- 著者
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堀 まどか
ホリ マドカ
Madoka HORI
- 出版者
- 総合研究大学院大学
- 巻号頁・発行日
- 2009-09-30
野口米次郎(1874-1947)は、英語・日本語で多彩な言論活動をくりひろげ、二〇世紀前半期には国際的に広く知られた日本詩人であった。従来、英文学分野での野口の英米文壇との関わりを論じる研究は行われてきたものの、日本文学の側からは研究がほとんどなされていない。野口の生涯を基礎資料や出典文献の吟味を経て通観した著述や、それをふまえた研究も行われてこなかった。野口が日本文学史の主流から排除された理由は、彼が戦時期に「帝国メガフォン」として活動した為、敗戦後、長く忌避されたことにある。こうした研究上の欠落を是正するため、本論は野口の戦時期活動を含め、従来の研究の欠落部分であった日本文壇における活躍を検証し、国際的文化思想潮流の中における野口の生涯を捉え直そうとするものである。<br /> それゆえ、本論は第一に、明治・大正・昭和の敗戦時にまで及ぶ野口の生涯を通じて、その活動の全容を明らかにし、これによって従来の研究の克服をめざす。第二に、野口の文学世界の本格的な探究を基盤づけるために、野口を取り巻き、変動を重ねた同時代の国内外の諸文学の動向を明らかにし、それらとの関係の再考を試みる。第三に、野口米次郎は、文芸にとどまることなく、日本美術や浮世絵、能・狂言の海外への紹介者として活躍した。このことが海外のジャポニスムにどのように働きかけ、どのような役割を担ったのかを考察する。総じていえば、野口という人物とその作品の再評価を課題の中心に据えるが、そのために、従来の日本文学・英文学という個々の領域を超え、文化全般さらには思想全般の国際的、国内的な動向とを関連づけて野口米次郎の足跡を考察する。<br /> 本論は大きくわけて、三部構成をとる。第一部「出発期―様々な〈東と西〉、混沌からの出現」では、詩人野口米次郎がどのように自己形成を遂げていったかを明らかにする。第一章で野口の渡米までの成長過程における英語学習の様子や、早くから芭蕉俳諧に親しんでいたこと、渡米の動機などを考察する。第二章では、アメリカ西海岸のボヘミアニズムの潮流下で、ポーやホイットマンを尊敬しそれらを芭蕉俳諧と重ねて理解した野口が、詩人としていかにデビューしたかを、その周辺の詩人たちの理解や当時の国際的な文化潮流とあわせて、伝記的に再確認する。第三章は、ジャポニズム小説の隆盛期の流れに棹さして執筆した日記風小説に焦点を当て、野口の視点の独自性と問題意識の原点を探る。第四章は、英国詩壇で一躍人気を博したことについて、一九〇三年当時の野口が翻訳や英詩作に対していかなる自覚や意図を持っていたのかを探る。また英国詩壇で野口の英詩の方法や表現がいかに受容されたかを検討する。<br /> 野口の人生中期を捉える第二部「東洋詩学の探求と融合―〈象徴主義〉という名のパンドラの箱」では、東洋の伝統と西洋のモダニズム詩論との交差の中で、野口の詩学や詩作がどう展開したかの分析を試みる。第五章では、野口の一九〇四年の帰国が、日本の詩人たちによる象徴主義詩の移入時期と重なっていたこと、野口が象徴主義を芭蕉と比較して説明したその先に、日本国内での芭蕉再評価の気運を認めうることを明らかにする。第六章では、日本帰国後の野口が積極的に英文執筆に取り組み、国外の様々な新聞雑誌に、舞台芸術や美術そして政治状況などの多岐多彩な著述を書き送り、日本文化の海外発信に努めていた点を分析する。また帰国後に刊行した詩集や評論集が、海外では不可解と思われていた「日本」の本質や日本人の精神構造を伝えるために書かれていることを考察する。第七章では、日本文化の解説者として重要な役割を演じた一九一四年の英国講演をとりあげる。野口が芭蕉俳諧の精神哲学と詩学を論じたことは、国内外に多大なインパクトを与えた。第八章では、欧米モダニズム思潮の中での野口の位置と評価、その時代背景について考察する。英詩改革を試みた英詩壇が東洋への指向性を深めてゆく様子を、インドの詩人たちとの関係などをも含めて明らかにする。第九章では、従来ほとんど研究がなされてこなかった、大正期詩壇の中で野口が果たした役割と存在意義を、幾つかの詩誌から解明する。大正から昭和への転換期には、様々な思潮が混沌として渦巻いた。野口はこの時期、文化相対主義的な観点から国内外に向けて伝統意識と前衛意識について語っている。第十章ではこれら両者の重なりが、昭和初期に日本主義が立ちあがってくる兆しと如何なる関係にあったかを浮き彫りにする。第十一章では、野口がL・ハーンについて残した著述とその内容を明確にし、日本主義の潮流に巻き込まれる「境界人」としての二人の位置について考える。 第三部は「「二重国籍」性をめぐって―境界者としての立場と祖国日本への忠誠」と題して、文明批評家としての国内外の評価も確立していた野口の、後半生における屈折を、国際関係論、東西文明交渉史、植民地主義批判に目配りしつつ論じる。第十二章では、野口の〈境界〉性や自己存在の不安定さについて、従来指摘されてこなかった幾つかの局面から論究する。野口は人類の普遍主義に立つ文化相対主義の立場から、自国の文化を創出することを考えていた。時代は彼に政治問題や民族・国家の独立問題と関わることを要請し、かつ野口自身もそれを当然のことだと考えていた。しかし、二〇世紀の国際関係は、その立場に亀裂や動揺を生みだしてゆく。その実態を捉える。第十三章では、早くからインドとアイルランド文学の共通性を意識していた野口のアジア認識を、インドとの関わりを中心に論じる。野口のインドに対する発言や論述といえば、従来はもっぱらR・タゴールとの論争ばかり注目されてきたが、それは野口と「インド」との関係の一頁に過ぎないことを、インドで発掘した資料などをもとに明らかにする。第十四章は、野口の戦時期の詩について、従来知られていなかった作品にも照明を当て、野口米次郎の詩想の全容の解明に努め、その内部にかかえた亀裂の様をあきらかにする。第十五章は、敗戦後の野口と没後の評価を扱い、野口の遺志が受けつがれてきたことを示す。<br /> 野口は、国際的な象徴詩運動が様々なモダニズムへと分化してゆく中で、前衛性と庶民性、国際性と地方性、そして民族の魂といった要素の融合する二〇世紀の詩精神を守り育てることに腐心し、大正期の詩壇で尊敬を受け、また海外に自分なりの日本文化の神髄を紹介することに邁進して国際的に活躍の場を拡げた。象徴性、暗示性、幽玄の世界、精神性を表現することが、野口の「詩一つに生きる」ことであり、文化相対主義の立場から日本文化の普遍性を敷衍することを、野口は自らの使命とした。しかしそのことが、戦争の時代には、野口の中に自分自身では処理しきれない問題を抱かせることになった。<br /> 野口が自らを「二重国籍者」と述べたとき、それは自嘲であっただけではなく、精神的複合性をもった詩人としての自覚であり、「近代」的視野を持つ国際人としての自負でもあった。本論は、蹉跌の思いと痛みを抱えて、激動の時代を生きぬいた野口米次郎というひとりの詩人の軌跡を、二〇世紀における国際詩想潮流の動きと文化交流の実態とに重ね合わせながら、解明することをめざした。この詩人の達成と挫折とが共に、日本近代のたどった思想史や文化史の展開を照らし出している。