著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.153-171, 2019 (Released:2019-11-11)
参考文献数
57

本稿は、大学入学を機に東北地方で暮らすことになった関西出身者としての私の自己と他者認識の形成、およびその変遷についてのオートエスノグラフィである。関西と関西人については、主にマスメディアから発せられる画一的な表象によって、その「ユニークさ」が広く人口に膾炙している。私は地元にいた18歳までは厳密な意味で自分が関西弁を話す関西人であると意識したことはなかったのだが、仙台で暮らすようになってから、関西人はよくしゃべる、どこでも関西弁を話す、面白い、値切ることができる、ガラが悪い、納豆が嫌いといったステレオタイプに基づくまなざしを受け、次第にそれを内面化させた振る舞いをして関西人として生きるようになった。今回、オートエスノグラフィのかたちで改めて関西人としての自己について思考し記述してみて分かったのは、それらのトピックを冗談以上の主題に発展させることは難しく、結局のところ個人的な差異の領域に帰されること、かつその背景には私を含めた日本の文化人類学における自己/他者認識の偏った枠組みが遍在していることである。他方で、私のこの状況は、エクソフォニー(母語の外にある状況)についての議論さえも相対化しながら、自己/他者認識の軛を自らの個人的次元で受け止め、それを弛めうる可能性につながることも明らかになった。

9 0 0 0 OA 東北の関西人

著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第52回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.93, 2018 (Released:2018-05-22)

本発表では、日本の内なるエスニシティへの他者化、および、それを内面化した自己他者化のプロセスに作用する文化認識と実態の所在について、「東北地方で暮らす関西人」である発表者のオートエスノグラフィーをもとに考察する。それをもとに、文化人類学における文化の捉え方を今ひとたび考え直してみたい。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.193-212, 2004-09-30 (Released:2017-09-27)

本稿は、中国共産党政策下において、村落社会の葬送儀礼がいかに変容/あるいは持続してきたのかを、広東省珠江デルタの事例から考察しようとするものである。葬送儀礼に対する共産党政府の改革は主として、葬儀に費やされる出費と、共産主義的なイデオロギーに抵触する「迷信」的な要素を排除することを意図したものであった。しかし、現地調査で得た事例から明らかになったのは、葬送儀礼を全体としてみた場合、帝政後期(およそ1750年から1920年)に確立していたと言われるかたちが、今日においてもほぼそのまま踏襲されているということである。すなわち、現在の葬送儀礼では、死者を居住区域の外へ運び出し、火葬した骨を風水墓地に埋葬する。同時に、魂を冥界へ送って、位牌と墓を設け、崇拝対象としての祖先へと移行させる。そして、これらの行為を規定しているのは、死に対する忌避の念と、死者の魂への適切な処置の方法である。また、この過程において、先行研究で示されてきた「伝統的」な葬送儀礼を構成する諸要素のほぼすべてを見出すことができた。一方、個人レベルに視点を移すと、特にエリート層に属する人々は、たとえば父の位牌の作成を放棄したり、儀礼の伝統的な手続きに否定的な態度を示すという状況が見られた。この相反するかに見える現状の背景には、20世紀初頭から知識人たちによって展開されたモダニズム-中国は伝統の拘泥から脱し、近代化の道を進まねばならない-と、それを引き継いだ共産党政府の宗教・信仰に対する政策がある。中華人民共和国の建国後、特に文化大革命期をピークとして、共産党は「封建」「迷信」というラベリングを施しながら、既存の文化・慣習・信仰等の批判と排撃を進め、そこに負の価値を定着させていった。結果として幹部や高等教育を受けた新たなエリートに関する限り、その宗教や信仰への態度規範を、圧倒的大多数の村落社会の人々が志向してきたもの-すなわち伝統-から切り離すことには成功しつつある。しかし、それ以外の村落社会の一般住民にとって、共産党の政策は、人々の宗教・信仰を対象化せず、死を克服するための観念的あるいは物質的なオルタナティブを提供するものではなかったということができる。
著者
川口 幸大
出版者
一般社団法人 日本家政学会 食文化研究部会
雑誌
会誌食文化研究 (ISSN:18804403)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-13, 2021 (Released:2022-07-07)
参考文献数
30

