著者
山田 康弘
出版者
吉川弘文館
雑誌
日本歴史 (ISSN:03869164)
巻号頁・発行日
no.730, pp.96-104, 2009-03
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.214, pp.285-302, 2019-03-15

本稿では博物館の展示において,ヒトの遺体,特に縄文時代の人骨(以下,縄文人骨)を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,考察を加えた。はじめに各地の博物館における人骨資料の展示状況を概観し,人骨展示がセンシティヴなものであることを指摘した。その後,死体を直接的に展示した『人体の不思議展』についての議論を踏まえて,考古学的資料としての人骨の取り扱い方,展示の際の原則を取り決めたヴァーミリオン協定とタマキ・マカウ・ラウ協定について概観し,縄文時代の人骨を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,という点について検討を行った。結論として,縄文人骨の場合,1)その直接的な血縁関係者,子孫をたどることは不可能であること。2)千年以上も昔の事例であり,すでにパーソナルメモリーやソーシャルペルソナが消失しているとみて良いこと。3)長きにわたって研究資料として利用されてきていること,などの点から,特別な事情が無い限り,これを展示資料として取り扱うことは許されると判断した。
著者
山田 康弘
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.112, no.11, pp.1790-1811, 2003-11-20 (Released:2017-12-01)

In this study, article, the author investigates the meaning that commands issued by the Ashikaga Shoguns had for the daimyo during the Warring States period from two perspectives: the relationship between them out of "utilization and restriction", and the mutual relationship of confrontation among daimyo focusing primarily on those of Western Japan as well as the nature of the effect that trends in such commands had on the behavior. In other words, (1) even during this period, daimyo required a stable relationship with the Shogun due to various circumstances such as the need to obtain legitimacy and to keep hostile forces in check and there was a tendency for them to take advantage of the shogun. (2) While they took advantage of this relationship with the Shogun, however, daimyo were also subjected to various restrictions such as the need to honor the commands of the Shogun (or, the need to honor the wishes of third parties through such commands). This made the commands of the Shogun an important tool in diplomatic relations with daimyo as confrontations between them broadened in scale and increased in complexity during the period. (3) In addition, Daimyo in the Kinki area (Kinai) gained the ability to control these commands by cooperating in the existence of the Shogun and, thereby, promoted collaboration with various other daimyo through the commands, which had become an important tool in the diplomatic relations between daimyo or secured opportunities for them to exercise influence over other daimyo. Various factors such as (1)? (3) above acted to further draw many more daimyo to the side of the Shogun, even after the advent of the Warring States, becoming a factor in the maintenance of a certain degree of influence by the Shogun over the daimyo. This influence of the Shogun on the Daimyo was extremely useful for the daimyo in their diplomatic strategies and was an authority unique to the Shogun on a dimension completely different from the control of the daimyo over their territories. It was therefore not easy for the daimyo to acquire such authority. However, by backing the Shogun, Oda Nobunaga succeeded in gaining the influence 'that the Shogun had over the daimyo and, while gradually exercising that influence, he moved ahead with the task of unifying the nation.
著者
山田 康弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.1-39, 1997-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
247

本稿は縄文時代の子供の埋葬例を集成・検討することによって,当時の人々の生活史の一端を明らかにすることを目的としたものである。まず,初めに集成した子供の埋葬例を年齢段階順に新生児期・乳児期・幼児期・小児期・思春期の5段階に区分し,埋葬形態を施設・単独葬か合葬か・合葬の場合の相手の性別・単葬か複葬かというように分類したうえで,各地域・時期別にそれぞれの埋葬形態を把握した。その結果,子供の埋葬形態は,大人のそれと同じように単独単葬例が最も多く,土器棺葬例は幼児期以前に,多数合葬例は幼児期以降に多いという傾向性が明らかになった。また,埋葬時に付加された様々な属性,埋葬姿勢・位置・赤色顔料の散布・土器棺内の人骨の週齢・合葬人骨の性別・装身具の着用などを検討し,次の点を指摘した。埋葬姿勢は大人とあまり変わらない。埋葬位置は住居跡に絡んで検出される場合が多い。赤色顔料の散布は新生児期からされるが,地域性がある。土器棺内から出土した新生児期の人骨は週齢38週以上のものが多く,新生児早期死亡例と考えられる。また,土壙などに埋葬されたものは38週以下のものが多い。大人と子供の合葬例では,乳児期以前は女性と合葬されることが多く,幼児期以降には男性と合葬されるようにもなる。これは子供の行動範囲が幼児期を境に変化したことを意味する。装身具の本格的な着用は幼児期以降に行なわれるが,玉類・貝輪を中心とした首飾りや腕飾りに限られ,頭飾りや腰飾りなどは存在しない。これは装身具の着用原理が大人と子供で異なっていたためと考えられる。次に大人と子供の埋葬例が検出された6遺跡の事例を検討し,埋葬時に付加された属性の差異について具体的に明らかにした。これらの諸点を総合して,当時の子供の立場が年齢によって変化することを述べ,子供が大人になるまでの生活史モデルを提示した。
著者
山田 康弘
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.112, no.11, pp.1790-1811, 2003

