著者
相馬 秀廣 田 然 魏 堅 伊藤 敏雄 森谷 一樹 井黒 忍 小方 登
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.65, 2009 (Released:2009-06-22)

1.はじめに 発表者らは,高解像度衛星画像などを利用して,中国乾燥地域における古灌漑水路・耕地跡の復元に取り組んでいる.内モンゴル西部の黒河下流域では, QuickBird衛星画像の判読により,Bj2008囲郭,蜂の巣パターン遺跡(仮称)などが抽出された.Bj2008囲郭については,本学会の2008年春季学術大会で相馬他によりその存在を指摘したものの,詳細は不明であった.発表では,2008年12月実施の現地調査結果を含めて,両遺跡について判明したことおよびそれらの意義について報告する. 2.Bj2008囲郭 この囲郭は,相馬他(2008)が最初の報告である.一辺の長さが約120~140mの方形に近い形状で,それらは漢代のK688囲郭およびK710囲郭とほぼ共通し.黒河下流域で最大級の遺跡である.K710囲郭と同様に,南門の痕跡が明瞭である.現地では,500mほど離れた付近に西夏・元代の陶片が存在するものの,囲郭付近には前漢代の陶片が散在する.これらの点から,Bj2008囲郭は前漢代のものと判断される.その存在が明らかになったことにより,以下のような新知見などが得られた. Bj2008囲郭周辺には,断片化した盛土型灌漑水路跡およびヤルダン化した農地跡が分布する.同様の農地跡はK710囲郭周辺でも確認されており,漢代に,Bj2008囲郭周辺で農耕が実施されていたことが判明する.QuickBird衛星画像では,ヤルダン化した農地跡は,水路沿いなどに比高3-4mの紅柳包などが発達することが多い西夏・元代の農地跡とは,明瞭に区別される.このような農地跡の現況の相違は,それぞれ放棄された時代の指標として有効であることが示唆される. 黒河下流域には,従来,3つの候官(A1遺跡:殄北候官,A8遺跡:甲渠候官,卅井遺跡:卅井候官)が知られている.それらの平面的配置は,大まかにはA1遺跡と卅井遺跡を結ぶ線を斜辺とする直角二等辺三角形を呈し,漢代の黒河はA8遺跡付近を経て北東の古居延澤へ注いでいた.Bj2008囲郭はほぼこの斜辺 上,卅井遺跡から25kmほどに位置し,漢代の黒河を挟んで反対側のK688囲郭はA1遺跡南方約27kmにある.これらの点から,Bj2008囲郭は,3つの候官やK688囲郭などとともに.前漢代の屯田に際して基準点の一つであったことが判明する.Bj2008囲郭抜きに行われてきた従来の居延オアシスに関する諸解釈は,再検討を迫られることになる. Bj2008囲郭の北西角と南東角を結ぶ対角線は,ヤルダンや囲壁破損などから示される,卓越する強風方向にほぼ並行する.これは,囲郭建設に際して,強風から囲壁の破壊を防ぐことが意識されていたことを示唆する.同様の状況はK710囲郭でも明瞭であり,著しく囲壁の破壊が進行したK688囲郭でも確認される.これらのことから,漢代の黒河下流域では,一辺が120m前後の方形に近い囲郭建設に際して,強風方向が配慮された可能性が強く示唆される. 漢代の120m前後の方形囲郭建設で,強風方向が配慮されたとすれば,同じ乾燥地域であるタリム盆地楼蘭地区のLE遺跡も漢代の建設である可能性が浮上する.このことは,LE遺跡が文書にある「伊循城」である可能性を否定するものではない. 3.蜂の巣パターン遺跡 緑城南方約1km付近の泥質の平坦地には,水路跡を挟み50mほど隔たった2件の西夏住居址東側に,東西約85m,南北約40mの範囲に蜂の巣状土地パターン(蜂の巣パターン遺跡)が認められる.そのパターンは,元代に積極的に推奨された王禎『農書』区田図の坎種法(井黒,2007)に類似し,区田法施行地の可能性が示唆される.しかし,「目」の規模が1-5mとやや大きく,凹凸が逆の部分も存在することから,この遺跡を「擬似区田法」施行地とする.「擬似区田法」であれ,「区田法」に関連する遺跡の報告は初めてである.また,当地では,元代に先立ち,既に西夏で区田法が実施されたことなども判明した. 本研究は,平成20年度科学研究費補助金基盤研究(A)(2)(海外)(19251009)「高解像度衛星データによる古灌漑水路・耕地跡の復元とその系譜の類型化」(代表:相馬秀廣)による研究成果の一部である.
