- 著者
-
山田 康弘
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.208, pp.143-164, 2018-03-09
縄文時代の関東地方の後期初頭には,多数の遺体を再埋葬する多数合葬・複葬例という特殊な墓制が存在する。このような事例は,再埋葬が行われた時期が集落の開設期にあたる,集落や墓域において特別な場所に設けられている,幼い子供は含まれない,男性が多いといったいくつかの特徴が指摘でき,現在までに6遺跡7例が確認されている。このような墓制は祖霊祭祀を行う際に「モニュメント」として機能したと思われるが,同様の意味を持ったと思われる事例は,福島県三貫地貝塚や広島県帝釈寄倉岩陰遺跡などでも確認されており,時期や地域を越えて確認できる墓制だと思われる。従来,同様の事例とされてきた千葉県下太田貝塚から検出された3例を今回検討したところ,下太田貝塚の事例はいずれも,「モニュメント」としての意義をもつ多数合葬・複葬例の特徴に該当しないことがわかった。このことから,筆者は下太田貝塚の事例は,「モニュメント」としての意義は持たず,単に遺体を集積し「片付けた」ものと判断した。また,縄文時代の後半期には墓を含む大型の配石遺構などが「モニュメント」化し,祖霊祭祀の拠り所となるものが多くなるが,このような多数合葬・複葬例もその文脈の中で理解できると思われる。すなわち,縄文時代の後半期においては,集団関係の新規作成や集団統合・紐帯強化のための一つの手段として,人骨および墓の利用が行われるようになり,「記念墓」がその新しい集団の「シンボル」・「モニュメント」となるような状況が創出された。その精神的・技術的背景には,系譜関係の意図的切断・統合といった,系譜的な死生観の応用が存在する。大規模な配石遺構も含めて,シンボル化した「モニュメント」において祖霊を祀ることによって,さらなる集団関係が再生産されていくとともに,何故に自分たちがそこに存在し,各種資源を優先的に使用するのかという正統性を表示・再確認することになる。そこには新たな「伝統」の確立が意図されており,祖霊観の存在および祖霊祭祀の意義を読み取ることが可能である。