著者
高本 康子 Yasuko Komoto
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.253-266, 2015-11-27

エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァツカヤ(1831-1891,以下「ブラヴァツキー」)は、19世紀末から20世紀初頭の欧米において大きな影響力を持った神秘主義の啓蒙団体神智学協会の、協議を確立した人物の一人である。彼女の「宗教的、形而上学的嗜好」がチベットにあったことは、しばしば言及されるところである(オッペンハイム 1992:215)。例えば、彼女のニューヨークの居室は、「ラマ僧院」(lamasery)と呼ばれていた。しかし、その彼女の部屋に置かれた雑多な品々は、「東洋」を連想させるものではあっても、直接チベットにかかわりを持たないものが多かった。そしてそこに集う人間たちも、チベット人でも、チベット仏教の僧侶でもなかった。従ってその場所と、実際のチベットの事物、または現実の「ラマ僧院」との関連は不明瞭であるように見える。では、何がその場を「ラマ僧院」たり得るものとしていたのか。ブラヴァツキーをめぐる状況において、何が「チベット」として表象されるものとなったのか。本稿はそのありようを手がかりに欧米および日本におけるチベット・イメージの特徴を把握しようと試みるものである。
著者
高本 康子 Komoto Yasuko
出版者
群馬大学国際教育・研究センター
雑誌
群馬大学国際教育・研究センター論集 (ISSN:21858209)
巻号頁・発行日
no.11, pp.15-28, 2012-03

昭和戦時期、すなわち満洲事変から1945(昭和20)年の終戦までの昭和期において、日本の外務省、軍部そして仏教各派が、当時「喇教」と呼称されたチベット仏教に対して様々な活動を行っていたことに関しては、現在未調査の部分が大きい。本稿はその中でも、真言宗に注目し、満洲国建国前後に行われた、チベット仏教第二の活仏パンチェンラマとの接触の模様を、中心人物の一人田中清純に焦点をあてて考察する。