著者
三谷 憲正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.91-110, 2003-03-31

朝鮮王朝末期の王妃「閔妃」は韓国および日本を通じ、これまで多くの資料と作品の中で語られてきた。が、現在一般的に流布している「閔妃」の写真から喚起される<像>をもってしてそれらの資料と作品を読んでいいのだろうか、という疑問がつきまとう。なぜなら、従来「閔妃」の写真、と言われて来たものは、実は別人のものである可能性が高いからである。これまで流布してきた「閔妃の写真」と言われるものは、もともと、「宮中の女官」あるいはそれに準ずる女性を撮ったものだったのではないか、と推測できる。実際不思議なことではあるが、戦前の「閔妃」に言及している日本語文献の資料は「閔妃」の写真は出て来ない。
著者
三谷 憲正
出版者
佛教大学国語国文学会
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
no.4, pp.172-185, 1999-10-02

これまでの先行研究は、いずれも昭和一〇年の第一回芥川賞を基点としてそれ以降の両者を論じてきていた。が、ここで考えてみたいのは、太宰治の言説の表層にタームとして表れ出でなかった〈川端康成〉についてである。太宰治の「断崖の錯覚」「東京八景」「畜犬談」などの、一見不可解とも思われる叙述の裏側に、〈川端康成〉という補助線―特に「伊豆の踊子」「雪国」「禽獣」―を仮に設定してみることによって、その不可解感のよって来たる所を解明できないか、という試みである。本稿はそのことによって、太宰文学の抒情が、王朝文学の伝統を受け継ぎそれを現代に蘇らせた〈川端的抒情〉とは異なり、すぐれて〈土着的な日本〉の〈抒情〉だったのではないか、という点の解明を企図した。
著者
三谷 憲正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.91-110, 2003-03

朝鮮王朝末期の王妃「閔妃」は韓国および日本を通じ、これまで多くの資料と作品の中で語られてきた。が、現在一般的に流布している「閔妃」の写真から喚起される<像>をもってしてそれらの資料と作品を読んでいいのだろうか、という疑問がつきまとう。なぜなら、従来「閔妃」の写真、と言われて来たものは、実は別人のものである可能性が高いからである。これまで流布してきた「閔妃の写真」と言われるものは、もともと、「宮中の女官」あるいはそれに準ずる女性を撮ったものだったのではないか、と推測できる。実際不思議なことではあるが、戦前の「閔妃」に言及している日本語文献の資料は「閔妃」の写真は出て来ない。したがって、戦前までの文学作品を含む文献に登場してくる「閔妃」に関しては、現在流布している"閔妃の写真"をもとに<現在の視点>からそのイメージを喚起することはできない、ということが言えるのではなかろうか。
著者
三谷 憲正
出版者
佛教大学国語国文学会
雑誌
京都語文 (ISSN:13424254)
巻号頁・発行日
no.1, pp.128-149, 1996-10-19

『人間失格』は太宰の自叙伝などではない。葉蔵は不思議なことに〈食欲〉と〈性欲〉がないかのように設定され、また、年上の女性たち(母子家庭が多い)といつも〈二階〉に漂うかのように存在している(中学の下宿、東京の下宿、シズ子のアパート、京橋のバア)。しかし、年下の唯一結婚するヨシ子との生活の場のみ、葉蔵は〈一階〉に降りて来る。その背景には福音書のイエスがいる。この場合、「父」は旧約の「エホバ」に他ならない。「父神」は現実の《リアリズム》を指向するが、「神の子」葉蔵は天上的な《ロマンチシズム》で動く。しかし、この《ロマンチシズム》は《リアリズム》に敗北する。そのような、もう一つの《陰画としてのイエス伝》、つまり昭和という《現代に降り立ったイエスの伝記》が『人間失格』というテキストである。
著者
三谷 憲正
出版者
仏教大学学会
雑誌
人文学論集 (ISSN:03863298)
巻号頁・発行日
no.22, pp.p31-47, 1988-12