- 著者
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多ヶ谷 有子
- 出版者
- 関東学院大学文学部人文学会
- 雑誌
- 関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
- 巻号頁・発行日
- no.128, pp.21-41, 2013
中世後期のヨーロッパに見られる宗教抒情詩には、天国への希求とともに地獄への恐怖が鮮やかに描かれている。地獄の恐怖はまた、天国の対比として、絵画や造形美術に表された。これらの絵画や造形美術は、文字を理解しない多くの庶民に、死後の審判、そして天国と地獄を強烈に印象付けた。一方、日本では、仏教の普及とともに、地獄の思想が受け入れられていった。仏教の地獄は六道の一つであり、輪廻転生の世界である。仏教では元来、輪廻転生を断ち切ることを理想としている。平安時代以降、浄土思想とともに、地獄・極楽の思想が人々の間に広まった。化野、紫野、鳥辺野、蓮台野など風葬地は、現世無常を教えるとともに、極楽を望み、地獄の恐怖をかきたて、仏教布教に影響を与えた。キリスト教世界の地獄と日本における仏教の地獄を対照させると、興味深い相違が見えてくる。キリスト教の地獄は永遠の罰であるが、日本の地獄は六道の一つであり、気の遠くなるような長い時間を経るとしても、永遠ではない。日本の地獄絵には、地獄の中に仏がいる。こどもを救う地蔵、女性を救う観音。仏教の地獄は期限があり、かつ、地獄からも救われる。その意味で、日本の地獄にはキリスト教の煉獄に当たる要因がある。キリスト教の地獄と煉獄、日本の仏教の地獄を比較検討したときに、そこには救済を希求する普遍的な人間性の一側面を見ることができる。本稿では、文学、絵画などを通して、キリスト教と日本仏教の天国(極楽)の対比にある地獄(煉獄)観についての一考察を行いたい。