著者
バトオチル バルジンニャム Bat-Ochir BALJINNYAM
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(1)182-(15)168, 2022-03-31

本稿は、モンゴル国ウブルハンガイ県ハラホリン郡で行った聞き取り調査をもとに社会主義期モンゴルにおいてノルマを達成するため、牧民同士で相互的に行われていた「家畜泥棒」を互奪性という概念を用いてその実態を明らかにすることを目的とする。「家畜泥棒」とは、文字通り、他者の家畜を盗み、それを自分のものとして所有をすることである。しかし、遊牧民同士での相互的に取り合うという不思議な現象が存在する。モンゴル高原では社会的な役割を持つ「家畜泥棒」が記録されているのは、筆者の知る限り、清朝支配の末期の頃である。この時期、富裕な王侯貴族と漢族の商人に借金を負う遊牧民との間に貧富の格差が広がってきた。そんな中、貴族や金持ちの家畜を盗み、もっと貧しい人々に分配する「シリーン・サイン・エル(平原の良き男)」という義賊たちが生まれたのである。モンゴルにおいて特徴的なのは、比較的平等社会であった社会主義期においても「義賊」が存在したという点である。本稿では、牧畜共同組合の成員たちが家畜の生産頭数のノルマを達成できなかったとき、「サイン・エル(良き男)」と呼ばれる義賊に家畜を盗んできてもらうよう依頼していたことを報告すると同時にその「意義」について考察するものとする。当時のモンゴル人民共和国の計画経済政策により牧畜協同組合(ネグデル)や国営農場(サンギーン・アジ・アホイ)に設定された計画「ノルマ」を達成するため、地方の人々は必死に働くことになった。しかし、その一方で家畜は「生きた財産/生産手段」であるので、季節によってはガン(干害)やゾド(寒害)が起こると家畜が大量死する。そんなときネグデルの家畜を放牧する牧民たちは、何とかしてノルマを達成させるために「家畜泥棒」に他の地域から盗むことを依頼するわけである。こうした社会主義時代の家畜泥棒は、「サイン・エル(良い男)」と呼ばれた。つまり、モンゴル人民共和国では「盗まれた家畜(馬)が操作可能な資源としてインフォーマルな社会関係の源泉のひとつとなっていた」ということである。そして、こうした家畜を盗む人が、人々からサイン・エル、すなわち「良い男」として肯定的に評価されてきたことから判断するに、非公式な形ではあるが、モンゴルの地方の牧民が「家畜泥棒」互奪性によって、ノルマ達成の重圧から救われてきたということである。This article discuss about livestock theft from a viewpoint of the exchange concept in social and cultural anthropology. Research work was conducted based on materials obtained from fieldwork in Kharkhorin Soum, Övörkhangai Province in central Mongolia. One of the purpose of this research is to explore whether livestock theft in the name of the exchange concept existed in Mongolian nomadic pastoral culture for an extended period as a cultural practice or it has taken place as a social phenomenon. Livestock theft is now considered to be a social issue that is usually dealt with through law enforcement. However, in this study, I would like to describe it as a normal social occurrence based on traditional nomadic culture.Now a problem for herders, livestock theft was previously an exchange phenomenon in nature. It has been proved by the facts and fieldwork analysis of the livestock theft process and the theory of exchange.Caroline Humphrey and David Sneath mentioned that “The surplus that is not recovered for reproduction in the mandatory delivery plan (quota) was called “manipulable resources”. By the time there is no “market” in socialist society, such a system of exchanging surplus goods was expressed as the number of inventories, not money. The surplus was a good that could be used as a tool for political negotiations. Humphrey argues that these “manipulable resources” were the source of informal social relations under the socialist regime”. It is undeniable that such transactions may have existed in the pastoral cooperative (Negdel), which corresponds to the Kolkhoz in Mongolia, and the state-owned farm (Sangiin Aj Akhui), which corresponds to the Sovkhoz. On the other hand, what kind of measures were taken when the pastoralists who made up the general Negdel who were not executives could not achieve the quota? Perhaps it was the existence of a thief called “Sain er” who responded to that.From the information obtained in this study, it can be said that in the Mongolian People’s Republic, livestock theft and exchange (of horses) were sources of informal social relations built through manipulable resources. Judging from the fact that those who stole livestock in the context, from a community at the request of another community, were positively evaluated by local people as “Sain er,” that is, a “good man,” in the Mongolian rural pastoral communities, it can be said that theft with “reciprocity” shows that the local people were saved, informally though, from the pressure of achieving quotas.Livestock theft involves many kinds of social and cultural contexts, and therefore, it was allowed as a necessary factor in nomadic pastoralism in the daily process of nomadic people, but under modern laws, it is recognized as “theft” by people today.