著者
黄 暁芬 宇野 隆夫 吉井 秀夫 河野 一隆 上原 雅文 米田 穣 河野 一隆 諫早 直人 宮原 晋吾 臼井 正 張 在明 塔 拉 魏 堅 王 曉〓
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究は4年間にわたり、対象調査地のフィールドを通して考古学、歴史学、地理情報システムや年代測定法などの学際的研究を展開していた。主な成果は下記3点にまとめられる。1.漢魏帝都と郡県城址の構造プランとその象徴性1)帝都建設における理念空間の完成:漢帝都長安の建設プランは、南山子午谷口から嵯峨郷五方基壇まで南北軸線全長75kmに及ぶ。それが渭水を中心として都城・陵墓との生・死空間が南北正方位に対置し、天と地・自然山川と記念的建造物の対象性をベースにおき、漢帝国支配の正統と神聖を表象したシンボルであり、東アジア古代都城の成立にも多大な影響を与えていた。2)郡県城址の調査と復元:華北、内蒙古における戦国・秦漢期の郡県城址が計26ヵ所を調査、測量した。GPS・GIS解析によって各遺跡の方位と構造プランを解明し、中央帝都建設に対して地方郡県都市の特色を初めて把握した。一辺500~600四方の城郭都市がほとんどで、北方位を重視するが、真北からの偏角は1度~7度あり、帝都建設ほどの精度がない。その偏角の大小は、中央勢力との関係緊密度に影響されるように見て取れる。城外には正方位重視の墳墓が造営されたことも判明し、帝都長安の都市計画を模倣したものと考える。3)北方国境線遺跡の探求:内蒙古の陰山南麓一帯の調査では、城塞、長城、烽火台の併存が発見した。一辺40-50四方の城塞は城門1つ、石積みの城壁が幅3-5、頑丈な防御施設で、それに長城と烽火台は近接に築かれ、戦国秦漢期の北方軍事施設として完備されたことが判明した。2.秦直道の調査と研究1)秦直道の真相究明:紀元前212年建造された秦帝国の南北幹線道路-秦直道は歴史上、深い謎に包まれ、長い間不明なままであった。近年、秦直道の発掘調査や日中連携調査によって、秦直道の真相がようやく解き明かされてきている。山岳高地の作道、版築土の舗装道路の道幅は平均30m、道の沿線に壮観な皇室の行宮や防御に備えた関所、駅舎施設が付設された。それは高度な土木技術と巨大な権力組織によって創り出された「帝国の道」である。2)古代ローマ道との比較:ローマ道は礫石や砂石の作道が主で、道幅4の石畳みの舗装道が特徴的である。帝国領域間の軍事、交通運輸道として発達し、商用道路の兼用を含む実用性の優れた古代ハイウェーである。3.チベット吐蕃王墓の調査と実測チベットの吐蕃王国を象徴する巨大墳墓の4大分布地点で実地調査とGPS測量を行った。その結果、時期の異なる巨大方墳・円墳を特徴とした吐蕃王室・貴族大墓の構造配置と分布を総合的に把握し、吐蕃大墓の立地方位と景観の特色などの検証が初めて実施した。