著者
渡邉 英明
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.46-58, 2009-01-01 (Released:2011-05-12)
参考文献数
49
被引用文献数
2

本稿では,江戸時代における定期市の新設・再興の実現過程について,幕府政策との関係に注目して考察した.幕府機関は,市場争論の裁定において,新市を規制する方向で政策を運用している.その中で,新市実現への道は2通りあった.一つは,新市を出願し,近隣市町への影響がないと承認されること,もう一つは,開催の既成事実を経年的に積み重ねることである.手続きを踏まえない新市は,近隣市町から訴えられれば差止めとなるが,近隣市町が黙認する限り公儀は積極的に介入しなかった.開設経緯が不詳の定期市のいくつかは,こうした過程で実現したことが想定される.また,定期市の再興も,新設に準じる行為と認識されていたが,定期市開催の由緒を証明できる市町の場合,公儀に願い出た上で再興が実現された例も確認できる.その際には,周辺市町への周知が行われ,再興を承認する請証文が回収された.
著者
宮 香織 渡邉 英明 有地 あかね 菅 かほり 石川 聖華 門前 志歩 河村 真紀子 許山 浩司 依光 毅 矢内原 敦 河村 寿宏
出版者
JAPANESE SOCIETY OF OVA RESEARCH
雑誌
Journal of Mammalian Ova Research (ISSN:13417738)
巻号頁・発行日
vol.24, no.4, pp.135-141, 2007 (Released:2007-12-06)
参考文献数
63

体外受精胚移植(IVF-ET:in vitro fertilization embryo transfer)に代表されるART(assisted reproductive technology)の歴史は1978年から始まり約30年の間に目覚しく進歩してきた.現在では体外受精で誕生した子が親になる世代である.ARTの遺伝的安全性の検証は極めて重要であり,ART実施者は出生児のフォローアップも行うことが義務とも言える.しかし,本邦においては,体外受精によって妊娠・誕生した児についてのその後の詳細な追跡調査は多くはない.この総説では体外受精(conventional IVF)と顕微授精(ICSI:intracytoplasmic sperm injection)によって妊娠・誕生した児についての先天異常について自験例を紹介するとともに,文献的に考察を行いたい.先天異常の発生頻度は,自然妊娠とARTによる妊娠の間で統計学的有意差はないとする論文もあるが,先天異常の増加を指摘する論文があるのも事実であるため,治療を開始する際にはそのような情報を正しく患者に説明することが大切であろう.また,最近では生殖医療分野に遺伝学的要素も加わり複雑化しているが,治療を行う側はこれらの知識も必要不可欠である.
著者
渡邉 英明
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.63, no.5, pp.447-461, 2011 (Released:2018-01-23)
参考文献数
70

On the Echigo Plain, the gangi arcades, a type of arcade constructed from the timber eaves of adjacent buildings, were built in many market towns through the Edo Period. These arcades were traditional in towns with heavy snowfalls. Over the years there have been many studies done on gangi arcades, but very few discuss their history. The purpose of this paper is to improve the understanding of gangi arcades between the 18th and 19th centuries. This is a case study of Sanjo Town, Echigo Province.Sanjo Town was developed as the castle town of the Sanjo Domain in the late 1610s. After the abolition of the Sanjo Domain in 1623, Sanjo Town continued to flourish as a market town and a river port town. The main street of Sanjo Town, called Honcho Street, was built along the Ikarashi River. The gangi arcades were built on both sides of Honcho Street, Honji Street, and Hachiman Street by the mid 18th century. People used these arcades as covered walkways. In the mid 18th century, Ichinokido Village and Tajima Village, the villages adjacent to Sanjo Town, started to build some stores with gangi arcades. However Sanjo Town’s people called for a ban on these new buildings, and the people of these villages gave up building gangi arcades.Gangi arcades were also used in a commercial fashion. For example, a merchant who set up the stalls of a periodic market using the gangi arcade style on Honji Street was described in the record of Sanjo earthquake in 1828. In the late 19th century, people set up mago-bisashi, boards attached in front of gangi arcades in the winter to secure the places for the stalls of the periodic market. These attachment boards were set up along streets with gangi arcades, and they were concentrated around both ends of Sanjo Town.In Sanjo Town, stores with gangi arcades were constructed until the late 19th century but use of the gangi arcade style was discontinued by the 1930s.
著者
渡邉 英明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2007年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.107, 2007 (Released:2007-12-12)