著者
鈴木 堅弘 Kenkou SUZUKI スズキ ケンコウ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.19-54, 2011-03-31

これまで春画といえば、性表現を扱った絵画として研究対象から除外されてきた。ところが近年、こうした傾向はしだいに改善され、春画に関する研究書が数多く出版されるようになり、春画の公開データベースが大学や研究所で作成されている。 こうした春画研究の進展を受けて、今回、国際日本文化研究センターに所蔵されている春画・艶本コレクションの三五〇〇画図を分析対象とし、江戸春画に描かれた図像表現を数量として把握することを目的とした。その方法として、一枚の春画から「性描写の有無」、「性交者の性別」、「性交者の立場(男性)」、「性交者の年齢(男性)」、「性交者の立場(女性)」、「性交者の年齢(女性)」、「第三者の有無」、「第三者の立場」、「第三者の年齢」、「第三者の行為」、「場所」、「場所の種類」、「場所の開放性の有無」の図像情報をカテゴリー別に抜き出し、その数量を数えることで、春画に描かれた人物(立場)、性別、場所などの割合を算出する。そのことで、江戸春画に描かれた図像表現の全貌を明らかにする。 また春画は性表現を多分に含んでいるがゆえに誤解も多く、ポルノグラフィと同意義に扱われたり、男色画や手淫画などが多く描かれていると考えられてきた。そこで本考察では、江戸春画の特色を正確に把握することで、こうした誤解をひとつひとつ解いていき、これまでの春画認識に新たな見解を示す。 なお本論では、春画の図像を分析する際に、同時代の風俗画や随筆類を積極的に参照した。江戸春画には当時の生活風景がありのままに描かれており、春画表現を通じて江戸時代の色恋の風俗を読み解くことも試みている。Heretofore, Shunga has been marginalized and excluded from academic research in favor of nature paintings. Recently, however, numerous book of research on Shunga have been published, and databases of Shunga have been established in universities and research institutes.This paper analyzes 3500 picture figures of the Shunga collections that are kept by the International Research Center for Japanese Studies and utilizes quantity analysis to examine the picture figures expressed in Shunga.Shunga is an often misunderstood form of artistic expression. For instance, there is a common misunderstanding that Shunga is the same as pornography and often depicts homosexual acts. This paper attempts to correct such misunderstandings by illuminating the characteristics of Edo Shunga.As the daily lives of ordinary people were often depicted in the Shunga of the Edo period, this paper also discusses the culture and customs in the Edo period by analyzing the Shunga of the era.
