著者
今泉 敦美 小川 亞子 鄭 飛 田熊 公陽 阪元 甲子郎 松崎 航平 丸田 健介 矢野 佑菜
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement Vol.43 Suppl. No.2 (第51回日本理学療法学術大会 抄録集)
巻号頁・発行日
pp.0966, 2016 (Released:2016-04-28)

【はじめに,目的】長時間の精神作業や精神的ストレス負荷は,眠気の誘発と共に意欲・集中力の低下をもたらす。また,尾上ら(2004)は脳が疲労することにより前頭前野の血流低下がみられることを報告している。脳の疲労回復に効果的なものとしてアロマセラピー,ガムを噛むなどが挙げられているがそれらの効果を比較した文献は見当たらない。本研究の目的は,閉眼安静・ガム・アロマセラピーの3つの項目のうち短時間で脳の疲労を改善する手段を比較検討することである。【方法】対象は健常若年成人9名(男性3名,女性6名,平均年齢22.3±1.4歳)。脳表の血流変化は,光トポグラフィETG4000(株式会社日立メディコ製)を用い,国際10-20法に準じて脳疲労関連部位である前頭前野に3×3のプローブを設置した。今回,脳の疲労回復方法として3つの方法(閉眼安静,アロマセラピー,ガムを噛む)を用い,また脳を疲労状態にさせるため2桁の100マス計算を施行した。方法は1.10秒間安静,60秒間100マス計算を30秒の休憩をはさみ2回施行。その間NIRSによる脳血流量の測定を行う。2.30秒間安静後被験者は3つの方法をそれぞれ5分間実施。(1)安静:光を遮断した室内で閉眼し,5分間の安静をとる。(2)アロマセラピー:香りは精油(レモングラス)を匂い紙に浸したものを被験者より約3cmの距離で吸入させる。(3)ガム(ミディアムタイプ):メトロノームを用いて毎分60回の頻度で5分間咀嚼する。3.その後1分間安静をとり,その間にNIRSによる脳血流量の測定を再度行う。統計学的解析は,SPSS(Ver.21)を用いて多重比較検定を行った。なお,有意水準は5%未満とした。【結果】3つの課題において,閉眼安静がアロマセラピーとガムに比べて左右の背側前頭前野のoxy-Hb量が最も増加した。安静の次にoxy-Hb量の増加がみられたのはガムであり右側背側前頭前野において増加がみられた。また,アロマセラピーは他項目に比べ増加率は少なかったが,左側上部前頭前野のoxy-Hb量の増加が見られた。【結論】本研究では,3つの課題が大脳皮質前頭前野の脳血流に与える影響についてNIRSを用いて脳血流量の変化を比較・検討した。閉眼安静時に最も脳血流の増加がみられた。理由として,高橋ら(2003)は,入眠前になると,副交感神経が活発になり血管が拡張すると報告している。このことから,5分間の閉眼安静による視覚遮断,室内を暗くすることにより睡眠に近い状況に持っていくことで,副交感神経が活発になり心身・身体ともにリラックスできたことで脳血流量増加に至ったのではないかと推測される。また石黒ら(2013)は,測定部位である前頭前野は運動学習の課題遂行性の改善に重要な役割を果たしていると報告している。今後の課題として,臨床において閉眼安静が運動学習効率化に活かせるのかを検討していきたい。
著者
丸田 健
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.46, pp.306-282, 2018-03

本稿は「現在ポリバケツは民具である」という民具学の或る学説を取り上げる。なぜそのような説が主張されねばならなかったのか。まず古典的な民具概念の成立事情をたどる(第二章)。古典的概念に対する反発としてのポリバケツ民具論を概観し、その主張の構造を検討する(第三章)。桶の構成要件の複数性を確認するため、桶のあらましを描写する(第四章)。ポリバケツ民具論は、物の構成要素の一つのみを不十分に満たすものであり、さらにその他のものを等閑視するものとして、批判される(第五章)。最後にカテゴリーについての現代的考えを民具に適応することを提案する。
著者
今泉 敦美 小川 亞子 鄭 飛 田熊 公陽 阪元 甲子郎 松崎 航平 丸田 健介 矢野 佑菜
出版者
公益社団法人 日本理学療法士協会
雑誌
理学療法学Supplement
巻号頁・発行日
vol.2015, 2016

