著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
出版者
京都学園大学経済学部学会
雑誌
京都学園大学経済学部論集 = Journal of the faculty of economics Kyoto Gakuen University (ISSN:09167331)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.33-50, 2013-09

近世の中国にあっては支配的な規範や価値を侵犯し逸脱するような、秩序転覆的な物語が多く生まれ各地の民衆に広がっていた。四大奇書と四大伝説のいずれもがそうした秩序転覆性を多かれ少なかれもつが、民話においては皇帝を庶民が殺してしまう大胆不敵なものすら広く伝えられてきた。本稿では、そうした秩序転覆的な物語が近世中国において広く語り継がれ好まれてきた、歴史的・社会学的・心理学的な意味を明らかにするための基礎作業として、皇帝ないし王を殺す物語である、「眉間尺」、「十兄弟」、「百鳥衣」の三つの系統の民話を取り上げて、それらのもつ物語的な特質と精神的な意義を、とくに「英雄神話」型の物語との異同と日本との比較を手がかりとして、考察する。
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.35-57, 2014-03-01

古代にあって蛇は人類の様々な想像力を喚起してきたが、中心にあるのは人を誘惑し、騙し、命を脅かす、おぞましくも蠱惑的なイメージであった。古代中国では、蛇身の女媧と伏羲が人間創造の神とされたが、天ならびに皇帝を象徴する龍と分化して、中世になると蛇はもっぱら得体の知れない化物となって、生殖と死の不気味な象徴となった。近世に入り社会の国家化が進み文化が洗練されていくなかで、いわゆる「白蛇伝」が生み出されていく。白蛇の化身である白娘子は、許宣という若く平凡な男を誑かし死にいたらしめようとするが、法海禅師とその一党によって雷峰塔の下に鎮圧される。それはいわば国家-社会システムの全面的な勝利を象徴するかのようである。しかし、儒教的な権威的イデオロギーが空洞化していく明末以降清代にかけて何度も語り演じ直されるなかで、日本に渡った「蛇性の淫」等とは異なり、白蛇は次第に男を一途に想う人間的な一人の女となっていく。なかでも、法海との対決は一番の見せ場である「水闘」の段としてより劇的になり、道徳的で抑圧的な秩序を破壊しようとする、かつてなく激しい女の怒りの表現がみられる。この頃には白蛇は仙界から投胎されたものと理想化され、さらには状元となった息子との再会を待ちわびる等身大の母親の姿にすらなる。これは、国家的・男権的な秩序と性愛的な関係性とが対立したものとされるなかで、男女相互の欲望のありようが洗練され、親密さを感情と価値の中心とする新たな私的領域が生み出されていったことを示していると思われる。これらの一連の物語の発展・変容には、父権的な社会・家族構造とイデオロギーの裏側に育った、性愛と生命の流れへの民衆的で非言語的な創造の力がみられるのであって、そこに近世中国社会の近代への胎動が見てとれる。
著者
藤川 義雄 Yoshio Fujikawa 京都学園大学 KYOTOGAKUEN UNIVERSITY
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.45-57, 2005-07-20

1990年代,極度の不振に苦しんだ日産自動車が,カルロス・ゴーンの指導の下,劇的な復活を実現し,企業再生モデルとして注目されているのは周知の通りである。この再生に当たり,非常に重要な役割を果たしたのが日産リバイバルプランとして示された中期経営計画であった。この経営計画は,期限と数値目標がはっきりと示され,経営者にとっては投資家に対するコミットメントとなり,従業員にとっては一人一人が目指していくべき方向となり,投資家にとっては経営責任の遂行を評価する基準として機能した。その目標実現過程は,会計データから検証可能であるが,そこにはビッグ・バスと呼ばれる会計手法がとられていた。日産の復活の過程を損益計算書とキャッシュ・フロー計算書を対比していくことで,一般的な評価とはまた異なるV時回復の姿を見て取ることができる。
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
出版者
京都学園大学経済学部学会
雑誌
京都学園大学経済学部論集 = Journal of the faculty of economics Kyoto Gakuen University (ISSN:09167331)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.35-57, 2014-03

古代にあって蛇は人類の様々な想像力を喚起してきたが、中心にあるのは人を誘惑し、騙し、命を脅かす、おぞましくも蠱惑的なイメージであった。古代中国では、蛇身の女媧と伏羲が人間創造の神とされたが、天ならびに皇帝を象徴する龍と分化して、中世になると蛇はもっぱら得体の知れない化物となって、生殖と死の不気味な象徴となった。近世に入り社会の国家化が進み文化が洗練されていくなかで、いわゆる「白蛇伝」が生み出されていく。白蛇の化身である白娘子は、許宣という若く平凡な男を誑かし死にいたらしめようとするが、法海禅師とその一党によって雷峰塔の下に鎮圧される。それはいわば国家-社会システムの全面的な勝利を象徴するかのようである。しかし、儒教的な権威的イデオロギーが空洞化していく明末以降清代にかけて何度も語り演じ直されるなかで、日本に渡った「蛇性の淫」等とは異なり、白蛇は次第に男を一途に想う人間的な一人の女となっていく。なかでも、法海との対決は一番の見せ場である「水闘」の段としてより劇的になり、道徳的で抑圧的な秩序を破壊しようとする、かつてなく激しい女の怒りの表現がみられる。この頃には白蛇は仙界から投胎されたものと理想化され、さらには状元となった息子との再会を待ちわびる等身大の母親の姿にすらなる。これは、国家的・男権的な秩序と性愛的な関係性とが対立したものとされるなかで、男女相互の欲望のありようが洗練され、親密さを感情と価値の中心とする新たな私的領域が生み出されていったことを示していると思われる。これらの一連の物語の発展・変容には、父権的な社会・家族構造とイデオロギーの裏側に育った、性愛と生命の流れへの民衆的で非言語的な創造の力がみられるのであって、そこに近世中国社会の近代への胎動が見てとれる。
著者
福光 瑞江 Mizue Fukumitsu 京都学園大学非常勤講師
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.83-95, 2007-03-01

哲学者J.マッキーは、①「神は全能である」、②「神は全善である」、③「悪は存在する」という三つの命題の間には論理的な意味での矛盾があり、これら三つを同時に整合的に固執することができないと見て、「善なる全能者と悪のパラドクス」および「全能と自由意志のパラドクス」を指摘する。そして、これらのパラドクスが、有神論者を自己矛盾に陥らせていると批判する。この批判に、分析哲学に精通したアングロ・アメリカ系の神学者、A.プランティンガとR.スウィンバーンが以下のように応戦する。「全能なる神でさえ、丸い四角形を作るような論理的矛盾を犯すことはできない」、また、「神は全能ではあるけれども、自分が気に入った可能世界のどれをも現実化できたわけでもなければ、道徳上の善をふくむが道徳上の悪をふくまない世界を創造することができたわけでもない。」こうした哲学と神学の攻防が、学問の進歩を誘導することになる事態を、本稿はクローズアップする。