著者
植田 めぐ美 Megumi UEDA ウエダ メグミ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.65-86, 2019-03-31

本稿では、16世紀ブラジルにおいて、イエズス会が行ったトゥピ語による宣教活動と先住民のシャーマンが先導した抵抗運動を取り上げ、両者を比較することで、シャーマンがどのようにキリスト教を解釈していたのかを再構成することを目的とする。ブラジルにおける宣教活動は1549年にイエズス会によって開始された。初期の活動はトゥピ語系諸語を話す先住民が暮らしていた沿岸地域で行われた。自文化とは全く異なる文化に属する人びとへの宣教は困難であり、宣教師は直面した現実に応じて新しい宣教方法を模索してゆかなくてはならなかった。困難のひとつはキリスト教の教義をトゥピ語へ翻訳する作業であった。この言語にはキリスト教的要素を表す語が欠如しており、その解決策として、宣教師は先住民の文化的要素を転用した。例えば、キリスト教の唯一神には雷を象徴する神話的英雄を指すトゥパンという語が転用された。ポルトガル人が砂糖産業を発展させてゆくと、強制労働や伝染病が先住民を苦しめた。さらに、宣教師によって先住民の文化や慣習は否定された。このような現実から解放されるため、先住民はシャーマンが先導する抵抗運動に加わるようになった。この運動はポルトガル人に「聖性」と呼ばれた。「聖性」運動に見られる特異性は、シャーマンが「教皇」や「神の母」といったキリスト教の人物を自称するなど、キリスト教を排除することが目的であるにもかかわらず、運動の基盤となっているシャーマニズムの儀式にキリスト教の要素が転用されていることである。宣教師は、「聖」の概念を表すため、シャーマニズムの能力を意味する「カライーバ」という語を用いたが、トゥピ語に翻訳されたキリスト教において、「カライーバ」はキリスト教的領域を指す「真の聖」もシャーマニズム的領域を指す「偽りの聖」も意味する語として使用された。その結果、トゥピ語のキリスト教からは完全にシャーマニズムが排除されずに、先住民がシャーマニズムに沿ってキリスト教を再解釈する可能性を与えてしまった。ゆえに、シャーマンは「教皇」や「神の母」から宣教師に打ち勝つことのできるシャーマニズムの力を見出し、これらを「聖性」運動に取り入れたと考えられるのである。
著者
片岡 龍峰 山本 和明 藤原 康徳 塩見 こずえ 國分 亙彦 Ryuho KATAOKA Kazuaki YAMAMOTO Yasunori FUJIWARA Kozue SHIOMI Nobuo KOKUBUN
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.17-29, 2020-03

日本最古の天文現象の記録は、『日本書紀』巻二十二、推古二十八年十二月一日(西暦六二〇年十二月三十日)の條に記される「十二月庚寅朔、天有赤気。長一丈餘。形似雉尾」という一節である。「赤気」は、彗星の類と理解され、日本古典文学や歴史学などの研究では悪い兆候を示すもの、といった理解がなされてきた。その一方、地球物理学においては、オーロラと理解され、オーロラの最も早い事例としてこの『日本書紀』が位置づけられてきた経緯がある。今回の考察では、「赤気」だけではなく、文中の「雉尾」という言葉にも着目し、『日本書紀』諸本での記述を踏まえたうえで、扇形をした赤いオーロラが日本などの中緯度で観察されやすく、真夜中より前に見られ、かつ雉の尾に似た形状をし、「長一丈」に該当する角距離十度相当で見えるという最も構造が際立った形態であるということを、雉の生態など、鳥類学の研究も踏まえて明らかにした。文献学的な考察に加え、雉の生態や尾羽の特徴を理解する鳥類学、彗星に関する古天文学の知識も合わせて新たな考察を加えたことによって、『日本書紀』の編纂に当たった人々の記述に対する責任感や知性、私たち日本人のルーツとなった倭の人々の観察眼や感性を伺い知るうえで一定の視点を与えることに寄与しうるものである。The oldest record of an astronomical phenomenon in Japan was recorded in the Nihon-shoki as follows: "On December 30 in 620, a red sign appeared in heaven. The length was more than 1 jo (10 degrees). The shape was similar to a pheasant tail (Suiko-Tennou, 28)". The appearance of a red sign has been recognized as an expression of a bad omen in literature, while it has been interpreted as the northern lights in geophysics. First we examine the description of the pheasant tail in detail. We then introduce the latest scientific findings that the northern lights show a fan-shaped appearance with a red background when appearing over Japan. After showing that the fan-shape is similar to a pheasant tail, also pointing out the low possibility of comets, we conclude that the oldest record of the red sign is consistent with the appearance of the northern lights over Japan. We hope that this examination contributes to increasing awareness of the sensitivity of Japanese people 1400-years-ago who compared a beautiful behavior of birds with a magnificent and rare natural phenomenon.