本研究では定期市の変遷を把握する手段として村明細帳に注目する。17世紀末期から各地で作成され始める村明細帳には、自村での市開催や周辺市町の利用状況が記されることがある。そして、これらの記事をもとに村明細帳から近世の定期市が分析できる可能性は戦前から指摘されてきた。だが、当時は史料整理が進んでおらず、村明細帳を広範に収集することは困難だった。だが、武蔵国に関しては『武蔵国村明細帳集成』が1977年に刊行され、近年では村明細帳だけで資料集を刊行する自治体も増えてきた。村明細帳を広範に収集できる条件が整ってきたのである。発表者はこの点に注目し、村明細帳を広域的に収集して定期市に関する項目を分析した。本発表ではそこから得られた知見を報告したい。なお、本発表の対象地域は武蔵国のうち多摩郡以北(以下、北武蔵)とする。江戸府内やその南方では定期市場網の展開が確認できず、官撰地誌を用いた先行研究でも検討の対象外とされているからである。 村明細帳は、江戸時代の領主が村柄を把握するために村々から提出させた帳簿である。村明細帳における定期市関係の記事は、主に自村市場と近隣市場の2種類に整理できる。自村市場の記事は、その村での定期市開催の有無を記したもので、定期市が休止・廃絶している場合はその旨が記される。また、近隣市場の記事は、その村の近隣にある定期市について記し、当該村からの距離が合わせて記載されることが多い。ただし、これらは必ず記される訳ではなく、村明細帳によって、自村市場・近隣市場の両方が記載されるもの、片方だけ記されるものなど区々である。これは、村明細帳はその時々の徴収目的によって記載内容は一定でなかったためだろう。さて、発表者は現在までに、自治体史や埼玉県立文書館での調査から、近世北武蔵の村明細帳624点(310村)を収集した。これは、天保郷帳の村数(2611)の12%に相当する。 以下では、村明細帳における自村市場・近隣市場の記事のそれぞれに注目して検討を進めたい。まず、自村市場の記事は、245点(120村)の村明細帳(全体の約4割)で確認できた。自村市場の記事は、市町が提出した村明細帳とそれ以外とで記載内容が大きく異なる。すなわち、市町の明細帳には定期市の開催とともに、その市日も併せて記されることが多い。それに対し、市町以外の一般農村では、「当村市場ニ而無之候」など定期市が存在しない旨が記されるのみである。当該村がその時点で市町でないことが確認できるのだが、一般農村が市町でないことは、言わば当然のことであり、さして重要な情報とは言い難い。従って、自村市場の記事は、市町の明細帳において特に注目される。市町が提出した明細帳は61点あり、うち51点で自村市場の記事が確認できる。市町の明細帳は、市場争論で定期市開催の証拠として採用された例が確認でき、また、市町として重要な事柄であることからも、その情報はかなり正確に記されたと思われる。記事の内容として最も多いのは市日に関する記載で、ある時期の市日を確認できることは、市場網の変遷を把握する際に意義が大きい。また、休止中の定期市や、以前に定期市が存在した古市場の記事は、個々の定期市の消長を示す記録として重要である。また、官撰地誌には表れない定期市の存在が、村明細帳から明らかになる場合がある。 近隣市場の記事は、172点(117村)の村明細帳(全体の約3割)で確認できた。そこでは、近隣市町名と提出村からの距離が記されることが多く、明細帳を提出した村々がどの定期市を利用したのかを示すデータとして価値が高い。『新編武蔵国風土記稿』にはこうした記事はなく、江戸時代の武蔵国における定期市の商圏は、今まで不明な点が多かった。これを鑑みると、個々の定期市の商圏について、江戸時代の同時代データを提供する村明細帳の価値は大きい。近隣市場のデータは西部山麓地帯や東部地域で多く確認でき、熊谷・川越・秩父大宮郷など近代に高い中心性を呈する町は、近世においても相対的に広い商圏を有した。なお、官撰地誌に表れない定期市や、個々の定期市の消長が読み取れる点は、自村市場の記事と同様である。近隣市場としてあがる市町は、古市場と明記される例が確認できず、基本的にその時点で存在したとみなされる。だが、個々の市町の厳密な消長の時期について、近隣市場の記事を証拠として画定するには留保が必要だろう。村明細帳は、先年の提出分をそのまま写すことも多く、近隣市場の細かい動向を逐一反映するとは限らないからである。なお、31点の村明細帳において、近隣市場での取引商品に関する記事が確認でき、西部山麓地帯では織物、平野部では穀物があがることが多い。こうした定期市の取引品目に関する地域的特徴は、民俗調査などで明らかにされている近代のあり方と共通点が大きい。
著者
渡邉 英明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.11-11, 2010

