著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.53-79, 1995-03-31 (Released:2017-08-31)

真言密教(東密)系の阿弥陀如来像とされる紅頗梨色阿弥陀如来像は、頭上に五智の宝冠を戴き、身色を紅くして、阿弥陀如来の三昧耶形である金剛杵を茎とする蓮華を台座としてその上に坐す、特異な形式の像として知られている。その典拠は弘法大師空海作とされる『無量寿次第御作』『紅頗梨秘法』とされるが、宝冠を戴く阿弥陀如来像の成立は、空海時代よりもかなり下がると考えられる。また阿弥陀法次第の道場観では、種子・三昧耶形・本尊形の三種を順次変化させて観念する次第であって、三昧耶形と本尊形とが同時に同一画面上に現れることはあり得ない。そこで現在の紅頗梨色阿弥陀如来像がどのようにして成立したのか、儀軌から道場観へ、道場観から実際の図像へという過程を、図像の直接的典拠である道場観を中心に考察したい。
著者
苫米地 誠一
雑誌
大正大學研究紀要
巻号頁・発行日
no.106, pp.1-19, 2021-03-15
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.123-166, 1991-03-31 (Released:2017-08-31)

石山寺の校倉聖教中には『三昧耶戒儀』(一本は『三昧耶戒』)と称する、平安中期から鎌倉にかけての四本の写本が存在する。この四本はうち二本は同本であり、実際には三種であるが、共に前段に三昧耶戒に就いての解説を、後段には三昧耶戒作法を置き、実際の灌頂に際して三昧耶戒授戒に於る戒体として用いられたものであろう。そして此等の前段の三昧耶戒に就いての解説は、一本は『平城天皇灌頂文』第二文であり、一本は『三昧耶戒序』であり、もう一種二本は新出の文献である。又、後段の三昧耶戒作法は「秘密三昧耶仏戒儀」又は「授発菩提心戒文」と称しており、現行の『秘密三昧耶仏戒儀』と『三十帖策子』所収の『授発菩提心戒文』との中間的な内容であり、現行の『秘密三昧耶仏戒儀』の成立・伝承の過程を明らかにする資料となると思われる。今回は此等の写本を翻刻し、広く学界に紹介しようとするものである。
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.141-158, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
41

奈良・平安期の日本仏教界における諸宗兼学は、大きく分けて「制度的な問題としての兼学」と「重層的(包摂的)な兼修という事態」とが存在する、と考える(実質的には鎌倉期まで含まれるが、室町期以降については、現在の筆者には把握できていないので、今は取り上げない。ただし「制度的な兼学」が機能しなくなっていたとしても「重層的(包摂的)な兼修という事態」は近世末まで継続していたと思われる)。ここでいう「制度的な兼学」とは、太政官符などによって知られる朝廷の律令制度(格)上の問題として規定される諸「宗」を兼学することである。しかし一方では、それとは異なる形で諸「宗」を重層的(包摂的)に位置づけた諸宗の兼学・兼修という事態が存在する。この問題については「宗」の語の意味を含めて、まだ十分な議論・認識がなされていないと思われる。この問題については、筆者も以前に少しく述べたことがあり(1)、また堀内規之氏(2)も触れておられるが、今回はそれらを踏まえた上で些か再考したい。 ところで日本史学では、仏教が日本に伝えられた当初に「三論衆」「法相衆」と呼ばれていたものが、後に「三論宗」「法相宗」に変ったと説明されることがある。これは「宗」と「衆」とが同じ意味であることを前提とする。しかしこのような説明は、日本の史料の中のみで作られた理解であり、仏教が中国から伝えられたことや、当時の中国仏教界で「宗」の語がどのような意味であったのか、という問題を無視した議論と言えよう。或いは当時の日本人が、新しく伝えられた中国仏教について、その教理についても、教団的在り方についても、全く理解できなかったと言うのであろうか。少なくとも中国仏教において「宗」は教の意味であり、衆徒を意味する用法は見いだせない。即ち「三論衆」「法相衆」とは「三論宗(を修学する)の衆徒」「法相宗(を修学する)の衆徒」の意味、その省略形であり、そのことは当時の日本においても十分に了解されていたと考える。 既に田中久夫氏(3)は鎌倉時代の仏教を区別するに当り「鎌倉時代に天台宗といえば、天台の教学を意味し、教団の意ではない。それゆえに、天台宗・真言宗などと呼び、教団史的に区別するのは実態に相応しない」として「現実に存在したのは、南都北嶺と真言密教の教団(寺院)と地方におけるそれらの末寺である」と指摘しておられる。もっとも南都(東大寺・興福寺)は真言宗僧が顕教諸宗を兼学する寺院となっており、決して南都と真言密教の教団(寺院)とを区別することは出来ない。どちらにしても諸宗の兼学は奈良時代の南都仏教に固有の問題ではない。平安時代から江戸時代に至るまで、以下に論ずる「制度的な兼学」と「重層的(包摂的)な兼修」の問題は別にして、諸宗の兼学・兼修は、全ての僧尼にとって日常的なものであった。そもそも「宗」が教理・信仰の意味であることを前提として、初めてこの諸宗の兼学・兼修ということが理解できる、と考える。 「宗」を人(衆=教団)と見る理解は、明治時代に西洋的法概念が導入され、そこで定められた宗教法人法によって規定された宗派教団に対する現代的常識によって成立した理解であろう。明治期以降の宗派教団は「法人」の概念によって、夫々に独立した組織(宗教法人)を形成し、その教団名として「宗」の語を冠した。このことが古代における「宗」概念にも影響を及ぼし、何ら反省されることなく適用されてきたのであろう。しかし江戸期以前の日本仏教界では、そのような概念も組織も存在しなかった。存在したのは「宗」を同じくする者の寺院の本末関係であり、本寺が末寺を支配する、その関係が「宗」を同じくするが故に「宗=教団」が存在するように見えるのかも知れない。しかし「出家得度の儀礼に拠って入門する教団」という意味において「教団」というものを捉える時、その「教団」は四方僧伽としての出家教団でしかありえない。中国・日本において「宗」の相違は問題とはされず、同じ四分律による授戒が行われてきた。たとえ叡山の大乗戒壇が允許され、大乗菩薩戒(金剛宝戒)によって大僧(比丘)に成ることが認められたとしても、四分律か菩薩戒か、の相違によって「宗」が異なることにはならなかった。則ち「宗」毎に別箇の教団が存在する訳ではない。インド仏教において、部派によって異なる律を受持し、授戒が行われたとしても、全国を遊行した彼等は、同じ精舎に同宿し、同じ托鉢の食事を分け合っている。ただ夏安居の終りに行われる自恣のみは、同じ部派の者同士が、精舎内の別々の場所に集まって行ったとされる。これは受持している律の本文・内容が部派によって異なるからではあるが、それ以外の場面において、部派の相違が「教団」的な相違を示すことはない。それは同じ「四方僧伽という教団」内の派閥的・学派的相違に過ぎないからであろう。確かに日本では、沙弥(尼)戒・具足戒の受戒制度が崩れ、その意味では正しい四方僧伽への加入が成立し得ていないという問題が存在するかもしれない。それにしても朝廷によって補任される僧官(僧綱)は、諸宗の相違を越えて僧尼全体を統制する機関であった。僧綱位が後に名誉職化して僧綱組織の実体が無くなり、仏教界における権威(又は単なる名誉)としての機能しか持たなくなったとしても、その補任に「宗」の相違を問うことはない。
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.143-180, 1998