著者
宋 丹丹 Dandan SONG
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.214(47)-198(63), 2023-03-31

本稿は、安産以外の堕胎、間引き、避妊などの産育習俗において、用いられる石の特徴、石の働き、石の呪術性などについて考察し、石に託された民俗の心意を明らかにすることを目的とする。 これまでの民俗学の研究では、子授けや安産などを願う石の習俗について早くから報告がなされ、研究が蓄積されてきた。一方、避妊、堕胎などの「出生コントロール」や間引きに関する石の習俗については、研究がほとんどなされてこなかった。そこで本稿では、民俗学に限らず、近世史における堕胎、間引きなどの研究を参照し、筆者がこれまで研究を進めてきた石や岩石信仰との関わりから、石を用いた避妊、堕胎、間引きなどの習俗について検討していく。 分析の対象とするのは、『日本産育習俗資料集成』、『岡山縣下妊娠出産育兒に關する民俗資料』、『愛知縣下妊娠出産育兒に關する民俗資料』などの資料である。堕胎、間引きと避妊の実施方法や特徴、また石を用いたかどうかなどを分析の指標とした。結果は、以下に示す通りである。 まず石を用いた堕胎と間引きの習俗は、石の呪術性よりも、モノとしての石の重量、堅固という石の物理的な性質を利用していたことがわかった。堕胎の具体的な方法として、石を用いたものはわずかであるが、たとえば石を抱いて高いところから飛び降りる、漬け物石を持って動き廻る、などが挙げられる。間引きの習俗の場合も、石の物理的な性質を利用し、とくに神聖視される場合もある石臼を用いて嬰児を殺す方法などが見られた。 また、妊娠を避ける習俗では、石の持つ霊性または神性を基に、投げるまたは腰掛けるという行為を加えて祈願していたことが明らかとなった。その際、人に見られないように、また、後ろ向きになる、といった日常的な祈願の行為とは意識的に逆の行為を行って避妊の達成を願っていたことがわかった。 堕胎や避妊などの「産まない」こと、「妊娠しない」こと、また間引きという嬰児殺しのなかで、石を用いて子殺しをしたり、石ではないがホオズキの茎を性器に入れるなど、危険な方法で堕胎せざるを得なかった当時の女性たちの性や生が『日本産育習俗資料集成』という断片的な資料の中からも浮かび上がってくる。つまり、石を用いた/石を用いない「出生コントロール」を行う女性たちの切実な願いと現実、そして産まない、産めない女性を石を用いて「石女(うまずめ)」と表現した当時の人々の眼差しも、石に注目することで、明らかにすることができたと言える。The purpose of this paper is to examine the characteristics of the stones used in childbearing practices for purposes other than safe childbirth, such as abortion, infanticide, and contraception and the functions and magical properties of stones and to clarify folk beliefs entrusted to stones.There are earlier reports of folklore studies on the custom of using stones to pray for fertility and easy childbirth, and studies on the subject have been accumulated. On the other hand, research has not been conducted extensively on stone-based customs related to birth control, such as contraception, abortion, and infanticide.The author conducted studies on abortion and infanticide not only in folklore but also in early modern history and examined stone-based birth control, abortion, and infanticide customs in relation to stone and rock beliefs, which the author has been researching.Based on the materials such as Nihon saniku shūzoku shiryō shūsei, Okayama kenka ninsin shusan ikuji siryo, and Aichi kenka ninsin shusan ikuji siryo, the methods and characteristics of abortion, infanticide, and contraception, as well as whether or not stones were used, were used as indices in the analysis. The conclusions are as follows.First, it is clear that abortion and infanticide practices using stones were based more on the physical properties of stones as a tool, i.e., the weight and solidity, than on the magical properties of stones. Only a few specific methods of abortion involve use of stones. For example, jumping down from a high place holding a stone, or moving around while holding a stone. In the case of the custom of infanticide, the physical properties of stones were used to kill infants, especially by using a stone mortar, which is sometimes considered sacred.In the custom of avoiding pregnancy, it was found that people prayed by throwing or sitting on stones based on their spiritual or divine properties. In doing so, it was found that they consciously performed the opposite act of daily prayer, such as turning backward or hiding not to be seen, in order to achieve the goal of contraception.Abortion, contraception, and other forms of infanticide to prevent birth, such as using stones to kill the child or inserting a hozuki stalk (a branch) into the genitals, as described in Nihon saniku shūzoku shiryō shūsei, reveal the sexual practices and lives of women who were forced to use dangerous methods to perform abortions.The author clarifies the compelling desires and realities of the women who performed birth control using or without stones, as well as the viewpoints of the people of the time who referred to stones to describe women who did not or could not give birth, calling them stone women (umazume).
