著者
玉井 真理子
出版者
公益財団法人 医療科学研究所
雑誌
医療と社会 (ISSN:09169202)
巻号頁・発行日
vol.8, no.4, pp.99-105, 1999-03-30 (Released:2012-11-27)
参考文献数
12

新生児医療をめぐる倫理的問題に関して,「親による治療拒否」と「選択的治療停止」に焦点をあてて論じた。新生児と家族との関係には,1)お互いに家族としての歴史のない,2)患者本人である新生児の意思を確認するすべがまったくない,3)問題になる疾患に対するイメージを持ちにくい,4)子どもの人権全体を守る法的仕組みが貧困である,などの独自性がある。「親による治療拒否」に関しては,アメリカでは,ベビー・ドゥ事件(1982年)ののち児童虐待防止法が改正され,医療上の放任についての例外規定も設けられたが,日本での議論は進んでいない。「選択的治療停止」に関しては,親が罪の意識を抱かないように医療側が決めてしまうというパターナリズムが日本にはあるが,親か医療者かどちらが決めるのがいいのかということより,情報を共有し一緒に決めるプロセスが重要である。また,親が納得のいく意思決定をすることができるように,心理士などが関与することが望ましいと思われる。
著者
大久保 功子 玉井 真理子 麻原 きよみ 近藤 浩子 百瀬 由美子
出版者
公益社団法人 日本看護科学学会
雑誌
日本看護科学会誌 (ISSN:02875330)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.1-11, 2003-06-30 (Released:2012-10-29)
参考文献数
9
被引用文献数
2 2

当事者の視点から遺伝子診断による選択的中絶の意味を記述し, 看護への示唆を得ることを目的に, Cohenらの解釈学的現象学を用い, 同意の得られた場合に限り遺伝病の子どもを持つ夫婦3組の出生前遺伝子診断の参加観察と, 1名の研究参加者に3回の深いインタビューからデータを得た. 浮かび上がった主テーマ「つながりの破壊」と「障害者の存在に対する相反する価値との直面」を基に物語を再構成した.出生前遺伝子診断では遺伝病という衝撃が生んだ,夫婦の心のすれ違いと障害の差異化によって破壊された人とのつながりの中で, 家族の中での犯人探し, 自己疎外, 障害者の存在の肯定と否定を招き, 選択的中絶によって相容れない価値観に引き裂かれ, 内なる優生思想と出会いつつ, あらたなつながりを希求することとなっていた.よって看護には家族と社会とクライエントとのつながりに関心を払い,診療科を超えた継続的ケアが必要とされていることが示唆された.
著者
玉井 真理子
出版者
金原出版
雑誌
小児科 (ISSN:00374121)
巻号頁・発行日
vol.54, no.10, pp.1403-1407, 2013-09
著者
大久保 功子 百瀬 由美子 玉井 真理子 麻原 きよみ 湯本 敦子
出版者
信州大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2001

看護への示唆を得るためCohenらの解釈学的現象学を用い、当事者の視点から遺伝子診断による選択的中絶の意味を記述した。浮かび上がった主テーマである「つながりの破壊と障害者の存在に対する相反する価値との直面」をもとに物語を再構成した。I.知るということ、「1.夫婦の心のすれちがい、2.不幸の上にもっと不幸:障害の差異化、3.家族の中での犯人探し、4.自己疎外」II.選ぶということ、「1.身ごもった子どもの存在を宙吊りにしておく辛さ、2.障害者の存在の肯定と否定に引き裂かれて、3.中絶した子どもを忘れてしまうことの罪悪感と、亡くしたことを悲しむことへの嫌悪感というジレンマ、4.内なる優生思想との遭遇」III.つながりへの希求、「1.夫婦と家族の絆、2.必要なうそ、3.子どもに受け継がれ再現される苦悩への懸念」出生前遺伝子診断では、遺伝病という衝撃が生んだ夫婦の心のすれ違いと、障害の差異化によって人とのつながりが破壊され、家族の中での犯人探し、自己疎外、障害者の存在の肯定と否定とに直面化を招いた。選択的中絶によって自分の中での合い入れない価値観に自らが引き裂かれ、内なる優生思想が自分や家族の中に露呈するのを目の当たりにしていた。どのように生きるかを選ぶことは当時者の実存的問題であり、医療が決めることではない。しかし未来の中に苦悩が再現される可能性が出生前遺伝診断の特徴であり、その人の生き方ならびに人とのつながりを診断が破壊、支配もしくは介入しかねない危険性をはらんでいる。生きていくのを支えていたのもまた、人とのつながりでありであった。医療者自身が障害と選択的中絶に対する価値観を問われずにはおかないが、同時に中立的立場と判断の止揚を求められている。世代を超えた継続的なケアと、人と人とのつながりへの細心の配慮と、看護者自身がその人とのあらたなつながりとなることが必要とされていることが示唆された。