著者
杉浦 和子 水野 一晴 松田 素二 木津 祐子 池田 巧
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

1.白須淨眞氏を講師として招き、20世紀初頭のチベットをめぐる緊迫した国際情勢と大谷光瑞とヘディンの関係についての研究会を開催した。ヘディンのチベット探検に対して、大谷光瑞が政治的・財政的な支援を行ったこと、ヘディンの日本訪問には大谷光瑞へ謝意を伝える意味があったことを確認できた。2.チベットでの撮影を写真家に委託した。第3回探検でヘディンが踏査したルートの文物、風俗、風景、建造物等を撮影してもらった写真家を講師として招き、画像上映と現地の状況説明を聴くための研究会を開催した。1世紀の時間を隔てて、変化したチベットと変わらないチベットの諸要素を確認した。3.公開国際シンポジウム「近代日本における学術と芸術の邂逅―ヘディンのチベット探検と京都帝国大学訪問―」(京都大学大学院文学研究科主催)を開催した。6人による報告を通じて、ヘディンの多面的な才能、チベットという地への好奇心、絵という視覚的な媒体といった要素が相まって、学術や芸術のさまざまな分野を超えた出会いと活発な交流を刺激したことが明らかにされた。シンポジウムには学内外から80名を超える参加があった。4.展覧会『20世紀初頭、京都における科学と人文学と芸術の邂逅―スウェン・ヘディンがチベットで描いた絵と京都帝国大学文科大学に残された遺産』(文学研究科主催、スウェーデン大使館後援)を開催し、2週間の会期中、2100名を超える来場者があった。新聞4紙でも紹介され、近代日本におけるヘディン来訪の意義を伝えることができた。会期中、関連の講演会を開催し、40名を超える聴衆が参加した。5.報告書と図録の刊行に向けて、論文執筆や解説等、準備を進めた。
著者
田中 和子 木津 祐子
出版者
京都大學大學院文學研究科・文學部
雑誌
京都大學文學部研究紀要 (ISSN:04529774)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.1-28, 2015-03-10

"Map of Inner City of Beijing" has been stored in Kyoto University. The Maphas remained unknown even as bibliographic information until now. What doesthe map mean? Are there any other maps similar to the map? When was the mapdrawn? We tried to answer these questions from the viewpoints of geography andChinese philology.The following points are made clear: (1) "Map of Inner City of Beijing"shows the spatial arrangement of eight-banners in garrison of Manchu, Mongolian, and Han, with three marks of circle (Manchu), square (Mongolian), and triangle (Han). Each mark is color-painted in eight ways indicating thepatterns of eight-banners in Qing (清) Dynasty. (2) Total number of the eightbannersis about 550. Manchu is the majority, and Mongolian and Han are aboutone third of Manchu, respectively. (3) Distribution of the eight-banners ingarrison of Manchu, Mongolian, and Han is spatially uneven and it shows clearsegregation in small scale. Manchu are located at the central part of Inner City, and the other two are mostly located at peripheral areas along the City Wall.(4) In the course of our investigation, we found that "Complete Map of Innerand Outer Cities of Beijing in Daoguang (道光) Dynasty" is the only map whichalso shows the spatial arrangement of eight-banners in garrison by Manchuria, Mongolian, and Han. This map is stored in the National Library of China. (5) Thetwo maps stored in Kyoto University and the National Library of China are verysimilar in terms of map size, three map marks (circle, square, and triangle), theircoloring patterns, and numbers of eight-banners of three armies. (6) One of theclear differences between these maps is the assignment of marks: in "Map ofInner City of Beijing, " square indicates Mongolian and triangle indicates Han, onthe other hand, in "Complete Map of Inner and Outer Cities of Beijing, " squareindicates Han and triangle indicates Mongolian. The latter map is very delicatelydrawn on silk sheets, but the former is rather roughly drawn on paper sheets.(7) "Map of Inner City of Beijing" indicates the people's names who lived inthe official residences. Based on their lifetime- or enrollment-periods, the mapcould be inferred to have been produced in the late nineteenth century. (8)Although many Great Powers such as England and France built their embassiesin the area of Dong Jiao Min Xiang (東交民巷) since the Boxer Rebellion in 1860, there are no embassies. (9) It is ver y interesting that many of fices andresidences are indicated as their non-official names, and that informal styles andphonetic equivalent of Chinese characters are frequently used among all wordswritten in the map.These observation indicates that "Map of Inner City of Beijing" stored inKyoto University might be a very rare and valuable map for the 'eight-banners'study in Qing Dynasty, and that a detailed comparative study should be carriedwith respect to "Map of Inner City of Beijing, " "Complete Map of Inner and OuterCities of Beijing in Doanguang Dynasty" and the other maps which may be existsomewhere. One of our future tasks is to clarify the situation and backgroundswhen the map was produced.
著者
木津 祐子
出版者
京都大學大學院文學研究科・文學部
雑誌
京都大學文學部研究紀要 = Memoirs of the Faculty of Letters, Kyoto University (ISSN:04529774)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.1-50, 2000-03-31

この論文は国立情報学研究所の学術雑誌公開支援事業により電子化されました。
著者
木津 祐子
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