著者
岡本 貴久子 Kikuko OKAMOTO オカモト キクコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.9, 2013-03-28

本研究では近代日本において実施された「記念」に樹を植えるという行為、即ち「記念植樹」に関する文化史の一つとして、明治12(1879)年に国賓として来日した米国第18代大統領U.S.グラント、通称グラント将軍による三ヶ所(長崎公園・芝公園・上野公園)の記念植樹式に焦点をあて、それが行われた公園という空間の歴史的変遷を分析することによって、何故そうした儀式的行為が営まれたかという意図とその根底に備わっていると見られる自然観を考察した。 なぜ記念植樹か。実は近代化が推進される当時の日本において記念碑や記念像が相次いで設置されていく傍らで、今日、公私を問わずあらゆる場面において一般的となった記念樹を植えるという行為もまた同様に、時の政府や当時を代表する林学者らによって国家事業の一環として推進されていたという事実があり、加えてこうした儀式的行為を広く一般に浸透させる為に逐一ニュースとして記事にしていた報道機関の存在から、記念に植樹するという行為もまた日本の近代化の一牽引役として働いていたのではないかと推測され得るからである。 本文では1872年のグラント政権が開国後間もない新政府の近代化政策に与えた諸影響を中心に論じたが、例えばこのグラント政権下において米国で初めて国立公園が設定され、Arbor Dayという樹栽日が創設され、且つ同政権下の農政家ホーレス・ケプロンが開拓使顧問として来日、増上寺の開拓使出張所を基点に北海道開拓を指揮するなど、グラント政権下における殊に「自然」に関わる政策で新政府が手本としたと見られる事柄は少なくない。こうした近代化の指導者ともいうべきグラント将軍による記念植樹式は、いずれも明治6(1873)年の太政官布告によって「公園」という新たな空間に指定された社寺境内において営まれ、米国を代表する巨樹「ジャイアント・セコイア」等が植えられたのだが、新政府にとってそれは単に将軍の訪日記念という意味のみならず、「旧習を打破し知識を世界に求める」という西欧化政策を着実に根付かせる意図を持ってなされた儀式的行為であったと考えられる。しかしながら同時にこの儀式的行為は、「樹木崇拝」という新政府が棄てたはずの原始的な自然崇拝が根底に備わるものであり、新旧の自然思想が混淆している点を見逃してはならない。 従って明治初期の記念植樹という行為は、新旧あるいは西洋と東洋の思想とかたちと融和させるために行われた一種の儀式的行為であり、明治の指導者たちはこのような自然観を応用しながら近代化促進につとめたといえるのではないだろうか。Planting memorial trees is today a common practice. The act of planting such trees indeed contributed to the promotion of Japanese policies of modernization in the Meiji era, no less than erecting monuments or memorial statues. Two facts support this hypothesis. First, there are texts encouraging the planting of memorial trees, some written by Honda Seiroku, professor of the Imperial University of Tokyo, who laid the groundwork for modern forestry, and others issued by such government offices such as the Ministry of Agriculture, Commerce and Forestry. Second, the media came to recognize the news value of memorial planting and reported on it. Under these circumstances, memorial trees were planted widely as rites of national significance in modern Japan. The event that I examine here is the ceremony commemorating General Ulysses S. Grant’s visit to Japan as a state guest in 1879. Materials indicate that General Grant planted memorial trees at three different parks, all of which were former landholdings of Buddhist temples and Shinto shrines, transformed now into modern Japan’s first public parks by decree in 1873. An analysis of the characteristics and historical changes of these park spaces and the types of memorial trees chosen for planting suggests that the intention was to reflect the policy of Westernization in Japan, with its emphasis on breaking with the past and obtaining new knowledge. At the same time, the root of these ritual practices can be seen in the worship of trees which the government otherwise rejected. There is evidence here that an admixture of old and new ideas regarding nature was one source powering this particular aspect of the promotion of modernization in Japan.
