著者
川田 耕
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.97-113,189, 1994-10-31 (Released:2017-02-15)

Morality is generally something more than traditional practices. M.Foucault distinguishes the moralities between the "code-oriented" moralities, which have a system of traditonal practices and rules of behavior in detail, and the "ethics -oriented" moralities, in which such system and rulues are rather rudimentary and leave their function to each individual's retlective consciousness. In the latter case, each individual is required not only to have self-awareness but to make self-formation as "ethical subject". I think "the popular morality "in Japan which was named and investigated by Yasumaru Yoshio can be called ethics-oriennted morality, because this morality demands people should reform traditional practices and have reflective consciousness. The popular morality is ethical because of its great interest in each individual's consciousness and it is popular because of its premise that establishment of proper consciousness may bring some social profit. The popular morality depends on smooth circle of the moral doctrine, each individual's consciousness and the social profit. When this circle is not satisfactory, the existence of ethical subject is threatend,and the effects of morality tend to be code-oriented. I investigate such structure of this morality in early modern Japan (especially in the discourse of the "Rono" in the late Edo period and the "Hotokushugi" in the Meiji period), and search the transformation of it in the Meiji period and the possibility of creating new ethics.
著者
川田 耕
出版者
社会学研究会
雑誌
ソシオロジ (ISSN:05841380)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.97-113,189, 1994

Morality is generally something more than traditional practices. M.Foucault distinguishes the moralities between the "code-oriented" moralities, which have a system of traditonal practices and rules of behavior in detail, and the "ethics -oriented" moralities, in which such system and rulues are rather rudimentary and leave their function to each individual's retlective consciousness. In the latter case, each individual is required not only to have self-awareness but to make self-formation as "ethical subject".<br> I think "the popular morality "in Japan which was named and investigated by Yasumaru Yoshio can be called ethics-oriennted morality, because this morality demands people should reform traditional practices and have reflective consciousness. The popular morality is ethical because of its great interest in each individual's consciousness and it is popular because of its premise that establishment of proper consciousness may bring some social profit. The popular morality depends on smooth circle of the moral doctrine, each individual's consciousness and the social profit. When this circle is not satisfactory, the existence of ethical subject is threatend,and the effects of morality tend to be code-oriented.<br> I investigate such structure of this morality in early modern Japan (especially in the discourse of the "Rono" in the late Edo period and the "Hotokushugi" in the Meiji period), and search the transformation of it in the Meiji period and the possibility of creating new ethics.
著者
中西 康裕 三宅 好子 川田 耕平 久保 友美子 今中 淳二 廣田 雅彦 後藤 淳宏 今村 知明
出版者
一般社団法人 日本医療情報学会
雑誌
医療情報学 (ISSN:02898055)
巻号頁・発行日
vol.36, no.3, pp.123-134, 2016 (Released:2017-09-11)
参考文献数
29

本研究では,800床規模の高機能を持つ平均的な大病院をモデルケースとして,まず薬剤収益を求める収益計算の一般的な線形式を作成した.その線形式を基に,後発医薬品導入率,院外処方率および薬剤値引き率等を変数として,変数の増減による薬剤収益の変動を分析した.後発医薬品導入率が0%から100%へ増加することで,収益は約2億1,143万円上昇した.DPCに包括される薬剤が後発医薬品に置き換えられることによって入院薬剤経費が削減され,さらに後発医薬品係数の上昇により診療報酬が増加した.しかし,院外処方率が10%から90%へ増加することで,後発品導入による収益増と同程度の約2億442万円の収益が減少した.院内処方を堅持している病院は,院外処方に切り替えた病院と比較してより多くの薬剤収益を上げていることが本分析によって示された.国の政策として,後発医薬品の推進は経済的インセンティブが有効に機能していると言える.だが,院外処方の推進については,すでに院外処方が主流であるものの経済的インセンティブが働いているとは言い難い状況であろう.
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
出版者
京都学園大学経済学部学会
雑誌
京都学園大学経済学部論集 = Journal of the faculty of economics Kyoto Gakuen University (ISSN:09167331)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.33-50, 2013-09

