著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教養部
雑誌
文化紀要 (ISSN:04408624)
巻号頁・発行日
no.38, pp.15-45, 1993-08-30
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.93, pp.7-23, 2005-03-30

本稿は天正五年六月に織田信長が安土山下町に宛てて出した定書十三ヵ条に付いての考察である。安土を理解するには、「景清道」と八風街道から延びた「浄厳院道」と、両者の交点にある港町の「常楽寺」の三者を知る必要がある。常楽寺は「沙沙貴神社」の門前町ならぬ(門裏町)だった。この定書の実質的な受取手で、自治都市安土山下町の自治の担い手は「沙沙貴神社」の神官で、この神社の長い伝統を背負って立つ木村次郎左衛門尉だった。この法令中には「兵工未分離」な木村氏の「奉公人」「給人」が同時に都市住民身分として登場し、「惣村」から「惣町」への過渡期の在り方を示している。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.89, pp.41-52, 2003-03-31

本稿は、家督を継いだばかりの信長が、知多郡・篠島の商人を保護し、彼らに対し往来の自由を認めた折紙の分析である。本稿での私の目的は、当文書発給の歴史的な場面を復元することにあるOここで私は、先学が暖味にしてきた「当所守山」を、当時の信長の勢力圏「那吉野・守山間」とし、宛名の「大森平右衛門尉」を守山・大森にあった宿・関と関わった人物で、この折紙により、知多郡・篠島の商人の商人司に任命されたとの考えを提出した。当時交通の自由を妨げていたものは、通説では経済関とされているが、この文書の分析によって明らかになったことは、質取りや喧嘩などで人身の自由が脅かされていたことが大きかったとなろう。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

ザビエル以来の日本イエズス会士たちは、「日本人は理性的で、キリスト教の正しさを理性に基づいて理解することのできる特別な国民だ」との認識を持っていた。このことはイスラム教やユダヤ教の影響下にない当時の日本が、キリスト教の創造神の観念を受け入れる可能性があったことを意味している。その理由として、先学の海老沢有道氏は当時の日本に存在した「天道」の観念を挙げたが、この他に白本の大乗仏教とキリスト教が「天国・地獄・霊魂不滅」等の観念を共有していた事実を挙げることが出来る。しかし日本人は理性的だとは、スコラ哲学に基づく自然現象の説明による神の存在証明を当時の日本人たちが興味を持って受け入れたことを意味している。当時の日本側には天台本覚思想に基づき「国土草木悉皆成仏」が主張され、森羅万象に仏性が備わっているとの汎神論的な世界観が存在していた。これを基盤として、創造主宰神の観念は魅力的なものとして受け入れられた。特にイエズス会士たちの持っていた新プラトン主義に基づく流出論的な自然観は天台本覚思想の自然観や汎神論に近いものであった。来世信仰を否定し、現世主義的な近世思想をはぐくむ中心的な世界が政治権力者のブレーン集団である「おとぎ衆」にあり、政治支配の現実に立脚するという立場から全ての思想は相対化され、創造主宰神の観念は否定されたのである。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.91, pp.39-43, 2004-03-31

安土楽市令の第四条「伝馬免許事」は第三条の「普請免除」と並び、伝馬役の免除を命じたものと理解するのが通説である。本稿はこの通説に異論を唱え、むしろ信長が安土の町に伝馬制度の創設を許可したものであると論じた。中世近江の「保内商人」の座特権が解体し、信長による新体制がここで目指されたのである。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教養部
雑誌
文化紀要 (ISSN:04408624)
巻号頁・発行日
no.23, pp.1-33, 1986-03-10
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部研究紀要クロスロード (ISSN:1345675X)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-15, 2002-10

本稿は信長が永禄五年二月に鋳物師水野太郎左衛門に宛てて出した折紙を分析したものである。私はここで、この文書の「自他国鍋釜人事可申付之」の部分について、先学の豊田武氏・奥野高広氏とは異なる解釈を導き出し、太郎左衛門が商人司と同様な存在であったことを明らかにした。また以上の分析を通じて、この文書中に、信長と太郎左衛門との交渉内容が埋め込まれており、文書中の「諸役の免許」が一般に理解されているような「諸役の免除」ではなく、「諸役徴収権の許可」の意味であることを明らかにした。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.91, pp.15-26, 2004-03

永禄六年に瀬戸に宛てて出された信長制札について、先学はこれを「瀬戸物商人の国内通行権や瀬戸物売買の保護を記したもの」としてきた。しかし本稿で明らかにしたように、この制札では、瀬戸物市-の塩・塩相物の出入りをも問題としており、いわば「新儀商人」である「塩・塩相物商人」に対して、瀬戸物取引の公認を内容としていたのである。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
クロスロード (ISSN:1345675X)
巻号頁・発行日
no.2, pp.9-18, 2000-12-28

元は海洋帝国末の後継国家であるが,中世日本もまた元に対抗する海洋国家として,宋の後継国家であった。元がユーラシア大陸の陸海の交易路を押さえ,イスラム商人の力を借りて中国とイスラム世界を結び付けたのに対して,日本は日中間の禅僧のネットワークを利用して日中貿易に乗り出した。ここに中世日本において禅僧が外交・貿易の中心的な担い手となる理由がある。戦国期の日本は海洋国家として外に開かれていたため,ポルトガル人が来日し,南蛮貿易と同時にキリスト教の布教も始まった。イエズス会士たちは禅僧の役割を引継ぎ,南蛮貿易に対する主導権を確立した。