著者
川上 香 Kaori KAWAKAMI
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.96(165)-63(198), 2023-03-31

高度経済成長期以前の日本では、多くの山村で、自給を目的とした作物栽培が行われていた。また、焼畑に付随した茶などの換金作物栽培も行われ、人びとは暮らしを維持していた。昭和30年代に焼畑は衰退するが、現在までの山村の耕作地や作物の変化は、具体的に明らかになっていない。本研究では、静岡市井川地域の山村を対象に、個人の事例を通して耕作地の茶畑への転換と、耕作地の変化に伴う作物への影響について論じた。それらは次のようにまとめられる。1 耕作地は、焼畑や常畑、採草地の複合的利用から、高度経済成長期には、茶畑への転換と拡大がおこった。昭和60年頃からは、高齢化により茶畑は縮小化した。2 耕作地の変化に伴い、ヒエやオオムギなどの穀類の自給や、焼畑休閑後に自生した在来茶の利用は、昭和30年代から40年代にかけて終焉を迎えた。3 自給的作物栽培は、昭和30年代から続く常畑と茶畑の一部で現在も持続している。Before rapid economic growth occurred in Japan, crops were cultivated in many mountain villages for subsistence purposes. Cash crops such as tea were also cultivated in conjunction with slash-and-burn farming to sustain people’s livelihoods. Although slash-and-burn farming declined in the 1950s, the specific changes that took place in cultivated land and crops in mountain villages up to the present day have not been clarified. This study discusses the conversion of cultivated land to tea plantations and the impact of changes in cultivated land on crops through an examination of individual cases in mountain villages in the Ikawa area of Shizuoka City. A summary of the study is as follows: 1. Cultivated lands were converted to tea plantations from a combination of burnt fields, common fields, and grassland and expanded during the period of rapid economic growth. Starting at about 1985, tea plantations shrank in size due to the aging of the population.2. With the change in cultivated land, subsistence cultivation of grains, such as Japanese millet and barley, and the use of native tea that grew naturally after the slash-and-burn fallow period came to an end from the mid-1950s to the mid-1966s.3. Subsistence crop cultivation continues to this day in some continuous cultivation fields and tea plantations that have been in existence since the mid-1950s.
著者
新海 拓郎 SHINKAI Takuro
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(65)118-(79)104, 2022-03-31

これまで民俗学において養殖業は漁撈に比べて扱われる機会が少なかった。そこで、本稿は内水面養殖の一例として、奈良県大和郡山市で行われる金魚養殖を対象とした。明治期から現在に至るまでの金魚の養殖業の中で変化してきた技法について明らかにする。大和郡山は全国有数の金魚の産地で、ため池を利用したワキン(和金)の大量生産が中心となっている。そこで、本研究では、文献資料と古老からの聞き取りから得られた情報をもとに双方の比較を行い、技法の変化の内容と要因を明らかにした。本稿では、産卵藻、初期餌料の確保、金魚の養成、運搬方法に着目した。まず、産卵藻についてはその原料である柳の根が高度経済成長期の河川改修の増加によって入手が困難になった。そして、周辺山地に自生するヒカゲノカズラというシダ植物へと代替していった。初期餌料の確保にはかつては赤子すくい(ミジンコ捕り)という方法が用いられていた。また、金魚の養成では「ヨリコ」(選り子)さんと呼ばれる女性たちによる選別作業は現在見られなくなってしまった。運搬方法は重ね桶から酸素詰めのビニール袋へと変化してきた。これらの変化の大きな外的要因は3点挙げられる。まず、大和郡山の都市化による環境の変化は柳の根からヒカゲノカズラへと産卵藻の原料の変化をもたらした。次に、近代化による技術の発達は運搬方法を変化させた。そして、生産品種の転換によるコスト削減(人件費削減)によって赤子すくいやヨリコさんの選別作業は見られなくなった。このように、様々な要因によって大和郡山の金魚養殖に関する技法は変化してきたといえよう。Studies on aquaculture have not been conducted frequently in the field of folklore in comparison to fishing. This paper reports on the transition of aquaculture techniques from the Meiji era to the present, focusing on goldfish aquaculture in Yamato-Koriyama City, Nara Prefecture, one of the leading goldfish farming areas of Japan. In Yamato-Koriyama, the business is mainly mass production of a goldfish breed called wakin using irrigation ponds. This study compares the differences between