この論文では、過去1世紀にわたり日本の家庭料理において中華料理がいかに展開してきたかを、主として料理番組テキスト『きょうの料理』のレシピと食材を分析し、かつそれを20世紀初頭に刊行された『料理の友』、および中国政府がオーソライズした中国の正典的な料理書である『中国名菜譜』と比較することによって考察する。結果として、戦後は主に中国出身の限られた講師たちが日本の読者に様々な中国料理を紹介していたが、1980年代ごろからは、餃子、チャーハン、春巻きといった特定のいくつかの料理の異なるレシピがよく紹介されるようになり、また香菜やオイスターソースや豆板醤といった、それまでなじみのなかった食材や調味料が頻繁に使われることになった。同じ料理が新しい要素をともなった様々なレシピで作られるようになったのである。このように、日本の家庭料理における中華料理は、多様な定番化の路線を進んでいると言えるのである。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

本発表では、日本の内なるエスニシティへの他者化、および、それを内面化した自己他者化のプロセスに作用する文化認識と実態の所在について、「東北地方で暮らす関西人」である発表者のオートエスノグラフィーをもとに考察する。それをもとに、文化人類学における文化の捉え方を今ひとたび考え直してみたい。
著者
川口 幸大 松本 尚之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第54回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.D18, 2020 (Released:2020-09-12)

アフリカ有数の都市ラゴスに暮らす中国系移住者と地元住民は、必ずしも互いに好印象を抱いているとは言い難いが、その関わりの端緒から双方の必要性は織り込み済みであった。よってそこでは、好むと好まざるとに関わらず両者の交わりを伴わざるをえず、手放しで称揚するほどの美談はないが、喧伝されているほど悲惨ではない、必要に迫られたやりとりが交わされている。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.153-171, 2019

<p>本稿は、大学入学を機に東北地方で暮らすことになった関西出身者としての私の自己と他者認識の形成、およびその変遷についてのオートエスノグラフィである。関西と関西人については、主にマスメディアから発せられる画一的な表象によって、その「ユニークさ」が広く人口に膾炙している。私は地元にいた18歳までは厳密な意味で自分が関西弁を話す関西人であると意識したことはなかったのだが、仙台で暮らすようになってから、関西人はよくしゃべる、どこでも関西弁を話す、面白い、値切ることができる、ガラが悪い、納豆が嫌いといったステレオタイプに基づくまなざしを受け、次第にそれを内面化させた振る舞いをして関西人として生きるようになった。今回、オートエスノグラフィのかたちで改めて関西人としての自己について思考し記述してみて分かったのは、それらのトピックを冗談以上の主題に発展させることは難しく、結局のところ個人的な差異の領域に帰されること、かつその背景には私を含めた日本の文化人類学における自己/他者認識の偏った枠組みが遍在していることである。他方で、私のこの状況は、エクソフォニー(母語の外にある状況)についての議論さえも相対化しながら、自己/他者認識の軛を自らの個人的次元で受け止め、それを弛めうる可能性につながることも明らかになった。</p>
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.12, 2010

この分科会では、共産党による統治のもと60年を経た今日の中国社会において宗教がいかなる諸相にあるのかを、キリスト教、イスラーム教、チベット仏教、民間信仰についての共産党の政策と、人々の具体的ないとなみに着目しつつ議論する。
著者
瀬川 昌久 川口 幸大
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

宗族という古典的研究テーマの有効性について再考すべく、本研究課題では20世紀初頭以来宗族が直面した社会変化と、その間の研究者たちの視座の変遷という、2つのレベルの変化に焦点を当てた。そして、宗族の現状に関する客観的検討を通じ、今日の文化人類学者の多くが親族関係を極めて私的で局所的社会現象とみなす傾向があるのに反し、依然として現代中国社会の中でそれは重要な役割を果たしていると結論づけた。宗族こそは、親族関係が社会の公的な領域においてなおも効力と価値をもち得ることについての再考へとわれわれを導く重要な鍵なのである。なお、本研究課題の最終成果としての論文集が、2015年度中に刊行される予定である。