雁木通りは,街路に面した町屋が軒先を張り出すことで形成されたアーケード状の構造物で,新潟県を中心とする降雪地域で特徴的にみられるとされてきた。雁木通りをめぐっては,従来,無雪通路としての意義が強調されてきたが,玉井(1994) は,江戸の庇下空間のような商業機能が,降雪地帯の雁木通りでも同様に重要であった可能性を指摘している。雁木通りの商業機能は,今後検証を進めるべき論点といえよう。 さて,雁木通りは江戸時代に起源を有することが指摘されながら,近世史料に基づいた本格的な分析は長くみられなかった。そのなかで,菅原(2007)は,越後・陸奥・出羽など各地の事例を比較しつつ,近世初期から近代に至る雁木通りの形成・展開過程を検討し,雁木通りの商業機能についても,八戸藩や秋田藩について,定期市認可に伴って建設された小見世通りが多いことを指摘した。ただし,定期市設営時の雁木下利用の実態については,なお不明な点が多い。本研究では,19世紀の三条町を事例として,雁木通りの形成状況と,定期市設営時における商業機能について検討することを目的とする。 三条町は1616年の市橋氏入封とともに城下町として整備され,1623年の廃藩後は在方町として発展した。町並は信濃川と五十嵐川の合流点付近に形成され,五十嵐川に沿って東西に展開した。上町の東端は一ノ木戸村に接し,さらに,その先は田島村に通じていた。両村は1717年に高崎藩領に編入され,三条町(幕領)と支配違になった。これを契機として,一ノ木戸村,田島村では町屋建設が進められ,その規制を求める三条町との間で,幕末期に至るまで争論が繰り返された。一連の争論では,一ノ木戸村・田島村の町屋における「庇(=雁木)」が度々問題になった。その後,幕府裁定により,両村の庇は撤去が命じられたが,町屋造成と同時に庇(雁木)建設の動きがあった点は興味深い。 三条町の雁木通り建設時期について,氏家(1998:480)は江戸時代中期としている。これに関して,1846年に八幡小路の五人組頭8名が町会所に提出した嘆願書に「八幡小路の儀は両側とも地狭に付き雪中は雪卸し積立て候故通行難儀仕り候に付,古来より本町並庇通行に御聞済に相成り居り候」という一節がみられる(三条市立図書館所蔵文書1458,1846年「道路拡張願上書」)。八幡小路や本町通り(上町~四の町)で,無雪通路として利用されていた雁木通りは,1846年段階で「古来」とされる時期に形成された。18世紀中期には,縁辺部の田島村で庇建設の動きがみられたが,三条町内の庇(=雁木通り)は,その頃には広く形成されていたことが推定できよう。なお,三条町内の雁木通り形成街区について,氏家(1998)は上町から四の町に至る本町通りとしたが,菅原(2007:7-8)は幕末期の絵画史料から,四の町の西端(五の町境)や本寺小路でも雁木通りが存在したことを指摘した。それに加え,上記嘆願書からは,八幡小路における雁木通り形成も知られる。 三条六斎市における雁木下利用は,1828年の三条地震を記録した『懲震毖録』に窺える。三条地震は,未曽有の大災害として知られ,六斎市が開かれている最中に発生した。大地震に,家屋は一瞬で倒壊し,本寺小路で見世を広げていた野菜売りが庇の下敷きになったという。『懲震毖録』は,市見世が庇下に設置されたことを窺わせるのみであるが,1884年「官有地御拝借願小前書」および「官有地拝借孫庇地麁絵図面」(三条市立図書館所蔵文書648・2315)は,より詳細な出店形態を示す。これらは,孫庇の設置場所とその幅員,使用者,使用料を記録した史料である。孫庇は,雁木先からさらに小庇を道路側に張り出したもので,1928年の加茂六斎市の規定に現れる紙天と同様の機能を果たしたとみられる。三条六斎市では,孫庇の張り出しは,4尺5寸以内に規制されていた。孫庇は,町の両端に多く内側に少ない傾向を示し,大町では著しい集積がみられる。 三条町では,少なくとも19世紀末期まで,雁木を伴う町屋建設が継続されていたとみられる。しかし,その後は三条町の雁木通りは衰滅に向かい,1930年代には既に衰退が進んでいたことが報告されている。また,氏家(1998:480)も,1960年代に実施した現地調査から,大正後期に衰退が始まり,昭和初期に消滅したと位置づけている。これに伴って,雁木下を利用した三条六斎市の出店形態も,変容を余儀なくされた。文献氏家 武『雁木通りの地理学的研究』古今書院,1998。菅原邦生『雁木通りの研究』住宅総合研究財団,2007。玉井哲雄「町割・屋敷割・町屋―近世都市空間成立過程に関する一考察―」(都市史研究会編『年報都市史研究2』山川出版社,1994)68-85頁。