著者
松井 輝昭
出版者
県立広島大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2010

厳島神社の社殿が建つところは、オオナムチ・スクナヒコナの神の故地と伝えられる。熊野修験の支援でこの地に熊野本宮の写しが創られ、新たな来世往生の霊場が生まれることになった。中世前期の厳島大明神は、来世往生の願いを叶える神として信仰を集めた。ところが、厳島大明神は室町時代後期頃には、新たに現世利益の神へとしての神格を持つようになっていた。さらに、戦国時代初頭には、福徳の願いを叶える弁財天の評判を得ていた。しかし、厳島神社の神仏習合観が大きく変容しても、その基底には海の神龍神への信仰が伏流していたことが知られる。海上社殿にちなむ厳島神社信仰の本質は、神仏習合観が大きく変容しても変わるものではなかった。
著者
樹下 文隆 秋山 伸隆 石川 一 大知 徳子 五條 小枝子 菅原 範夫 西本 寮子 松井 輝昭 菅原 範夫 西本 寮子
出版者
県立広島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

関ヶ原戦役後、毛利氏の支配を離れた芸備地域では毛利氏の文化遺産を継承していた。戦国毛利氏の後継である江戸期の萩藩も毛利氏の文化遺産の顕彰を行っていた。毛利元就・隆元・輝元時代の文芸資料は各地に伝播し、芸備では厳島関連の文芸資料、芸備以外では毛利元就関連の資料に特徴がある。江戸期の防長二国や芸備各藩では戦国毛利氏の文化政策を継承した収書活動が確認できた。戦国毛利氏の存在は、以後の芸備地域の文芸活動に大きな影響を与えたといえる。