著者
菅 英輝
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-74, 1989-10-30

レーガン政権時代にアメリカの軍備拡大がおこなわれたが, それは産軍複合勢力が意図的におしすすめた政策であった。政策を実行に移したのは, レーガン大統領のもとで高級官僚の地位にあった国防産業のにない手たちであった。実際に軍備拡大にあたっての調整をおこなったのは Committee on the Present Danger であったが, その努力の結果として合衆国に経済的利益があり安全保障上有利になるとされた。しかしながら, 軍備拡大の結果経済的利益があがったのは, 国防関連産業の集中する特定の限られた州においてである。長期的には, 国内経済全体としてはむしろ害が多く, たとえば, 財政赤字の拡大にみられるような経済運営の失敗, 経済活動の無駄, 技術開発の軍事化やゆがみ, さらには安全保障面での形勢の弱体化などが生じた。さらに, アメリカの軍拡は全世界の武器購入国のあいだに紛争を誘発させたり, 紛争そのものを長びかせることにつながった。日本自体もアメリカの軍備増強の影響下におかれている。最近のFSXをめぐる論議やココム論争は, その典型的な例であろう。
著者
Ingebretsen Edward J.
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-55, 2003-03-31

アメリカン・ゴシックと呼ばれる表現様式の存在について,特に恐怖が美学(Grumenberg 1997),政治的な演説(Goddu 1997),そして行き過ぎた大衆文化(Edmundson 1997)をも利用するやり方に関して,活発な意見が出されてきた。ゴシック様式は,そこによく登場する吸血鬼のように完全に死んでいない異常な生物のやり方にならって,その眼前にある全てのものを食い尽くしてしまう。例えば商業目あてのゴシックでは,フレディ・クリューガーやハンニバル・レクターといった恐怖界の有名人を集中的に売りこむやり方がはびこっているように見えるし,恐怖や暴力に関するレトリックは音楽から政治演説に至るまであらゆる所で問題視されることもなく用いられている。こうした営利目的のゴシックはまた,デイヴィッド・プンター(1980)がゴシックの「差し迫った政治性」と呼ぶ説を裏付けている。というのも,恐怖をあおる話し方がB級映画からアメリカの政治の場そして日々のメディアやニュース作りの中に入り込んできたからである,ティモシー・マクヴェイや,より最近ではオサマ・ビン・ラディンの例に見られるように,いったん世間が彼らに怪物の烙印を押してしまうと,あとの法的手続はみな,怪物だからやつらは生きるに値しないというすでに下された判決をただ追認するものにすぎなくなってしまう。「怪物」という言葉には注意するべきだ。それはわかりやすく認識論的な明瞭さを持った言葉であると考えられているが,実際のところどんなメッセージを伝えようとしているのだろうか。その言葉はいろいろなものを指していて複雑であり,一見した所よりもずっと広い幅を持つこの「怪物]という分類は,現代の政治においてどのような意味を持っているのだろうか。本論文は,「怪物」の社会言語学的伝統を研究するものである。怪物のレトリックは古代以来,イデオロギー的な機能を果たしてきた。それらが達成しようとする権力や報復は常に,宗教,国家,文明の三者から成る権威によって保護されている。遺伝上の偶発的変異として生まれた怪物を社会的な寓話として読めば,それは人間の都市に門を据え,その通行を規制するものである。社会が自らを統治するために組み合わせる風習や慣行のレトリックにおいて,怪物は,イデオロギーが必要とするものが目に見える負の形をとって現われたものであり,烙印を押され,共同体が自意識を持つために必要な拒絶されるべきものとして立ちあらわれる。この言葉をめぐる議論の歴史を概観することで分かってくることはマクヴェイやビン・ラディンを怪物であるとするなら,皮肉にも,その言葉がもともと意味するものとは遠くかけ離れた意味においてであるということである。
著者
井口 治夫
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.75-105, 2007

