- 著者
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丸田 健
- 出版者
- 科学基礎論学会
- 雑誌
- 科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
- 巻号頁・発行日
- vol.25, no.2, pp.77-82, 1998-03-31 (Released:2010-05-07)
- 参考文献数
- 7
『探究』の感覚日記の議論 (§258)(1) は, 所謂私的言語論の中核をなす重要な議論である。これは, 公的に観察可能な何ものからも独立に生起する感覚の記録を付ける, という設定になっているのだが, 伝統的には, 〈このような日記の記録には意味がない〉とされてきた。なぜならば, この記録に使用される記号には, 用法の正しさの独立の基準-これは, ここでは, そのような感覚が確かに生じたのかどうかについて, 記録とは独立に, 記録の正しさを保証する基準と同じであるが-このような基準が欠けているからである。ヴィトゲンシュタインが書き残した様々な覚書を, 書かれた意図や時期や文脈を考えずに取り出してきて繋ぎ合わせると, 一見, 上の解釈が妥当であるかに見える。ヴィトゲンシュタインは, 文法規則が意味を決めるのであり(2), 基準が語に意味を与えるのであり(3), したがって感覚の生起のような内的状態にも基準が必要であり (cf.§580), また私的基準は基準たりえない (cf.§202) と述べているではないか-と, このように考えられるのだ。感覚日記で考えられている感覚は, まさに公的基準を持たないものである。したがって, そのような感覚の日記は, 無意味だとされるのである。しかし, 現実にこのような日記を付ける人に遭遇すれば, 我々は彼の記録を無意味だと見做すだろうか? ヴィトゲンシュタインが実際そう考えていたのなら, 彼は我々を規則の檻に閉じ込めてしまうような狭隘な言語観を持っていたのだとして, 私はヴィトゲンシュタインは誤っていると言いたい。しかし彼は果たして, 本当に感覚日記が無意味だと主張したのだろうか? 本稿では, 論点を次の三つに絞ることで, 伝統的解釈の再考を試みる。1) 私的言語の可能性と感覚日記の可能性は, 分けて論じられるべきである。2) 記録の正しさを記録とは独立に保証する基準の欠如, という理由によっては, 感覚日記の記録を無意味とすることは容易ではない。3) 感覚日記の議論の論点は, 正当化の欠如に対する批判ではなく, むしろ正当化を要求するような或る内的体験の語り方に向けられた批判であった。以上の三点を, それぞれ以下の三つの節で扱って行くことにする。