本研究は、中国の規範言語とみなされてきた「官話」が、中国とその周縁地域においていかなる位相を呈していたかを、琉球を手がかりに明らかにしようとするものである。研究は以下の点から実施した。(1)明清期の琉球で、誰が「官話」を用いたか、(2)各使用者がどのように「官話」を用いたか、(3)その「官話」位相にどのような特徴が見えるか。基礎となる史料は、沖縄県立博物館、県立図書館、さらに石垣市立八重山博物館などで収集し、次の成果をあげることが出来た。(a)八重山士族の家譜は、官話による記事を多く含む。その多くは、中国人及び琉球人の黄海での漂流を、極めて特徴ある文体で綴ったものであった。その中でも最大の収穫は、中国江蘇省通州の商人姚恆順の陳述書を付す家譜の発見で、乾隆年間の官話学習とその使用を探る大きな手がかりとなった。(b)沖縄県立図書館には、官話で記されたイギリス聖公会の宣教師ベッテルハイムと琉球の通事(中国語通訳)間の書簡が所蔵され、官話や日本語などの語学学習について論じた内容も含まれる。(c)琉球から中国に漂着した難民の呈文(沖縄県立博物館や八重山博物館、また琉球大学の所蔵)には、中国の役人(通事を介す)との訊問の会話記録など、興味深い記事が見られた。これらの「官話」に関する諸史料は、中国東南海域に位置する琉球列島に、「官話」が境界を超えて広く受容され、かつ多様な受容形態を見せていたことを示す。まさに境界を超える「境界性中国語」(vehicle language)として、「官話」は単に規範言語であっただけではなく、口頭また書記の場でも、現実的なコミュニケーションツールであったことが見て取れる。このように、八重山という琉球のさらなる周縁での事例から、「官話」の境界言語としての一側面を明らかにすることができた。
著者
太田 斎 秋谷 裕幸 木津 祐子 岩田 礼
出版者
神戸市外国語大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2001

中国における方言研究は長らく字音を対象とした記述研究と比較音韻史研究が中心であった。方言地理学は決して新しい方法論ではないが、中国では従来ほとんど行われることがなかったため、中国方言学の分野では大きな収穫が期待された。これまで日本で志を同じくする研究者が、方言地理学を核として新たな方法を模索しながら共同研究を継続して、漢語方言地図集を第3集まで発表してきた。今回の我々の共同研究はそれを受け継ぐものであった。我々は方言地理学に利用可能な文献データを集積する一方で、文献のみでは埋められない地理的空白をフィールドワークを行うことで埋めることを計画した。また歴史文献に現れる方言データ及び社会言語学的事例についても分析を進め、歴史的考察に利用することにした。初年度には文献データの整理を一段落させ、『地方志所録方言志目録 附方言専志目録』を完成、また初年度のフィールドワークのデータを整理し、次年度初頭に『呉語蘭渓東陽方言調査報告』を作成した。これらの作業と平行して、パソコンによる方言地図作成ソフトSEAL (System of Exhibition and Analysis of Linguistic Data)利用のための環境整備を進め、この年度でほぼ作業を完成させた。そして最終年度に試行錯誤を繰り返して方言地図を作成し、討論を重ねてその修正作業を行った。またこれまでは個々の音韻、語彙、文法項目の地図を作成して中国語における様々な特殊な変化の類例を集積して、一般化を模索してきた訳だが、今回は同源語彙間に現れる特殊な変化を容易に観察できるような語彙集も編纂し、「類推」、「民間語言」、「同音衝突」といったような体系的変化以外の変化の事例の集積を図った。これにより従来の方言地図で行われた分析も類似の事例が複数見出せることになり、我々の方言地理学的考察により強い説得力が付与されることになった。その最終報告書が『漢語方言地図集(稿)第4集』である。
著者
木津 祐子
出版者
京都大学
雑誌
特定領域研究
巻号頁・発行日
2001

(1)琉球王府における中国学術センターたる久米村で、官話学習が専門職の必須項目として重視されていたことを、官話教科書の記述や呈文・稟文の習作から明らかにした。また、琉球の周縁に位置する八重山などでは、士人の家譜が官話の書記体とも呼べる文体で記され、漂着中国人や漂着久米村士人から官話を学び、独自のテキストも編まれていたことが、本研究によって明らかとなった。興味深いのは、琉球において官話を操ったのは琉球人と中国人ばかりではなく、日本布教の足がかりとして琉球を訪れた聖公会系宣教師ベッテルハイムも、日常の意思疎通手段として官話を用いていたことで、ここからは官話が中国周縁地域において、広く媒介言語として機能していたことを示唆する。このように、学術また華化メカニズムの中で官話の果たした役割を明らかにした。(2)中国の学術を古くから受容した日本における初学教育を考察した。日本において幼学書(童蒙教科書)は、中国の類書に倣って編纂されることが多かった。日本で類書をコピーする際には、完全なコピー、枠組みは模倣しつつ新たに抜き書きを行なうもの、同じく枠組みは模倣しつつも抜粹項目はすべて日本の古典からのもの、などの類型がある。特に第三の換骨奪胎型類書の存在は、中国学術の周縁への伝播の行き着く先を示して興味深い。一方、『蒙求』や『千字文』といった幼学書は、中国でも類書に分類されることはあるものの、より通俗なものとして軽んぜられた。しかし日本では清家などの錚々たる学者が注を施すなど、一貫して尊重される。特に京大附属図書館蔵『蒙求』(重要文化財)には、清原宣賢が詳細な考証を施した注が残され、その中には、中国では十九世紀にようやく認知されることとなった情報も含まれていた。このように幼学書というジャンルが、周縁への中国学術の伝播メカニズムの複層性を示すものであることを明らかにした。