著者
杉本 厚夫
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.69-76, 2006

阪神タイガースは兵庫県に本拠地(甲子園球場)を置きながらも、大阪という地域アイデンティティを強く持っている不思議なチームである。また、2004年は4位であったにも拘らず、甲子園球場には延べ350万人もの観客動員数があったという。そこで、本稿は阪神タイガースファンの応援行動から、その背景にある大阪文化を逆照射してみたい。ジェット風船を飛ばしたり、メガホンを打ち鳴らしたり、応援のパフォーマンスを持った観客は、観ることから参加することへと変容した。この「ノリ」のよさは、大阪の「いちびり」文化を基盤としている。タイガースファンにとっては勝ち負けより、興奮できるゲームだったかが大切である。つまり、見る値打ちがあるかどうかで判断し、面白い試合だったら「もと」が取れたと言う。興奮するという「感情」を「勘定」に読み替える大阪商人の文化が息づいている。法被を着ることで、応援グッズを持つことで、仲間であることを表明した途端に一体感が生まれる。相手と一体化する「じぶん」の大阪文化を、甲子園球場という祝祭空間で体感することで、人々は都市の孤立感から救われる。六甲おろし(タイガースの応援歌)やそれぞれの選手の応援歌は、ただ単に観客を煽るだけではなく、同時に観客を鎮める働きを持っている。そこには、「つかみ」と「おち」の上方のお笑い文化が潜んでいる。
著者
ケリー W.W. 宮原 かおる 杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-12,146, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
16
被引用文献数
2

この論文は、近代スポーツに潜む深遠なアイロニーについて論じる。それは、スポーツ場面において、われわれの多くがしばしば経験する勝利ではなく負けについて、あるいは成功を味わうことではなく、敗北に直面することについてである。勝利の満足ではなく敗北の失望は、プレーヤーにも観客にも共通している。本論では負けることに関して大まかに3つのタイプに分ける。ひとつは絶えず必要に産み出される敗者のような「日常的な敗北」、そして、解雇、放出、辞職といったような完全な失敗としての「致命的敗北」、さらに前二者の中間にあって、負けを繰り返す「反復的敗北」である。反復的敗北は受け入れることと説明することが最も難しい敗北である。地域の絶大なる人気を誇るが負けてばっかりの大阪プロ野球チーム、阪神タイガースを事例として、プレーヤーとファンが如何にして反復的な敗北を捉え、調整して、そして受け入れるのかを、いくつかの要因によって分析する。これらの要因には、多くのスポーツに共通の要因、スポーツとしての野球に特有な要素、日本の野球に特有な要因と阪神タイガースに特有の言いわけを含む。著者は苦々しい敗北という結果にもかかわらず、人々はプレーし続け、また見続けるという文化的に屈曲させられた言いわけと構造的なパターンのセットを識別しなくてはならないと考える。そして、さまざまな場面で「敗北の論理」は単一の要因によって説明されるものではなく、複合的なモデルによって説明されるものなのである。
著者
杉本 厚夫
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.69-76, 2006-05-27 (Released:2017-09-22)

阪神タイガースは兵庫県に本拠地(甲子園球場)を置きながらも、大阪という地域アイデンティティを強く持っている不思議なチームである。また、2004年は4位であったにも拘らず、甲子園球場には延べ350万人もの観客動員数があったという。そこで、本稿は阪神タイガースファンの応援行動から、その背景にある大阪文化を逆照射してみたい。ジェット風船を飛ばしたり、メガホンを打ち鳴らしたり、応援のパフォーマンスを持った観客は、観ることから参加することへと変容した。この「ノリ」のよさは、大阪の「いちびり」文化を基盤としている。タイガースファンにとっては勝ち負けより、興奮できるゲームだったかが大切である。つまり、見る値打ちがあるかどうかで判断し、面白い試合だったら「もと」が取れたと言う。興奮するという「感情」を「勘定」に読み替える大阪商人の文化が息づいている。法被を着ることで、応援グッズを持つことで、仲間であることを表明した途端に一体感が生まれる。相手と一体化する「じぶん」の大阪文化を、甲子園球場という祝祭空間で体感することで、人々は都市の孤立感から救われる。六甲おろし(タイガースの応援歌)やそれぞれの選手の応援歌は、ただ単に観客を煽るだけではなく、同時に観客を鎮める働きを持っている。そこには、「つかみ」と「おち」の上方のお笑い文化が潜んでいる。
著者
杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.35-47, 2017-03-25 (Released:2018-04-06)
参考文献数
21
被引用文献数
3

本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。 スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。 また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。 さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。 結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。
著者
久保 賢志 杉本 厚夫
出版者
Japan Society of Sports Industry
雑誌
スポーツ産業学研究 (ISSN:13430688)
巻号頁・発行日
vol.29, no.4, pp.4_227-4_238, 2019 (Released:2019-10-11)
参考文献数
24

In this study, we examined organizational responses to the commercialization of high school sporting events. Based on press releases and information obtained from the High School Athletic Federation, we analyzed the social factors that influenced the decisions of the federation, which focuses on summer high school sporting events and has comprehensively unified such events in a move toward commercialization. Results have revealed that the commercialization of high school sporting events, led by the All Japan High School Athletic Federation, has been accompanied by organizational responses such as the introduction of corporate and bib sponsorship and foundation incorporation (including incorporation into public foundations). Since the implementation of sponsorship funding in 1993, interscholastic athletic events’ operating expenses have been party financed by private companies. In 2001, the organization’s focus changed from volunteering to providing an environment that facilitates organizational responses and the receipt of sponsorship funds. In 2009, a bib sponsor with a strong business background was introduced on a trial basis, and interscholastic athletic events were finally established in 2010 by expanding the range of activities.
著者
杉本 厚夫
出版者
京都教育大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

スポーツの世界は実力だけが評価される世界であると一般的には考えられている。しかし、日本では、選手を選ぶとき、あるいは組織をつくるときには、人的ネットワークであるOB会の影響を受ける。つまり、一見メリトクラシー(実力主義)社会のように見えるが、その背景にOB会組織が機能しているのである。また、スポーツ選手としてのメリトクラシーから撤退した人によって、身体的な能力を問われない新たな代替的な場所として、OB組織が存在し、そのなかで、そのスポーツへの関わり方を強め、再びその中での上昇志向をしていこうとする。あるいは、スポーツ関連の協会でのある一定の地位に付けなかった人によって、新たな地位を確保する集団として、OB会がその対象となることもある。つまり、その世界での権力構造から排除されて人によって、作られるOB会組織という点からして、これらは「代替的加熱」というにふさわしいものである。精確に言えば、スポーツ集団の中で形成された階級文化としての年功序列が、OB会組織の基盤であるといっても良い。さらに、経済的な側面から、OB会の援助に依存することから、そこに権力構造が生起しやすい。しかし、欧米では、OB会は日本の大相撲の「タニマチ」と同じように、パトロンとして存在し、サポーターとして、権力関係を構築することはない。プロ野球では、監督コーチにその球団のOBが多いが、米国のそれは、まったく関係がない。メジャーリーグの選手でなくとも、監督コーチとしての専門的な実力が認められるとなれる。その意味で、日本のプロ野球の組織は、OB会の権力構造を有していると言える。しかし、Jリーグは歴史も浅いこともあり、地元密着型を指向していることもあって、あまり偏ったOB組織を持っていない。今後は各種のスポーツ種目団体のOB会の権力構造について研究していく必要がある。
著者
杉本 厚夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.35-47, 2017

本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。<br> スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。<br> また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。<br> さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。<br> 結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。