エルバート・トーマス(Elbert Thomas)は、1933年から1951年までユタ州選出の連邦上院議員(民主党)であった。当時の連邦議会には中国通のウォルター・ジャッド(Walter Judd)下院議員と元大学教員(東アジア史)のマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)下院議員(のちに上院議員、駐日大使)がいたが、当時の議会では東アジア情勢に詳しい議員はこの3人しかいなかった。彼らのうち、トーマスが最も注目された政治家であり、また、米国の東アジア政策をめぐる議論で足跡を残したのであった。トーマスは、日露戦争直後にモルモン教の宣教師として妻とともに来日し、6年ほどの滞在中に日本社会に溶け込んだのであった。トーマスとその白人の妻は日本で生まれた長女にチヨという日本人名をつけたのであった。トーマスは帰国後、上院議員になるまでの時期の大半をユタ大学で東アジア研究の教授として教鞭をとっていた。本論文は、トーマスの日米関係、太平洋戦争、対日原爆投下、対日占領に対する考えを、太平洋戦争に看護婦として従軍した娘チヨとの書簡、トーマス文書、トーマスの著書、演説そして論評を通じて考察したり、分析を行う。トーマスは、(1)日米関係が悪化していった1930年代前半軍拡競争ではなく日米文化交流の活性化を推進すべきであると提唱したり、(2)対日原爆投下直後に原爆使用の意味を歴史的洞察力に富んだ論文で考察している。こうしたトーマスの考えや行動は、人道主義的であり、また、国際連合と国際法に立脚した世界秩序を支持するリベラルな国際主義を反映していた。彼の日本に対する見方は、彼の滞日経験に基づいた日本社会と文化に対する親近感と、典型的なウィルソン主義的使命感(日本を含めた全世界に米国が提唱する価値と規範を受容させていく考え)が並存していた。トーマスは、その突然の死の直前、40年ぶりに訪日しており、そのさい、靖国神社を参拝していた。
著者
佐藤 紘彰
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.71-89, 1993-04-30

In appealing to his lover or trying to "facilitate the study of the Japanese text, " Arthur Waley translated the 5-7-5-7-7-syllable tanka in five lines, often padding his translations in the manner of Robert Brower and Earl Miner. But in translating The Tale of Genji and Murasaki's Diary he incorporated most of the tanka into the prose, so that an inadvertant reader may never know that Genji contains nearly 800 tanka. Reading Waley's tanka translations incorporated into the prose text, one wonders if it may not be more natural to translate this verse form in one line. After all, unlike most English translators of tanka who believe with Waley that "the tanka is a poem of five lines, " most Japanese tanka writers, Tawara Machi of Sarada Kinenbi fame included, regard it as a "one-line poem." If one function of translation is to reproduce the original, shouldn't the attempt to do so include the line formation as well? Or if the breakup of the five syllabic units is to be stressed, why not go a step further and stress the syllabic count as well? What about the flow of the original? This paper looks at these questions by citing translations of Waley, Brower and Miner, Seidensticker, Bowring, Heinrich, Shinoda and Goldstein, Watson, LaFleur, Rodd and Hen-kenius, McCullough, and Carpenter against Sato's own monolinear translations.
著者
Thornton Martin
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-20, 1999-03-31

1946年3月5日、ウィンストン・チャーチル首相が行ったミズーリ州での演説は、その後の冷戦時代の幕開けを決定付けた重要な起点と理解されてきた。にもかかわらず、この演説のいくつかの側面や直接的影響について、歴史家がこれまで取り上げなかったものがある。歴史家が注目したかったテーマであるが、本稿では、当時の駐米カナダ大使、レスター・B・ピアソンに着目し、同大使がチャーチルのミズーリ演説に与えた影響について検討する。英連邦各地の新聞に見られるミズーリ演説に対する反応や、その反応に対するカナダの見解などは、チャーチルの演説の影響を分析する有益な手ががりとなる。ピアソン自身もチャーチルの演説に対する興味ある見解を展開している。
著者
高柳 俊一
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.123-147, 1996-03-31