近世の中国にあっては支配的な規範や価値を侵犯し逸脱するような、秩序転覆的な物語が多く生まれ各地の民衆に広がっていた。四大奇書と四大伝説のいずれもがそうした秩序転覆性を多かれ少なかれもつが、民話においては皇帝を庶民が殺してしまう大胆不敵なものすら広く伝えられてきた。本稿では、そうした秩序転覆的な物語が近世中国において広く語り継がれ好まれてきた、歴史的・社会学的・心理学的な意味を明らかにするための基礎作業として、皇帝ないし王を殺す物語である、「眉間尺」、「十兄弟」、「百鳥衣」の三つの系統の民話を取り上げて、それらのもつ物語的な特質と精神的な意義を、とくに「英雄神話」型の物語との異同と日本との比較を手がかりとして、考察する。
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.35-57, 2014-03-01

古代にあって蛇は人類の様々な想像力を喚起してきたが、中心にあるのは人を誘惑し、騙し、命を脅かす、おぞましくも蠱惑的なイメージであった。古代中国では、蛇身の女媧と伏羲が人間創造の神とされたが、天ならびに皇帝を象徴する龍と分化して、中世になると蛇はもっぱら得体の知れない化物となって、生殖と死の不気味な象徴となった。近世に入り社会の国家化が進み文化が洗練されていくなかで、いわゆる「白蛇伝」が生み出されていく。白蛇の化身である白娘子は、許宣という若く平凡な男を誑かし死にいたらしめようとするが、法海禅師とその一党によって雷峰塔の下に鎮圧される。それはいわば国家-社会システムの全面的な勝利を象徴するかのようである。しかし、儒教的な権威的イデオロギーが空洞化していく明末以降清代にかけて何度も語り演じ直されるなかで、日本に渡った「蛇性の淫」等とは異なり、白蛇は次第に男を一途に想う人間的な一人の女となっていく。なかでも、法海との対決は一番の見せ場である「水闘」の段としてより劇的になり、道徳的で抑圧的な秩序を破壊しようとする、かつてなく激しい女の怒りの表現がみられる。この頃には白蛇は仙界から投胎されたものと理想化され、さらには状元となった息子との再会を待ちわびる等身大の母親の姿にすらなる。これは、国家的・男権的な秩序と性愛的な関係性とが対立したものとされるなかで、男女相互の欲望のありようが洗練され、親密さを感情と価値の中心とする新たな私的領域が生み出されていったことを示していると思われる。これらの一連の物語の発展・変容には、父権的な社会・家族構造とイデオロギーの裏側に育った、性愛と生命の流れへの民衆的で非言語的な創造の力がみられるのであって、そこに近世中国社会の近代への胎動が見てとれる。
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
出版者
京都学園大学経済学部学会
雑誌
京都学園大学経済学部論集 = Journal of the faculty of economics Kyoto Gakuen University (ISSN:09167331)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.35-57, 2014-03

古代にあって蛇は人類の様々な想像力を喚起してきたが、中心にあるのは人を誘惑し、騙し、命を脅かす、おぞましくも蠱惑的なイメージであった。古代中国では、蛇身の女媧と伏羲が人間創造の神とされたが、天ならびに皇帝を象徴する龍と分化して、中世になると蛇はもっぱら得体の知れない化物となって、生殖と死の不気味な象徴となった。近世に入り社会の国家化が進み文化が洗練されていくなかで、いわゆる「白蛇伝」が生み出されていく。白蛇の化身である白娘子は、許宣という若く平凡な男を誑かし死にいたらしめようとするが、法海禅師とその一党によって雷峰塔の下に鎮圧される。それはいわば国家-社会システムの全面的な勝利を象徴するかのようである。しかし、儒教的な権威的イデオロギーが空洞化していく明末以降清代にかけて何度も語り演じ直されるなかで、日本に渡った「蛇性の淫」等とは異なり、白蛇は次第に男を一途に想う人間的な一人の女となっていく。なかでも、法海との対決は一番の見せ場である「水闘」の段としてより劇的になり、道徳的で抑圧的な秩序を破壊しようとする、かつてなく激しい女の怒りの表現がみられる。この頃には白蛇は仙界から投胎されたものと理想化され、さらには状元となった息子との再会を待ちわびる等身大の母親の姿にすらなる。これは、国家的・男権的な秩序と性愛的な関係性とが対立したものとされるなかで、男女相互の欲望のありようが洗練され、親密さを感情と価値の中心とする新たな私的領域が生み出されていったことを示していると思われる。これらの一連の物語の発展・変容には、父権的な社会・家族構造とイデオロギーの裏側に育った、性愛と生命の流れへの民衆的で非言語的な創造の力がみられるのであって、そこに近世中国社会の近代への胎動が見てとれる。
著者
川田 耕
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.45, pp.147-173, 2020-11
著者
川田 耕
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.37, pp.178-149, 2016-12-10
著者
川田 耕
巻号頁・発行日
no.2, pp.157-174, 2021-03-07
著者
川田 耕司
出版者
福島県立医科大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2018-04-01

