著者
藤本 猛 フジモト タケシ Takeshi FUJIMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.23-46, 2017-03-31

宦官とは、去勢された男性のことを指す。ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は、中国においては紀元前の古代から存在し、彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し、一種の奴隷でもあり、また官僚でもある存在であった。そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから、しばしば政治に介入し、専横な振る舞いが見られ、その特異な身体的特徴もあって、非常に負のイメージの強い存在である。 そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると、宦官の「子」や「妻」という表現をよく目にする。言うまでも無く宦官には生殖機能がなく、子ができるはずがない。このことにつき改めて諸史料を調査し、検討を加えたところ、北宋初期に命令が出され、30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判明した。これによって基本的に北宋時代の宦官には、養子によって家が継がれ、その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える、というシステムになっており、結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたことが推測される。また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり、皇帝の声がかりなどで妻を娶り、宮中とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し、宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった。 北宋時代の後宮が、基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが、その実態については史料が限られているために全面的に解明することは不可能である。しかし零細な史料をつなぎ合わせると、歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった。その一つが李神福にはじまる一族であった。六代十二人の存在が確認できるこの一族は、初代から第六代までの歴代皇帝に仕え、特に李神福は太宗・真宗皇帝に50年以上も仕え、穏和な性格で知られた。その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死したが、その散り際の潔さ、忠誠心の厚さによって、司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった。 以上判明した北宋時代における宦官の実態は、これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異なるものであったといえるだろう。
著者
藤本 猛 フジモト タケシ Takeshi FUJIMOTO
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 = Bulletin of Seisen University Research Institute for Cultural Science (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.38, pp.23-46, 2017

宦官とは、去勢された男性のことを指す。ユーラシア大陸に広範に見られるこの風習は、中国においては紀元前の古代から存在し、彼らは特に禁中にて皇帝の身辺に奉仕し、一種の奴隷でもあり、また官僚でもある存在であった。そして最高権力者たる皇帝との距離の近さから、しばしば政治に介入し、専横な振る舞いが見られ、その特異な身体的特徴もあって、非常に負のイメージの強い存在である。 そんな宦官に関する北宋時代の史料を見ていると、宦官の「子」や「妻」という表現をよく目にする。言うまでも無く宦官には生殖機能がなく、子ができるはずがない。このことにつき改めて諸史料を調査し、検討を加えたところ、北宋初期に命令が出され、30歳以上の宦官には養子一人を取ることが認められていることが判明した。これによって基本的に北宋時代の宦官には、養子によって家が継がれ、その養子の多くがまた宦官となって次代の皇帝に仕える、というシステムになっており、結果としていくつかの宦官の家柄が成立していたことが推測される。また彼らのなかには複数の養子を兄弟として育てたり、皇帝の声がかりなどで妻を娶り、宮中とは別の場所に邸宅を構えるものも存在し、宦官でありながら一般官僚と変わらぬ家族生活を営むこともできていたことがわかった。 北宋時代の後宮が、基本的には限られた宦官一族によって支えられていたことが分かったが、その実態については史料が限られているために全面的に解明することは不可能である。しかし零細な史料をつなぎ合わせると、歴代皇帝の後宮に仕えたいくつかの宦官一族の存在が見つかった。その一つが李神福にはじまる一族であった。六代十二人の存在が確認できるこの一族は、初代から第六代までの歴代皇帝に仕え、特に李神福は太宗・真宗皇帝に50年以上も仕え、穏和な性格で知られた。その曽孫である李舜挙は軍事面で神宗皇帝に仕えて戦死したが、その散り際の潔さ、忠誠心の厚さによって、司馬光・蘇軾ら当時の士大夫から賞賛された人物だった。 以上判明した北宋時代における宦官の実態は、これまで抱かれてきた宦官の負のイメージとはいささか異なるものであったといえるだろう。 A "eunuch" is defined as a castrated official in Chinese courts. Seen widely in the Eurasian continent, this custom had a particularly long history in China, from the ancient era before Christ. Eunuchs were either slaves or officials who served the then emperor in the inner palace. Closely connected with the emperors, they lorded it over others and intervened in national politics. The peculiar physical mark given to them emphasized their negative character to a great extent. In Northern Song primary sources, we can often find a number of expressions, such as "child" and "wife" of eunuchs. Nevertheless to say, eunuchs were deprived of any reproductive functions, and of having their own child. In my investigation into this point, particularly through examining various primary sources, I found out that an imperial order issued in the earlier Northern Song period permitted eunuchs, who were thirty years of age or over, to adopt at least one child. In doing so, I also discovered a patrimonial system in which Northern Song eunuchs largely made their adopted sons to inherit their families, and most of the sons became eunuchs to serve the next emperor. As a result, several eunuch families came into existence. While some eunuchs adopted several children, bringing up them as brothers, others were married to a woman introduced by the emperor, thereby setting up a residence outside the court. My research shows that they enjoyed a family life similar to that of ordinary bureaucrats. In the Northern Song Era, as this paper shows, the inner palace was largely maintained by a limited number of the eunuch families. However, it is impossible to elucidate the overall picture, because of the limited availability of historical documents. Still, with some relatively minor and fragmented documents, we should pay attentions to several eunuch families that served the inner palace of the Northern Song Emperors. One was a family that Li Shenfu originated. This family gave six family heads and twelve members, who served the Northern Song's emperors from the first to sixth emperors. In particular, Li Shenfu, known as mild-tempered in character, attended the Emperor Taizong and Emperor Zhenzong for fifty years in all. His grandson Li Shunju worked as a serviceman for the Emperor Shenzong and later died in battle. The scholar-officials, such as Sima Guang and Su Shi, praised him for loyalty and grace in the last moment. In conclusion, this paper argues that the realities of Northern Song Era eunuchs, as shown above, differ to a certain degree from the existing conception of Chinese eunuchs.
著者
藤本 猛
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.261-293, 2015-09
著者
藤本 猛
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.261-293, 2015-09