1957年プリンストン大学出版局から刊行された『批評の解剖』(Anatomy of Criticism) は各国語に翻訳され, ノースロップ・フライの名前は一躍文学批評・理論の分野で広く知られるようになり, 英語圏の文学研究においてそれまでややもすると軽視されていたロマン主義文学の復権の契機になった。フライは以後文学ばかりでなく, あらゆる文化現象を神話論によって解明し, 注目されるようになった。しかし生涯, カナダ・トロント大学の英文学教授として学研生活を続けるとともに, カナダ文学・文化の独自性を説き続けた。彼の文学理論はダンテなどの西欧文学全般を包含するものであり, 『批評の解剖』は百科事典的知識に基づく壮大な体系である。そこには普遍的世界文学がまとめられ, 披露されているが, カナダという地域的な要素は一度も言及されていない。しかし彼は国内ではカナダ文学・文化のアイデンティティに気付かせてくれた偉大な思想家だとみなされている。本論文は彼の西欧文学についての文学理論がカナダ文学・文化についての彼の早くからの関心と意識から生まれてきたものであることを示そうとしたものである。彼はカナダ合同教会の牧師であり, 英国ロマン派詩人ウィリアム・ブレークの研究から出発した。彼の思想的形成の背後にあるのは, いわゆる非国教会 (Nonconformism, dissenters) と米国独立後にカナダに米国から移住した Loyalist 的伝統であり, 北米におけるカナダを米国と一方では同じ文化伝統をもちながら, 他方では米国独立を契機にして米国とは違ったものであるカナダ文化の意識である。フライはカナダ文化が一見ローカルで, 国内での地域性を内包しながら, 同時に20世紀のグローバルな時代にナショナリズムの弊害の洗礼を受けずに形成された文化であり, 世界に開かれたものというヴィジョンをいだき, それを西欧人文主義の立場から説き, 『批評の解剖』にはじまって文学理論を文化理論にまで発展させた。そう考えれば, 彼の関心の中にあった二つの極が一つのものであったことが理解されるのである。(『批評の解剖』他の翻訳は法政大学出版局から刊行されている。)
著者
バロック チャールズ・S
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.89-117, 1989-10-30

20世紀の中頃からアメリカ南部の政治状況は大きく変容してきた。変容の最たるものは, 共和党勢力の伸長と黒人の政治力の台頭である。黒人層の政治的影響力は, 南北戦争後の「再建の時代」に連邦政府のあとおしによって強まったが, その連邦政府は「リンカーンの政党」つまり共和党が支配力を持つものであった。その意味で歴史的にも南部黒人投票者と共和党との間には共生的関係が存在していた。しかし, その後の南部白人層のまき返しにより, 黒人の政治活動を規制するような立法措置が構じられるに至った。クークルックスクラン(KKK)の活動等の社会的制裁も黒人に対して加えられた。こうした南部の黒人差別に対して介入を始めたのが1950年代末からの連邦政府であった。1957年に始まる一連の公民権法を中心とした連邦法の制定や, 連邦最高裁判所の一連の判決はその例である。連邦政府の介入もあり, 第2次大戦後の黒人による政治活動や政府組織への参加は活発なものとなった。たとえば1980年代中頃には南部黒人の3分の2が政治に参加するべく投票者登録をおこなっており, これは南部白人と同率である。しかも, 1960年代のジョンソン政権(民主党)は公民権の実施を強力におしすすめたこともあって, 「黒人の味方としての民主党」というニューディール以来のイメージがさらに補強されることとなった。すなわち, 政治力をつけた黒人層は, 民主党を支持することになり, 黒人の支持のない民主党はあり得ないという状況となったのである。伝統的に反共和, つまり民主党支持を保持してきた南部社会では, この新たな民主党支持の黒人投票者の台頭は新しい政治上のファクターであった。そのなかで南部黒人は一種のキングメーカーとしての地位を確立することになった。黒人層というキングメーカーの出現によって, 南部の政治は大きく変容すると共に, 人種問題を政治問題として取りあげざるを得ない状況となったのである。ところが, 一方においては共和党が南部で大きく勢力を確立する基盤がととのいつつあった。まず黒人は歴史的に共和党と共生関係にあったうえに, 1950年代のドワイト・アイゼンハワー時代にはこの国民的英雄を支持するという動きを示していた。そのうえに, 白人側の事情が変化したのである。第1には伝統的南部とは関係のない白人層が新しい仕事口を求めたり老後をくらすために北部から移入した。これらの人々は, もとより共和党支持者が多く, 南部に移ったからとて支持政党を変更したわけではない。第2には南部白人社会の世代交替にともなって, 従来の共和党=リンカーンの政党といったこだわりが少なくなり, 表だって共和党を支持する者がふえた。第3には, 「南部のプライド」といったものがうすれた結果, 単に支持政党をくら替えする者が多くあらわれるようになった。このような新しい動きのなかで, 1970年代から80年代にかけて南部は大きく共和党支持の旗のもとに統一されつつあるように見える。近来の大統領選挙は一回の例外(カーター)を除いては, 南部は必ず共和党候補を支持しているし, 国会議員, 知事選挙の動きを見ても同様のことがいえるのである。
著者
ホーキンス リチャード・A
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.47-67, 1995-03-31