【はじめに,目的】長時間の精神作業や精神的ストレス負荷は,眠気の誘発と共に意欲・集中力の低下をもたらす。また,尾上ら(2004)は脳が疲労することにより前頭前野の血流低下がみられることを報告している。脳の疲労回復に効果的なものとしてアロマセラピー,ガムを噛むなどが挙げられているがそれらの効果を比較した文献は見当たらない。本研究の目的は,閉眼安静・ガム・アロマセラピーの3つの項目のうち短時間で脳の疲労を改善する手段を比較検討することである。【方法】対象は健常若年成人9名(男性3名,女性6名,平均年齢22.3±1.4歳)。脳表の血流変化は,光トポグラフィETG4000(株式会社日立メディコ製)を用い,国際10-20法に準じて脳疲労関連部位である前頭前野に3×3のプローブを設置した。今回,脳の疲労回復方法として3つの方法(閉眼安静,アロマセラピー,ガムを噛む)を用い,また脳を疲労状態にさせるため2桁の100マス計算を施行した。方法は1.10秒間安静,60秒間100マス計算を30秒の休憩をはさみ2回施行。その間NIRSによる脳血流量の測定を行う。2.30秒間安静後被験者は3つの方法をそれぞれ5分間実施。(1)安静:光を遮断した室内で閉眼し,5分間の安静をとる。(2)アロマセラピー:香りは精油(レモングラス)を匂い紙に浸したものを被験者より約3cmの距離で吸入させる。(3)ガム(ミディアムタイプ):メトロノームを用いて毎分60回の頻度で5分間咀嚼する。3.その後1分間安静をとり,その間にNIRSによる脳血流量の測定を再度行う。統計学的解析は,SPSS(Ver.21)を用いて多重比較検定を行った。なお,有意水準は5%未満とした。【結果】3つの課題において,閉眼安静がアロマセラピーとガムに比べて左右の背側前頭前野のoxy-Hb量が最も増加した。安静の次にoxy-Hb量の増加がみられたのはガムであり右側背側前頭前野において増加がみられた。また,アロマセラピーは他項目に比べ増加率は少なかったが,左側上部前頭前野のoxy-Hb量の増加が見られた。【結論】本研究では,3つの課題が大脳皮質前頭前野の脳血流に与える影響についてNIRSを用いて脳血流量の変化を比較・検討した。閉眼安静時に最も脳血流の増加がみられた。理由として,高橋ら(2003)は,入眠前になると,副交感神経が活発になり血管が拡張すると報告している。このことから,5分間の閉眼安静による視覚遮断,室内を暗くすることにより睡眠に近い状況に持っていくことで,副交感神経が活発になり心身・身体ともにリラックスできたことで脳血流量増加に至ったのではないかと推測される。また石黒ら(2013)は,測定部位である前頭前野は運動学習の課題遂行性の改善に重要な役割を果たしていると報告している。今後の課題として,臨床において閉眼安静が運動学習効率化に活かせるのかを検討していきたい。
著者
丸田 健
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.1-1, 2021-09-30 (Released:2021-09-30)
参考文献数
33

Does (the former) “Part II” of the Philosophical Investigations represent departures for new directions toward the “philosophy of psychology”? In this article, we will go back to Wittgenstein's pre-Investigations writings and see that the examination of the concept of meaning experiences, together with the examination of other “peculiar” psychological experiences, constitutes a driving force within his later philosophy. In particular, we will note that Part II of the Brown Book deals predominantly with themes from the philosophy of psychology, and how Wittgenstein attempts therein to represent descriptions of experiences in terms of the grammar of expression, thereby shunning the Augustinian conception of description. Such interest in meaning experiences and related psychological experiences is not fully reflected in the last sections of “Part I” of the Investigations. In view of Wittgenstein's prior concern, the possibility strongly remains that the now severed “Part II” forms in some way an indispensable part of his unfinished masterpiece.
著者
丸田 健
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.65-71, 2000-03-31 (Released:2009-07-23)
参考文献数
21
著者
丸田 健
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of the Nara University
巻号頁・発行日
no.51, pp.1-16, 2023-02-28

