著者
土田 宏成
出版者
吉川弘文館
雑誌
日本歴史 (ISSN:03869164)
巻号頁・発行日
no.860, pp.80-86, 2020-01
著者
奈良岡 聰智 小川原 正道 川田 敬一 土田 宏成 梶原 克彦 水野 京子
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住総研研究論文集 (ISSN:21878188)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.189-200, 2013

本研究は,各国の駐日大使館の立地,建築様式,およびその機能について解明することを目的としたものである,駐日大使館については研究の蓄積が浅いため,まずは建築史料,外交文書など,一次的史料やデータを収集することを通して,今後の大使館研究の基盤を構築することを目指した。また,それらの史料情報を得るにあたって,旧華族への聞き取り調査を行った。特に研究対象としたのは,重要な外交上のパートナーであったアメリカ,フランス,およびベルギーの3国である。本研究を通じて,大使館が両国の外交関係を「象徴」する存在として,重要な機能と特徴的な建築を有していたことが確認された。
著者
奈良岡 聰智 小川原 正道 川田 敬一 土田 宏成 梶原 克彦 水野 京子
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住総研研究論文集 (ISSN:21878188)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.189-200, 2013 (Released:2017-08-10)

本研究は,各国の駐日大使館の立地,建築様式,およびその機能について解明することを目的としたものである,駐日大使館については研究の蓄積が浅いため,まずは建築史料,外交文書など,一次的史料やデータを収集することを通して,今後の大使館研究の基盤を構築することを目指した。また,それらの史料情報を得るにあたって,旧華族への聞き取り調査を行った。特に研究対象としたのは,重要な外交上のパートナーであったアメリカ,フランス,およびベルギーの3国である。本研究を通じて,大使館が両国の外交関係を「象徴」する存在として,重要な機能と特徴的な建築を有していたことが確認された。
著者
土田 宏成
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.53-66, 2006-01

満州事変後における軍部の宣伝活動が、国民世論を軍国主義的な方向に導くうえで大きな力を発揮したことはよく知られているが、これまでの研究では陸軍の宣伝に関心が集中しており、海軍についてはあまり注目されてこなかった。海軍の宣伝は内容、規模、影響力ともに陸軍に及ばなかったとみなされているからである。海軍の宣伝が陸軍の宣伝に及ばなかった最大の原因は、海軍の国民的基盤の弱さに求められる。陸軍の宣伝が強力だったのは、国民の間に多数の会員を持ち、「軍隊と国民との媒介者」の役目を果たした在郷軍人会を利用できたからである。陸海軍の軍隊としての基本的性格の違いから、在郷軍人の数において陸軍が海軍を圧倒していた。そのため在郷軍人会は陸海軍共通の組織ではあったが、事実上陸軍の組織であったのである。しかし、一九三〇年代海軍も陸軍と同様に国防宣伝を行う必要に迫られ、その弱点である国民的基盤の弱さを克服しようと試みる。具体的には、陸軍の在郷軍人会に相当するような国民的組織を持つことが目指されるのである。海軍が採用したのは、既存組織である海軍協会の拡充という方法であった。そして海軍協会は、海軍当局の指導と支援の下に、海軍の長老で政治力もある斎藤実を新会長に迎え、全国府県単位に知事を長とする支部を設置し、大々的に会員を募集した。そして、一九三四年の第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉、三五年の本会議に向けて、宣伝活動に力を入れていく。その主張は海軍の立場を代弁するもので、現行の海軍軍縮条約体制を批判し、英米との軍備平等を求めるものであった。このように従来の軍縮会議の際には見られなかった、組織的な宣伝活動が展開された結果、国内世論は強硬論で統一され、日本は国際的な海軍軍縮条約体制から離脱していったのである。It is well known that the propaganda of the Japanese military following the Manchurian Incident exhibited considerable power in leading public opinion in the direction of militarism. However, until now research has centered on the propaganda of the Army, with little attention paid to the Navy. The reason for this is that the contents, scale and impact of Navy propaganda are regarded as having been inferior to that of the Army.The biggest reason why propaganda of the Navy did not match that of the Army can be found in the weakness of the Navy's popularity. Propaganda of the Army was strong because the Army was able to use the reservists' association that had many members among the people and played the role of intermediary between the military and the people. The fundamental differences in the nature of army and naval forces meant that an overwhelming majority of reservists was from the Army. Consequently, although the reservists' association was an organization for both the Army and Navy, it was in effect an army organization.However, during the 1930s, the Navy was pressured to propagandize the national defense, as was the case with the Army, whereupon it tried to reinforce its weak popularity. The method chosen by the Navy to do this was to expand the Navy League, an existing organization. With the guidance and support of naval authorities, the Navy League welcomed as its new chairman Makoto Saito, a naval senior who yielded considerable political clout. It set up sub-branches in each prefecture of Japan with the prefectural governors as chairmen, and went all out to recruit members. They put considerable effort into propaganda directed at preliminary negotiations for the Second London Naval Disarmament Conference held in 1934 and the conference proper that was scheduled for the following year. Their assertions represented the opinion of the Japanese Navy, criticizing the current treaty system for naval disarmament and seeking parity in arms with Britain and the United States. This organized propaganda, which had never been seen at earlier disarmament talks, united national opinion behind hard line policy and resulted in Japan's withdrawal from the international naval disarmament treaty system.