著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.17-38, 2009-02

昨年リヨンで1867年に刊行された英語による中国と日本のガイドブックのコピーを入手した。1867年というと日本は江戸時代もまさに終わろうとする時期で,この年の11月9日大政奉還が行われ,翌年1月3日には王政復古が宣言される。この中国と日本の案内書はアヘン戦争後の中国-その隣国の屈辱にまみれた敗北を前に,開国を迫られ,主権が将軍から天皇に移行する激変を前にした日本を扱っている。本論稿はとりあえずはこのガイドブックの日本案内の部分の邦訳紹介と,その歴史的意義の分析がテーマである。ところで筆者がリヨン滞在時,当地では「世紀の精神-リヨン1800-1914」という企画展が市内の博物館,図書館,教育研究機関を網羅して開催されていた。このガイドブックを出版したイギリスで行われたわけではないが,いわゆる植民地帝国時代のヨーロッパの生活をつかむのにはまたとない機会であった。しかも近年日本では東南アジア・東アジア史(東インド会社史も含め)の研究がいよいよさかんになり,この時期の日本の鎖国開国の経緯がこれらの地域の国々と比較検討できる状況になってきた。また岩波書店の『大航海時代叢書』をはじめさまざまな旅行記がすでに翻訳され閲読可能な状態であり,キリスト教伝道と欧米諸国の海外進出の関係についても先鋭な研究が蓄積されつつあるように思われる。また欧米における18世紀以降における旅行ブームと旅行案内書の研究も見られるようになった。こうした中で今回,1867年刊行の中国・日本案内の紹介をなしうることは筆者にとり望外のよろこびである。今回は翻訳紹介する資料の概要についてまず述べると同時に,ガイドブックそのものの誕生の背景と本書の性格について,現在までに気づいた点を指摘したい。I世界最初の英文日本ガイドブック,II本書の対象とする国と都市,III『米欧回覧実記』との対比,IV刊行当時の世界とガイドブック-なぜ「『知』の収奪」か?Jusqu'ici on croyait que le guide du Japon en anglais avait ete publié pour la première fois en 1891 à l'édition de Murray et qu'il avait utilisé le contenu des deux differents, l'un sur Nikko et l'autre sur le Nord et le Centre du Japon, édités principalement par Ernest Satow. Mais nous en avons decouvert un plus ancien qui avait ete compilé à Honkong en 1867, un peu avant la Restauration de Meiji. Nous allons présenter tout d'abord le sommaire de ce livre en parlant de ses quelques valeurs historiques et notre traduction en serie.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.27-47, 2012-02-29

第4回は1867年刊行の英文ガイド("The Treaty Ports of China and Japan")の横浜篇を扱う。横浜は開国後,江戸にもっとも近い港として,日本の発展に大きな役割を果たしてきた。横浜は開港にあわせて建設された居住地であり,1636年鎖国令下,ポルトガルとの交易のために築造された長崎の出島に似ていたため,外国人の中にはその二の舞になるのではと不安を覚える者も多かった。そうした中で外国人居留民と幕府,さらには明治政府とのねばりづよい交渉を通して,今日の横浜は形成されていった。横浜の発展は,日本の発展そのものを象徴し,また長崎とは違って,新しい日本を切り開く力はここからあふれ出た。 それと同時に,ガイドブックに記載はないが,つぎの事実にも我々は目を向けておかなければならない。横浜に真っ先に乗り込んできた商社の中に,ジャーディン・マセソン商会がある。これは中国のアヘン戦争を策動し,デント商会とともに中国のアヘン市場を独占した。日本の開港とともに長崎・横浜に進出し,横浜では居留地の一番館(英1番館)を占め,長崎では支店のグラヴァー商会が,薩摩・長州と深い関係を結ぶにいたっている。ハリスによって結ばれた修好通商条約によって,日本へのアヘンの輸入は封じられたが,こうしたことも頭に入れて,ガイドブックの中身を考えていかなければならない。ところで,町としての横浜には歴史がなく,ガイドブックの記述は生彩を欠く。それを補うように付け加えられているのが,鎌倉である。古都の京都・奈良の解説はサトウの1881年版の「中部北部日本案内」まで待たなければならないが,ヨーロッパ人旅行者が江戸に近いかつての首都鎌倉に見ていたものは,本ガイドブックにもよく感じられる。しかも横浜とセットになることで,不思議な魅力を醸し出している。構成から見ても,江戸篇の直前に鎌倉を置いているのは悪くない。 ところで「横浜篇」でもっとも我々の関心をひくのは,遊郭「岩亀楼」にかかわってフォーチューンが述べた,その言葉の引用であろう。日本についての本ガイドブックは,西欧文明が日本にそそぐまなざしそのものであり,その後のガイドブックとくらべて,学術的な厳密さを欠くとしても,観察者の率直な視線がつよく感じられる。なおこの遊郭と風呂の習慣についての指摘は,次回以降に考察を加えたい。The second chapter of this guidebook treats the most promising port of Japan, which finds itself within easy reach of Edo (the ancient Tokyo). There was no interesting historical monument here, except the ancient temples of Kamakura, a former political capital in its suburb. However, there was much trade. Many famous companies and banks in Asia rivaled one another to do business in this city, including Jardine Matheson & Co., Dent & Co., Walsh Hall & Co., etc. We will look at the development of exchange of the new occidental partner of East Asia through the growth of this newly built settlement.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.1-20, 2006-09