院政期末から鎌倉期前期の興福寺僧である笠置上人解脱房貞慶は、「鎌倉旧仏教改革派」の代表的人物の一人として位置付けられ、法然房源空の専修念仏に対する批判や戒律復興運動の先駆者として取り上げられることが多く、法相宗僧として「唯識同学鈔」など法相宗関係の著作を数多く著し、その思想、信仰についても法相宗の教理的背景の下に説明される。而し貞慶は同時に真言宗僧でもあり、その信仰も真言宗の信仰に基づいていると見られる。而しその真言宗の信仰に関する側面については殆ど無視されており、現在までの貞慶の思想・信仰に関する理解は極めて偏ったものになっていると思われる。そこで今回は、その欠けた部分の一端を補う意味において、貞慶の『観音講式』を取り上げ、そこに見られる密教浄土教の信仰について些か見てみたいと思うものである。
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.73-90, 1992-03-31 (Released:2017-08-31)

興教大師覚鑁の成仏思想に就ては、これまで殆ど何の論証も無しに速疾・現生成仏説として捉えられている様である。而し覚鑁以前に、弘法大師空海の『即身成仏義』に於る〈即身成仏〉思想、異本『即身成仏義』諸本の三種即身成仏説、伝教大師最澄の『法華秀句』に見られる〈即身成仏(大直道)〉説と、それから展開した日本天台宗の〈円教の即身成仏〉思想等が在る。そこで覚鑁の著作を検討してみると、速疾成仏説ではあるが、その中で現生の生身の成仏を主張しており、又その成仏の果を三身即一の妙覚仏としている。この即身の意味に於て現生、特に生身を問題とするのは天台宗の〈円教の即身成仏〉思想の特徴と考えられるものであり、三身即一の妙覚仏というのも天台宗の仏身論に拠るもので、即ち覚鑁に於る天台(台密を含むか)教学からの影響を認める事ができる。
著者
上島 享 阿部 泰郎 伊藤 聡 石塚 晴通 大槻 信 武内 孝善 阿部 泰郎 伊藤 聡 石塚 晴通 大槻 信 末柄 豊 武内 孝善 近本 謙介 苫米地 誠一 藤原 重雄
出版者
京都府立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

本研究では、諸分野の研究者が共同で勧修寺に現存する聖教・文書の調査を進めるとともに、勧修寺を中心に諸寺院間交流という共通テーマを掲げて、研究を行うことが目的である。勧修寺現蔵の聖教と中世文書の目録を完成させ、諸寺院間交流をめぐる諸論考をまとめることができ、本研究の目的は十分に達成されたと考える。