本稿では、柳宗悦の民藝思想の基礎を辿りながら、現代に通じる民藝の意義を考察する。民藝理論では、直下に直観されるべき道具の美が強調される。しかし民藝的諸道具にある価値は、それだけではないだろう。諸道具には様々な指示内容があり、それらにも人間にとって重要な価値がある。そしてそれらを知ることではじめて見える美の側面もある。民藝的道具はまた、使用を通じ、様々な親密な関係を作らせるものである。これらの、美や指示内容や用途性の全体によって、民藝は我々を、生活へ向かわせる。民藝には、人間存在の根源に触れる重要な価値があるが、他方、手仕事道具の存続は危ぶまれている。民藝は多くを与えつつ、同時に、人間がいかに生きるべきかを考える課題も突き付けているように思われる。
著者
中井 好男 丸田 健太郎
出版者
日本質的心理学会
雑誌
質的心理学研究 (ISSN:24357065)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.91-109, 2022 (Released:2022-04-01)

本研究は,ろうの両親を持つ聴者(CODA: Children of Deaf Adults)とろうの姉弟を持つ聴者(SODA: Siblings of Deaf Adults/Children)である筆者らが自ら経験した生きづらさについて分析する当事者研究である。CODA と SODA は,音声日本語使用者であることから,マイノリティの要素が隠れた見えないマイノリティとされる。そ こで,筆者らは見えないマイノリティの当事者として,自身の経験を対象化し,ろう者の家族が抱える問題の外 在化を目指した。分析には協働自己エスノグラフィ(Collaborative autoethnography)を応用してそれぞれの自己エ スノグラフィを作成し,生きづらさを生み出す構造について考察した。両者の自己エスノグラフィには,聴者の 世界に同化せんがために,ろう文化との関わりを受容するか否かというジレンマを抱えていることが記されてい る。また,聴文化とろう文化から受け取る矛盾したメッセージによって認知的不協和に陥るだけではなく,自己 を抑圧するドミナント・ストーリーを内在化することで「障害者の家族」という自己スティグマを持っているこ とも示された。この背景にあるメッセージは,筆者らと他者との相互行為に加え,両親や姉弟との相互行為を介 して伝えられるものでもあるため,構造的スティグマとしての性質を有していると言える。
著者
丸田 健
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.77-82, 1998-03-31 (Released:2010-05-07)
参考文献数
7

『探究』の感覚日記の議論 (§258)(1) は, 所謂私的言語論の中核をなす重要な議論である。これは, 公的に観察可能な何ものからも独立に生起する感覚の記録を付ける, という設定になっているのだが, 伝統的には, 〈このような日記の記録には意味がない〉とされてきた。なぜならば, この記録に使用される記号には, 用法の正しさの独立の基準-これは, ここでは, そのような感覚が確かに生じたのかどうかについて, 記録とは独立に, 記録の正しさを保証する基準と同じであるが-このような基準が欠けているからである。ヴィトゲンシュタインが書き残した様々な覚書を, 書かれた意図や時期や文脈を考えずに取り出してきて繋ぎ合わせると, 一見, 上の解釈が妥当であるかに見える。ヴィトゲンシュタインは, 文法規則が意味を決めるのであり(2), 基準が語に意味を与えるのであり(3), したがって感覚の生起のような内的状態にも基準が必要であり (cf.§580), また私的基準は基準たりえない (cf.§202) と述べているではないか-と, このように考えられるのだ。感覚日記で考えられている感覚は, まさに公的基準を持たないものである。したがって, そのような感覚の日記は, 無意味だとされるのである。しかし, 現実にこのような日記を付ける人に遭遇すれば, 我々は彼の記録を無意味だと見做すだろうか? ヴィトゲンシュタインが実際そう考えていたのなら, 彼は我々を規則の檻に閉じ込めてしまうような狭隘な言語観を持っていたのだとして, 私はヴィトゲンシュタインは誤っていると言いたい。しかし彼は果たして, 本当に感覚日記が無意味だと主張したのだろうか? 本稿では, 論点を次の三つに絞ることで, 伝統的解釈の再考を試みる。1) 私的言語の可能性と感覚日記の可能性は, 分けて論じられるべきである。2) 記録の正しさを記録とは独立に保証する基準の欠如, という理由によっては, 感覚日記の記録を無意味とすることは容易ではない。3) 感覚日記の議論の論点は, 正当化の欠如に対する批判ではなく, むしろ正当化を要求するような或る内的体験の語り方に向けられた批判であった。以上の三点を, それぞれ以下の三つの節で扱って行くことにする。