It is said that the eunuchs dominated the latter half of the Huizong reign, but the actual situation is unclear. Some records claim that their ascendancy was related to government conducted through imperial edicts written by the emperor himself (御筆). I have therefore examined the eunuch posts associated with the Xuanhedian 宣和殿, or Ruisidian 睿思殿 within the imperial court (禁中) where imperial edicts were written by the emperor himself, and also the other eunuch posts, such as the Lianfangshizhe 廉訪使者 at local governments and the Chengshouguan 承受官, established at many central government offices. Firstly as the result of an examination of the Zhi-Ruisidian 直睿思殿 and Zhi-Xuanhedian 直宣和殿, to which many higher-ranking eunuchs were appointed, we see that the establishment of these posts was a part of the reorganization of military officers carried out in 1112, and thanks to these changes, higher-ranking eunuchs could enter the Imperial Court. And then the Wenzi-waiku 文字外庫 of the Ruisidian, which was the management office of Administrative Documents in the Imperial Court, received reports to the throne, and the Shichen 使臣 who were able to write official documents that were released by emperor were stationed there. Caozu 曹組, one of these Shichen, was a famous writer of ci 詞who was discovered by Emperor Huizong himself. Zouma-chengshou 走馬承受, the predecessor of the Lianfangshizhe, had been established in frontier areas and supervised warriors. Emperor Huizong expanded their right to audit accounts of local governments and changed the name of the office. The Lianfangshizhe later became one of the Jiansi 監司. The Chengshouguan 承受官 were liaison officers between government offices and the Imperial Court, and some of them dominated the offices they held. The appearance of this post made possible the concentration of information from government offices at the Imperial Court. All these eunuch posts were established during same period and improved the capacity of the Imperial Court to administer the government. They did not advance the interests of the eunuchs, but supported the system of direct administration by Emperor Huizong.
著者
藤本 猛
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2011

本年度の研究目的は、(1)北宋末・徽宗朝における政治状況の研究と、(2)皇帝の詔獄制度に関する研究の二つであった。まず(1)に関しては、多くの準備が調ったあと突然中止された徽宗朝の封禅計画について考察した。結果その政治的背景には、国家の礼制をめぐる徽宗と蔡京の考えの違いが存在していた。徽宗にとってすでに価値を見いださない封禅儀礼を、逆に蔡京が強行しようとしたことから、徽宗は目指すべき政権像が異なってしまっていることを痛感し、蔡京への政権委付の可能性を放棄したのだった。よってこの封禅計画の中止は、徽宗即位以来、断続的に続いてきた蔡京政権との訣別を象徴する出来事であった。(2)については、北宋後半の陳正彙の獄にっいて検討した。その結果、制度外の制度と言える詔獄は、非常に高度な政治判断を含んでおり、そのような詔獄の理解には、一般的な制度的側面と、当時いかなる政治状況であったかという政治的側面との両方からアプローチしなければならないことを指摘した。さらに、これまでの宋代「君主独裁制」についての研究を総括し、著書としてまとめた。従来の宋代「君主独裁制」は、皇帝が政治的主体性を放棄し、これを士大夫ら科挙官僚に委ねる「士大夫政治」と表裏一体の制度であり、皇帝は受動的君主であった。これが第六代神宗のときには、神宗がみずから政治的主体性を発揮し、前面に出て新法政策を継続した。これは「君主独裁制」ではなく「皇帝親政」体制であった。以降の君主は、宋初太宗に始まる「祖宗の法」を受け継ぐのか、神宗の「親政」体制を受け継ぐ(「紹述」)のかの選択を迫られた。そこに登場したのが徽宗であった。徽宗はやがて新法政策を「紹述」することを目指し、それは結局、皇帝「親政」体制への移行を探るということを意味していた。したがって徽宗朝の研究こそが、宋代「君主独裁制」研究のために重要であることを指摘した。