ルナールの生涯を眺めるときことにショーモの村会議員に選出されて以降のショーモ,シトリー村における政治活動を無視することはできない。それどころか彼の文学作品そのものにもこの村政にたずさわった体験は影響を及ぼしている。そしていくつか傑作は書かれるもののしだいに文学活動は低調になってゆく。これはルナールが村の政治に多くの時間をとられ,犠牲をしいられたということであろうか。それともルナールにとって政治が文学よりも重要性を帯びたということであろうか。いずれにしろこの問題を考えるとき第三共和政を揺るがしたドレフュス事件をはじめとする内外の政治・社会状況,そしてレオン・ブルム,ジャン・ジョレスなどの政治家との交流を検討することが欠かせない。
著者
谷 裕文 大澤 正敬 伊藤 勇夫 宮田 及 明田 隆仁
出版者
公益社団法人 自動車技術会
雑誌
自動車技術会論文集 (ISSN:02878321)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.865-870, 2013 (Released:2018-01-25)
参考文献数
3

アイドルストップ機構搭載車両の重要課題であるクランキング音低減の検討を行い,以下のことを明らかにした.クランキング音は主にドライブプレートの面振動による放射音である.伝達系でのクランキング音低減方法としてドライブプレートの起振力の遮断と放射面積の減少を提案し,その有効性を計算と実験で確認した.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.27-41, 2001-08

ジュール・ルナールの『日記』にかんしては臨川書店から刊行されたルナール全集の最終巻である第十六巻解説において拙論を記したが,なお意に満たぬところも多く,あらためて若干の問題点について検討を加えたい。今回はまず,『日記』を含めルナール文学の特質について翻訳全集刊行後まとめた小論を紹介し,ルナールの『日記』の持つ意味について新しい角度から考察する手がかりとしたい。(1) また彼の『日記』は現在プレイアッド版によって広く読まれているが,じつはこの版が拠っているアンリ・バシュラン編集のベルヌアール版ルナール全集の『日記』テキストは多くの削除・修正を受けていることが分かっており,この点の経緯は上記臨川書店刊行の邦訳全集で詳述したが,ここではそのいわば改竄の実態を具体的な例をあげ点検(2)したい。したがって本論考は1「ジュール・ルナールの文学-三つの辺境とその征服」という小論,および2「アンリ・バシュランによるルナールの『日記』原稿改竄」のふたつからなる。Le Journal de Jules Renard est sans conteste le maitre chef-d'Stvre de l'ecrivain nivernais, pourtant c'est egalement un ouvrage truffe de problemes, au sujet desquels nous voudrions discuter dans cette serie d'articles. Or nous desirons en premier lieu, remettre en question l'authenticite du texte de l'edition actuelle, qui est, selon nous, a tout le moins fort discutable. En effet, quoiqu'on ait pu envisager que le manuscrit de Renard avait ete entierement reduit en cendres, Leon Guichard qui faisait incontestablement autorite parmi les checheurs s'interessant a notre auteur, a retrouve par un jeu du plus parfait hasard une page manuscrite dudit journal (page qui est de nos jours conservee a la Bibliotheque Nationale de Paris), et en a compare minutieusement son texte avec celui de l'edition d'Henri Bachelin. Et ceci eut pour resultat de montrer que le texte de Bachelin presentait de nombreux suppressions, coquilles et modifications tout a fait arbitraires en regard de la version manuscrite. En outre, un autre chercheur ayant decouvert a son tour une nouvelle page du manuscrit d'origine, les constatations apres comparaison du texte de Bachelin, en furent en tous points pareilles. Notre article traitera donc de cette derniere decouverte, pour le moins fondamentale quant a l'histoire de la litterature francaise et tentera de reprendre en la precisant, l'analyse de ce chercheur. Nous voudrions, de surcroit, tendre vers une nouvelle approche du caractere de Jules Renard, surtout a travers son journal, et ce sous la thematisation de: Jules Renard et la conquete de ses trois marginalites.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.195-205, 1986-12

外国のある作家を真に理解するというのは決して容易なわざではない。その作家の作品の理解だけでは,およそ十全な把握をなしえたとは言いえないからである。その国の文化的特色や時代的状況,その他さまざまのことに深い知識が必要である。そうしてはじめてその作家の独自性が浮かび上がって来る。私が研究対象としているスタンダールについては,ことにその感が深い。いまここに取り上げようとしている作品の筆者は,スタンダールとわずか18年の期間をこの世で同じくしたに過ぎず,政治的にもスタンダールが共和主義者であったのにたいして,王統派,スタンダールが青年時代ナポレオンのイタリア遠征に参加して以来,熱烈なイタリアびいきになったのにたいし、終始変わらぬフランスびいき,とまったく正反対の人物である。しかもその文学観もほとんど対蹠的である。けれどもこの人物のフランス文学にたいする見解は,フランス語の特質をめぐる議論とともにフランス語およびフランス文学史のさまざまの問題を浮かび上がらせてくれると同時に,スタンダールのフランス文学史における姿を,幾分かは我々に明瞭にさせてくれるようにも思うのである。そしてその結論については後日,また別の論考で明らかにしたい。En 1782,l'Academie de Berlin a mis au concours le sujet suivant:Qu'estce qui fait la langue francaise la langue universelle de l'Europe?Par ou merite-t-elle cette prerogative?Peut-on Presumer qu'elle la conserve?Elle a couronne le<<DISCOURS SUR L'UNVERSALITE DE LA LANGUE FRANCAISE>>d'Antoine Rivarol en 1784.Ici,nous examinons son<<DISCOURS>>.