1 0 0 0 OA 金森楽市令

著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
no.95, pp.13-36, 2006-03-28

元亀三年の金森再蜂起の後、信長は金森の地に楽市令を出した。本稿はこの金森楽市令の分析である。金森は坂本・志那・守山をつないで、京都と東山道を結ぶ志那街道上にあり、この街道は当時の幹線道路だった。このことが原因で、金森は一向一揆の拠点となった。楽市令の第一条はこれまであった金森の寺内町特権を再確認したものであり、第二条は宿駅都市金森の発展を図ったもの、第三条は弓矢徳政である。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
雑誌
クロスロード (ISSN:1345675X)
巻号頁・発行日
no.2, pp.19-26, 2000-12-28

蒙古襲来に至るまで博多には宋人たちの居留地「唐坊」が作られていた。宋人たちは日本社会の内部では権門の神人・寄人として編成されており,東南アジアにおける「唐坊」と比べて博多の宋人たちの発言権は弱く,博多「唐坊」には自治権や治外法権は認められていなかった。蒙古襲来を契機として,博多に居留していた宋人たちは大挙して日本に帰化し,博多の「唐坊」は居留地としての面影をなくした。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学教育学部
巻号頁・発行日
1996-03

平成6,7年度科学研究費補助金(一般研究(C))研究成果報告書 ; 課題番号06610299
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.63-74, 2002-03

中世の富士大宮は次の三者からなっていた。①宗教上の中心「富士浅間神社」,②社会・経済上の中心「駿州中道往還」の宿場町「神田宿」とその市場「神田市場」,③政治・軍事上の中心「大宮城」。「神田市場」や「神田橋開」では今川氏の任命した小領主たちが徴税を請け負っていた。大宮司の富士氏は当時,国人領主としても発展し「大宮城」の城代をも兼ねていた。今川氏の発布した「富士大宮楽市令」は,市場からの小領主の排除と「諸役」の停止を内容としており,富士氏側が今川氏に譲歩を迫り,勝ち取ったものであった。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部教科教育研究紀要 (ISSN:09129006)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-16, 1998-12

長崎開港前の長崎周辺のありさまを,当地に伝えられた神功皇后伝説から考えると,当地は船住まい(-家船)の人々の活躍する世界であったことがわかる。彼らは潜水漁業を行う専業漁民であるが,同時に水軍や倭蓮とも関連があり,海運業・商業への転身もあったと思われる。南蛮貿易港には「貯」などの形で水上交通・荷役業を行う「キリシタン家船」の存在が想定され,長崎の開港は彼らの陸上がりの結果なのである。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部教科教育研究紀要 (ISSN:09129006)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-11, 1998-03

高谷好一は「汀線はコスモポリタン的世界で,内陸とは全く異質なコミュニタス的世界である」と述べている。しかし桜井由窮雄の批判するように,この「汀線」は「港市」に置き換えるべきであろう。こうして出来た言葉を導きの星として,この論考は進められた。赤道アフリカのカメルーンやスワヒリ世界はピジンやクレオールの世界である。これに対して,同じ赤道直下の東南アジア海域世界は,商業語であるマレー語の世界で,川喜田二郎の云う「重層化」の社会である。この違いは,それぞれの地域の港市成立の事情と密接な関わりを持ち,東南アジアの港市には外来民に対する原地民の強い主体性が認められるのである。また藤本強の云う「≪ポカシ≫の地帯」とは,海上交易路の結節点で港市の存在する海域世界であるとした。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.1-17, 1999-10

日本・朝鮮・ベトナムは中国の周辺にある国として「冊封体制」と云う共通した歴史的条件の下にあった。しかし10世紀以降において,朝鮮・ベトナムが中国の強い模倣強制の下にあったのに対して,日本は中国の模倣強制の圧力の外にあり,独自な歴史を歩み出していた。その端的な現れが「かな文字」の発明であり,民族宗教である「神道」の発展である。その原因には,日本が貨幣商品である「金・銀・銅」の輸出国として,中国に対して経済的に優位にあったこと,特に元蓮以降は日本が東シナ海の制海権を握り,中国に対して軍事的に優位にあったことの二点が考えられる。
著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.41-52, 2003-03

本稿は、家督を継いだばかりの信長が、知多郡・篠島の商人を保護し、彼らに対し往来の自由を認めた折紙の分析である。本稿での私の目的は、当文書発給の歴史的な場面を復元することにあるOここで私は、先学が暖味にしてきた「当所守山」を、当時の信長の勢力圏「那吉野・守山間」とし、宛名の「大森平右衛門尉」を守山・大森にあった宿・関と関わった人物で、この折紙により、知多郡・篠島の商人の商人司に任命されたとの考えを提出した。当時交通の自由を妨げていたものは、通説では経済関とされているが、この文書の分析によって明らかになったことは、質取りや喧嘩などで人身の自由が脅かされていたことが大きかったとなろう。

1 0 0 0 IR 加納楽市令

著者
安野 眞幸
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学教育学部紀要 (ISSN:04391713)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.1-18, 2005-10

加納の楽市場は御園町にあったとするのが現在の通説である。しかし私はここで楽市場は円徳寺にあり、織田氏と斎藤氏の対立の中で中立を保ってきた円徳寺の勢力を信長側に組織することを目的とした密約に、この楽市令は基づいているとした。