきは、そのなかでイルカ漁は一貫して赤崎に独占権が認められていたと考えられるが、これは湾内に入ってくるイルカの回遊コースとも深い関連がある。つまり赤崎側は水深が深く、イルカの群れは湾の最奥に近い野島という小島の周りを三回まわって再び出て行くといわれているので、その間に赤崎側で網を張りかける時間があるということになる。なお、イルカは仲間の霊を弔うためにやってくるといわれているが、これは「海豚参詣」といわれる民俗に属し、類例が少ない東北地方太平洋側における貴重な事例である。さらに、追い込み漁の実施にあたっては、湾内で操業中のイワシ手繰り網(アラデ網)の仲間が重要な役割を果たしていたため、他地区で一般的な第一発見者に対する報償はなく、最初に網を張った「一番張り」に対して、水揚高の十五分一が与えられるという規約があった。また勘定帳には漁ごとに酒代が計上されており、さらに配分率に若干の差はあるものの、全戸に当り金が配られたこともわかる。イルカ漁が、単純な捕獲作業ではなく、集落運営全体に直結した特殊な意味をもっていたことを、この赤崎の事例でも確認できる。なお、赤崎より南の宮城県気仙沼市唐桑においては、江戸時代中ごろに積極的にイルカ漁を実施していた記録があるので、あわせて紹介し簡単な考察を加えることにする。唐桑のイルカ漁の始まりは紀州から北上してきたカツオ漁師ないし鰹節製造者との関連が想像されるが、この点は前号の山田湾大浦の事例と対照させて考えなければならない。