In this study, article, the author investigates the meaning that commands issued by the Ashikaga Shoguns had for the daimyo during the Warring States period from two perspectives: the relationship between them out of "utilization and restriction", and the mutual relationship of confrontation among daimyo focusing primarily on those of Western Japan as well as the nature of the effect that trends in such commands had on the behavior. In other words, (1) even during this period, daimyo required a stable relationship with the Shogun due to various circumstances such as the need to obtain legitimacy and to keep hostile forces in check and there was a tendency for them to take advantage of the shogun. (2) While they took advantage of this relationship with the Shogun, however, daimyo were also subjected to various restrictions such as the need to honor the commands of the Shogun (or, the need to honor the wishes of third parties through such commands). This made the commands of the Shogun an important tool in diplomatic relations with daimyo as confrontations between them broadened in scale and increased in complexity during the period. (3) In addition, Daimyo in the Kinki area (Kinai) gained the ability to control these commands by cooperating in the existence of the Shogun and, thereby, promoted collaboration with various other daimyo through the commands, which had become an important tool in the diplomatic relations between daimyo or secured opportunities for them to exercise influence over other daimyo. Various factors such as (1)? (3) above acted to further draw many more daimyo to the side of the Shogun, even after the advent of the Warring States, becoming a factor in the maintenance of a certain degree of influence by the Shogun over the daimyo. This influence of the Shogun on the Daimyo was extremely useful for the daimyo in their diplomatic strategies and was an authority unique to the Shogun on a dimension completely different from the control of the daimyo over their territories. It was therefore not easy for the daimyo to acquire such authority. However, by backing the Shogun, Oda Nobunaga succeeded in gaining the influence 'that the Shogun had over the daimyo and, while gradually exercising that influence, he moved ahead with the task of unifying the nation.
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.143-164, 2018-03-09

縄文時代の関東地方の後期初頭には,多数の遺体を再埋葬する多数合葬・複葬例という特殊な墓制が存在する。このような事例は,再埋葬が行われた時期が集落の開設期にあたる,集落や墓域において特別な場所に設けられている,幼い子供は含まれない,男性が多いといったいくつかの特徴が指摘でき,現在までに6遺跡7例が確認されている。このような墓制は祖霊祭祀を行う際に「モニュメント」として機能したと思われるが,同様の意味を持ったと思われる事例は,福島県三貫地貝塚や広島県帝釈寄倉岩陰遺跡などでも確認されており,時期や地域を越えて確認できる墓制だと思われる。従来,同様の事例とされてきた千葉県下太田貝塚から検出された3例を今回検討したところ,下太田貝塚の事例はいずれも,「モニュメント」としての意義をもつ多数合葬・複葬例の特徴に該当しないことがわかった。このことから,筆者は下太田貝塚の事例は,「モニュメント」としての意義は持たず,単に遺体を集積し「片付けた」ものと判断した。また,縄文時代の後半期には墓を含む大型の配石遺構などが「モニュメント」化し,祖霊祭祀の拠り所となるものが多くなるが,このような多数合葬・複葬例もその文脈の中で理解できると思われる。すなわち,縄文時代の後半期においては,集団関係の新規作成や集団統合・紐帯強化のための一つの手段として,人骨および墓の利用が行われるようになり,「記念墓」がその新しい集団の「シンボル」・「モニュメント」となるような状況が創出された。その精神的・技術的背景には,系譜関係の意図的切断・統合といった,系譜的な死生観の応用が存在する。大規模な配石遺構も含めて,シンボル化した「モニュメント」において祖霊を祀ることによって,さらなる集団関係が再生産されていくとともに,何故に自分たちがそこに存在し,各種資源を優先的に使用するのかという正統性を表示・再確認することになる。そこには新たな「伝統」の確立が意図されており,祖霊観の存在および祖霊祭祀の意義を読み取ることが可能である。
著者
山田 康弘
出版者
吉川弘文館
雑誌
戦国史研究 (ISSN:02877449)
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-12, 2002-02
著者
山田康弘 高野和人編纂
出版者
青潮社
巻号頁・発行日
1987
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.57-83, 2012-03-01

縄文時代の埋葬人骨出土例を精査してみると,一個体として取り上げられた事例の中に別個体の部分骨が入っていることがある。これらの中には,頭蓋や下顎,四肢骨といった大型の部位が入っていることがあり,偶発的な混入とは考えがたいものも存在する。このような事例の多くは,これまで単独・単葬例として取り扱われてきたが,当時の人々が意図的に別個体の部分骨を合葬しているのだとすれば,それは単独・単葬例とはまた異なった,別の一葬法として認知されるべきであろう。本稿において,筆者はこのような事例を部分骨合葬例と呼び,葬法の一類型として認定するとともに,そのあり方と意義について検討を行った。その結果,このような事例は関東地方南部を中心として8 遺跡・21 例存在し,単葬の男性に女性の部分骨が入れられている事例が目立つことや,大人と子供の組み合わせの事例も存在すること,埋葬小群内にあってその構成要素となっていることなどが判明した。また,その意義を考察するために従来の合葬例の研究および死生観の研究,すなわち合葬例の被葬者は,基本的には血縁関係者同士であると考えられること,縄文時代の死生観として系譜的な死生観があり,当時の社会構造においてその基礎をなす系譜的関係は,この死生観に沿った形で存在したことなどを踏まえて,本稿では部分骨合葬例の意義を,血縁関係を含めた何らかの社会的関係性を持つ者同士で行われたものであり,その意義を系譜的な関係性を確認・存続するためのものであったと推察した。