1930年代, アメリカ合衆国の大陸部分は史上最悪の経済恐慌を経験した。しかしながら, 本稿では合衆国の大陸外の領土のひとつであるハワイが, 大恐慌の最も深刻な影響を回避することに成功した事実を論じている。これは, この時期のハワイの失業率が合衆国本土のそれと比較して極めて低い水準に保たれていたことに象徴される。このハワイの成功はハワイ経済が二大農産物(砂糖とパイナップル)に過度に依存している事実を鑑みれば奇異な現象であるともいえる。ハワイ経済は, 合衆国本土のそれとは対照的に寡占企業による支配構造が特徴である。ハロルド・イッキーズ(ローズヴェルト政権内務長官)の言葉によれば, ハワイの経済は「『砂糖寡頭制』によって支配されていた」のである。この寡占体制は兼任重役制による企業の経営権確保を手段としてハワイを牛耳っていった。そしてこの支配権によって, ハワイ経済が大恐慌による悪影響から隔離される結果となったのである。失業率は, フィリピン移民労働者の非強制本国送還があり, その空白を「市民労働者」が埋め合わせたために高くなることがなかった。さらにこの時代, 新製品の缶入りパイナップルジュースの輸出が飛躍的に伸びたために経済全体が潤うこととなった。ニュー・ディール政策に関しても, ハワイはアメリカの他地域と比較して影響を受けなかったといえる。雇用機会創出計画は確かにハワイの労働者に利をもたらしたが, それはアメリカ本土における影響の大きさに較べれば死活的なものではなかった。しかしながら, 二つの政策は確かに重要な意味を持った。ジョーンズ=コスティガン法によってハワイのサトウキビの年次生産量が設定され, それによってハワイは本土の砂糖製造業社に較べて著しく低い生産上限が割り当てられた。この事実は, ハワイ全体の収入源がニュー・ディール政策によって制限されることのなかったパイナップル産業へと転換されたことの一因でもある。ハワイに大きな影響を与えたいまひとつの政策は, 「全国産業復興法(項目7A)」, 「全国労働者関係法」によるものであり, それによって労働条件, 最低賃金の改善が行われたのである。
著者
フランシス R. ダグラス
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.19-36, 1992-11-30

本論文は, 「フロンティア理論」の観点からカナダとアメリカの西部を「国境を越えた」比較をしようとする試みである。フレデリック・ジャクソン・ターナーの「フロンティア理論」を利用しつつ, アメリカ史のフロンティア理論の中に描かれる西部のイメージが, 定住期のカナダ・プレィリー西部での移民に対する宣伝や大衆文学に同様に現れているかどうかが検証される。まず, ターナーのフロンティア理論に見られるフロンティア精神の神話, 及びそれに内在する, アメリカ西部とそこへの早期の移住者の本質に関する仮説が紹介される。次に, 定住期(およそ1870年代から1914年まで)のカナダ政府, カナディアン・パシフィック鉄道会社, 不動産会社が打ち出した移民に対する宣伝の中に見られるカナダ西部のイメージを検証し, カナダ西部に同様のフロンティア。イメージが現れている度合いを見る。その結果, 同様のフロンティア・イメージがカナダ西部, アメリカ西部両方に相当程度存在していたことが証明されたが, 同時に顕著な例外も少なからず観察できた。このような差異は, アメリカ西部との比較においてカナダ西部が特異な性質を有していたことの反映であると考えられる。
著者
カセラ ドンナ
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.133-144, 1990-03-30