本研究では、ガラクトース誘導亜急性老化モデルマウスおよびSAMP1老化モデルマウスにおいて、正常老化マウスで認められる各CD4+T細胞サブセットの割合、特に濾胞ヘルパーT細胞(Tfh)様の表現型を有する細胞の増加が認められた。このTfh様細胞増加は、抗生物質投与による腸内細菌叢の変化によって抑制され、抗生物質投与マウスにおいて腸内優占種となっていたLactobacillus murinusの経口投与によっても同様の抑制効果が認められた。これらの結果からL. murinusが老化に伴い増加するTfh様細胞の分化および数的調節に関与している可能性が示唆された。
著者
本田 和也 川田 耕太郎
出版者
鹿児島女子短期大学
雑誌
鹿児島女子短期大学紀要 = BULLETIN OF KAGOSHIMA WOMEN’S COLLEGE (ISSN:02868970)
巻号頁・発行日
no.58, pp.69-73, 2021-02-28

近年,障害のある幼児の動向として,幼稚園や保育所,幼保連携型認定こども園において,障害のある幼児が在籍しており,特別支援教育の対象となる幼児の数は年々増加傾向にある.「幼稚園教育要領解説」等では,障害のある幼児の障害の種類や程度を十分に理解して指導内容を設定し,指導方法の工夫を行うことが求められている.本研究では幼児教育段階での障害のある幼児への指導のあり方について検討した.特に,指導内容や指導方法における自立活動の有効性について,質問紙による調査を通して分析した.その結果,保育現場において,自立活動の理解が進んでいないことが示唆された.しかし,保育者への自立活動の理解を促すことが,指導の有効性へとつながることも示唆された.
著者
川田 耕 京都学園大学経済学部
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.53-67, 2008-09-01
著者
川田 耕 Koh Kawata 京都学園大学経済学部
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.47-60, 2008-02-01

現代の香港においてもっとも優れた映画監督、許鞍華(1947年~)の作品を通時的に分析することによって、そこに世界と自己をめぐる独創的な認識が展開されていることを明らかにする。許鞍華は、78年のテレビ・ドラマ『来客』から82年の『投奔怒海』にいたる「ベトナム三部曲」において、返還後の香港の運命を寓話的に警告するなどといった社会的な批判をすることにとどまらず、我々の生きる世界が根源的に理不尽で過酷なものであるという迫害的な世界観を激しい憤怒をもって提示した。けれども、次第に自分の人生への回顧と自省の傾向を強めていき、母親との和解を主題とした90年の『客途秋恨』以降は、具体的な人間関係を主題とするより安定したものに変化するとともに、男たちの身勝手な姿を辛辣に、しかし悲哀をもって描くようになる(『女人、四十』『半生縁』など)。こうした転換をへて、許鞍華は、かねて散発的に取り上げてきた「望まれない妊娠」というモチーフを中心的なテーマにすえてそれに内省的に取り組むにいたる。それが許鞍華の映画作家としての頂点をなす『千言寓語』(99年)と『男人四十』(2001年)であり、そこで彼女は、理不尽にもみえる世界と社会のなかでの、愛情と生殖と欲望をめぐる、生きることのダイナミズムを表現する。さらに『姨媽的後現代生活』(06年)では、自分の人生への失望とともに、後の世代への希望を表明する。
著者
川田 耕
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.38, pp.214-177, 2017-03-10