言及状況

外部データベース (DOI)

Yahoo!知恵袋 (2 users, 3 posts)

このエピソードの出典は『信長公記』という、織田信長の一代記ですね。 著者は信長に仕えていた太田牛一なる侍で、同時代の記録として史料的な価値は高いとされています。 『信長公記』 巻之十五 / 明智日向守逆心之事 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/185 (左ページ・最後から5行目より) ざっくりと訳してみます。 5月27日に ...
岡吉正のWikipediaを見ると、「本願寺攻めの陣頭に立つ信長を狙撃し、彼の大腿部に重傷を負わせた。」と書かれています。 たしかにこの記述は大げさで、すこぶる怪しいですね。 織田信長が雑賀衆に鉄砲で狙撃されたのは、天正4年(1576年)5月の天王寺の戦いでの出来事です。 「信長公記」では、以下のように書かれています。(コマ番号122/417) http://dl.ndl.go.jp/info:n ...
Wikipediaにも書かれているように、情報源は「信長公記」です。(コマ番号74/417) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/60?viewMode= また、「信長公記」ほどの信憑性はないかもしれませんが、江戸時代に著わされた豊臣秀吉の伝記である「真書太閤記」にも、山口親子と戸部新十郎のことが詳細に描かれています。(コマ番号95 ...

レファレンス協同データベース (2 libraries, 3 posts)

太田牛一著『信長公記』の原文が見たい。
以下の二人について記述のある文献はあるか。二人の関係が分かるような資料があればなおよい。 1.松野平助(介とも書く) 信長の家臣であり、吉田松陰の家の始祖にあたる人物 2.松野利右衛門 『穂積町史 史料編』pp.392-394に記載あり。下穂積村(現:岐阜県瑞穂市穂積)に住んでいたらしく、何代も続く名前のようだが、どの代についての記載でもかまわない。
江戸中期の儒学者・蘭学者青木昆陽の父「佃屋半右衛門」の出身は、江戸か近江か。 ・『広辞苑』昭和53年第二版補訂版には、青木昆陽は「近江の人」との記載あり。 ・『広辞苑』2008年第六版では「江戸の人」との記載あり。 ・『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)には「青木昆陽は江戸日本橋で佃屋と称する魚問屋に生まれた。」とあり。 江戸時代、近江八幡出身の近江商人の中に「佃屋」という屋号は ...

Twitter (26 users, 51 posts, 46 favorites)

牧庵!(ただし最期は溺死)https://t.co/Fcd8W4WcJV
日蔵が松尾大社で二十一日間練行念誦したら、一人の老人が来て日蔵を叱咤し、社殿の中から「毘婆尸仏」と声がしたという話が好きです。 https://t.co/lwmtCA4vYg https://t.co/u18CvfBZLq
国会図書館のデジタルライブラリで原文を確認。お教え下さった方ありがとうございます
川角太閤記 ~備中国高松撤退のこと~ に「八郎殿内五人の年寄衆 岡豊前、明石飛騨正、戸川平右衛門、花房助兵衛、長船又左衛門」宇喜多五人衆と書かれていて萌える https://t.co/3twUwmop0K
https://t.co/IQUsDm8iK4 『川角太閤記』は、『元就記』と内容が一致していて、『元就記』は西川原角左衛門の著というから、西「川」原「角」左衛門の「太閤記」で『川角太閤記』だろうから、「川角」の読み方は、「かわづの」ではなく「かわかく」が正しいだろうという黒川真頼の考察。
こっちのほうが見やすそう。 『改訂 史籍集覧』第19冊 明治34年4月25日印刷 4月30日発行 大正10年4月20日3版印刷発行 近藤出版部 https://t.co/owgg4Xjzf4
川角太閤記では、山崎の合戦のとき、秀吉方は、光秀の陣中近くの民家の空き家に、しのびをまぎれこませていた。もし明智方が夜襲を仕掛けようとして軍勢を動かしたら、しのびは、小さい空き家を一つだけ焼いて知らせる手はず。 https://t.co/Vy6izn8FuS https://t.co/FqpISBkfcD
川角太閤記では、山崎の合戦のとき、秀吉方は、光秀の陣中近くの民家の空き家に、しのびをまぎれこませていた。もし明智方が夜襲を仕掛けようとして軍勢を動かしたら、しのびは、小さい空き家を一つだけ焼いて知らせる手はず。 https://t.co/Vy6izn8FuS https://t.co/FqpISBkfcD
史籍集覧 19収録の、第六 川角太閤記 巻四。 https://t.co/6Y80ZmSIcO このあたり小田原征伐。あっさり。
https://t.co/NzFwc8vCyz 一方、かつて松永殿が大和の信貴山の城にて切腹したときは、"ひらくもの釜と我等の頸と二ツハ信長殿御目に掛けましきとて みしんこはいに打わる 言葉少も相たかわす 頸は鉄炮の薬にて やきわり みしんに くたけけれは ひらくもの釜と同前也"
『川角太閤記』『改訂 史籍集覧 第十九冊』近藤出版部 明治34年4月25日印刷 4月30日発行 大正10年4月20日 3版印刷発行 https://t.co/AOMieSo6xv "てんしゅへ取て返し 道具とも取出し あら身 国行の刀 吉光の脇差 きたふの墨跡 是を夜の物に包み目録を添 いかに よせ手の人〳〵へ申候
https://t.co/jfHDNylel1 信長公記。織田の中国攻め。上月城の戦い。天正6年5月24日 竹中半兵衛に投降した備前国八幡山の城主って明石行雄?備前国八幡山の城主…。これ、西播磨の有年にある八幡山城(有年山城)だと腑に落ちるんだが…。
織田信忠も「鹿之角の御立物」だったな… https://t.co/KCxDhvqc4e https://t.co/x0U4DSK5FR
とりあえず、さっきの平維茂の件だけど、 http://t.co/sllxkyL2ka この文献の二十七ページ六行目から記述がって、これがwikiの出典となった資料(写本か翻刻されたものかはわからんが)で、恵心院僧都源信については資料当たらないといけないんだけど今日はもう疲れた
@yuuri_BNE 一番古そうなこれhttp://t.co/EuqPPM9XNg はアマゾンさんでも置いてないのね。

Wikipedia (26 pages, 58 posts, 13 contributors)

編集者: USSR-Slav
2023-08-13 21:33:58 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Syunsyunminmin
2023-08-13 21:24:09 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Yotate
2023-08-13 21:12:19 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-20 15:13:57 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Mitsuki-2368
2023-04-21 09:14:50 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Kan8
2023-04-20 10:16:57 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Kan8
2023-04-20 13:13:32 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Quark Logo
2017-04-21 23:22:34 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Quark Logo
2022-04-04 22:24:28 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Quark Logo
2015-07-23 08:18:03 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。
編集者: Tengoro
2015-08-18 00:52:37 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

収集済み URL リスト