1945年8月6日人類史上はじめての原子力爆弾が広島に投下された日, 被爆者として生き残った人々は, その人生に大きな変化を余儀なくされた。1960年代に至るまで被爆による死者が出ているし, 社会的差別の原因となった後遺症に悩む人々も多い。あの日以来, 人々の肉体も精神も, そして国も脅え続けているとさえいえるのである。1988年12月に筆者の行なった被爆者の口述調査は, 被爆という事件と, それを生き抜いた人々にとって, 新しい重要な意味をもつものとなるはずである。話すことは経験を再現することであり, 当人にとっての残酷な体験を内包しつつも, 単なる個人としての思い出話を証言集として再構築することができた。特に被爆のような劇的体験は個人の経験にとどまらず, 一つの文化全体の経験の記録となる。調査の結果, 個々人の人生とそれをとりまく文化の相方にとって原爆投下は一つのきっかけとなった。つまり以前のありかたは終焉をむかえ, 別の新しいもののはじまりがあったことが明らかとなった。その経験は被爆者たちに新しい価値や認識の方法, 記憶といったそれまでと異なった人生へのアプローチを与えたのである。彼らのうちには, その悲惨をきわめる経験ゆえに, 自分たちが平和の使者となりうるという自覚や真実を伝えていかねばならないという責任感とが共存している。これは, 20人におよぶ被爆者や被爆二世の証言にもとづいた「新たな人生の始まり」の記録である。
著者
塩崎 弘明
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.23-46, 1991-12-20

Coughlinism and McCarthyism have been called demagogic-social phenomena in the depressed and hysterical times of confrontation. Two demagogues, Coughlin and McCarthy, have been studied mainly as political or social subjects. This paper aims to throw a new light upon the Catholic aspects of Coghlinism and McCarthyism that have not been referred to very much in studies about them. First, the activities of Coughlinites and McCarithyites have to be considered in the context of an American Catholicism that was innocent at that time of real socio-politics and amalgamated mostly with conservative and patriotic Americanism. Secondly, the popularity of Coughlinism and McCarthyism, especially among Irish and German American-Catholics, should be understood in the light of Marian Piety, which propagated not only Marian Cults, but also anti-Communism. Thirdly, the spread of Coughlinism and McCarthyism could not be explained without the traditional Populism or Progressivism that has been dominant in Midwest Catholic circles. Finally, future studies concerning these topics should aim at re-examining the attitudes of American bishops or Catholic reformists towards Coughlinism and McCarthyism with the help of recent American Theology.
著者
フォルテン コンラッド
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-68, 1989-03-20

多くの人々はカナダ人を完全に二言語主義の国と考えているが, 1981年の前回の国勢調査では, 実際にフランス語と英語を話せるのは370万人のカナダ人で, これは人口の13%にしか相当しない。1971年の国勢調査時からは2%の増加しかみられない。だが歴史的にみると, 二言語政策はニューフランスが英国の植民地となった1763年に始まる。つまり英国による征服以前は, ニューフランスの全住民がフランス人であり, 公共機関も完全にフランス式のものであった。フランス人は自分たちの言語を守るために長年イギリス人との政治闘争にかかわったが, 1867年にようやく英領北米法により英語とフランス語の併用が認められ, 1982年憲法の「自由と権利の章典」につながるのである。当初, カナダのフランス語はフランスで使用されている言語のまねであったが, 次第に独自の言語に発展して特有の発音と語いをもつほどになった。また英語は, 元来, 1776年のアメリカ革命への参加を嫌ったロイヤリスト(王党派)がカナダにもたらしたイギリス英語とアメリカ英語の混合英語である。労働力, 公務執行, 言語教授法, 英仏両系の少数民族教育などの分野で二言語の使用能力上の問題があり, 今日のカナダ人の大半が支持している二言語政策の発展を遅らせている。