past and current techniques based on written materials and information obtained from interviews with local elders and clarifies the details of technical changes and their causes.This paper focuses on spawning grass, the procurance of initial feed, goldfish raising, and transportation methods. First, increased river improvement during the period of high economic growth made it difficult to collect willow root, which is the material used for spawning grass. Willow root was replaced by a fern plant called Hikagenokazura, which grows naturally in the surrounding mountains. Next, the initial feed for goldfish was provided by capturing Daphnia pulex, which lives in irrigation ponds, using a scooping method called Akako-sukui. In recent years, sorting work by women called Yoriko is no longer available in local goldfish farming. Finally, the transportation method has changed from using stacking tubs called kasane-oke to water and oxygen-filled plastic bags.There are three major external factors relating to these changes. The first factor is the urbanization of Yamato-Koriyama, which caused environmental changes resulting in the replacement of the material used for spawning grass from willow root to Hikagenokazura. The second factor is modernization, which facilitated the development of technology and transformed the means of goldfish transportation. The third factor is cost reduction due to changes in farmed goldfish varieties, which caused Akako-sukui and sorting work to disappear. In this way, this study has discovered that the techniques used in goldfish farming in Yamato-Koriyama have changed over time due to various factors.
著者
南 直子 Naoko MINAMI ミナミ ナオコ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.257-264, 2017-03

本稿は、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations, 略称IPR)の調査・研究機関としての側面に注目し、アメリカにおける日本研究の発展に果たした役割について考察するものである。IPRは、1925年にハワイで設立され、1961年までその活動を続けた民間の学術団体である。「太平洋諸國民ノ相互關係改善ノ為メ其事情ヲ研究スルコト」を目的として発足、アメリカに本部を、日本を含む各国に支部を置き、2~3年に一度、「太平洋会議」とよばれる会議を開催したほか、定期的に太平洋地域の調査・研究をおこなっていた。1995年に出版された資料によれば、IPRの出版物は、機関誌を含め約1,600冊に上る。そのような出版規模をもつ団体であるにもかかわらず、アメリカのマッカーシズムによって解散を余儀なくされたため、研究が避けられていた時代もあった。1990年代以降、研究が進んできたものの、太平洋会議を中心に、国際関係論や外交史の視点からその活動を論じた先行研究がほとんどである。しかしながら、IPRでは会議と同様、太平洋地域の調査・研究にも力を入れていた。アメリカで広く「日本研究」がおこなわれるようになった直接の契機となったのが、太平洋戦争であり、戦後、地域研究の一側面として発展してきたことは知られている。そのような日本研究がまだ盛んでなかった1920年代から、IPRはすでに日本をその研究対象としていた。1930年前後には、2度にわたり、日本研究をアメリカで拡大させるための調査をおこない、具体的なプログラムも実施していた。戦後、外国人による日本論として広く読まれた、E・ハーバート・ノーマン『日本における近代国家の成立』や、ジョージ・B・サンソム『西欧世界と日本』の成立にも、IPRが関係している。IPRは、①学術的日本研究をおこなった先駆的な機関であり、②全米の大学・機関における日本研究の動向を、初めて調査した機関でもあった。民間団体として調査・研究をおこなうというIPRの当初の目的は、時代とともに変化せざるを得なかった。だが、様々な日本関係書をのこしたその活動は、アメリカの日本研究において、先駆的な存在であったといえるだろう。The Institute of Pacific Relations (IPR) was founded as a non-governmental academic organization in Honolulu in 1925. Attempting to improve relations among the countries in the Pacific Rim, it held international conferences every two or three years. It published numerous reports concerning diverse issues such as immigration, religion, and politics. In 1961, the institute was forced into dissolution under the strong influence of McCarthyism, and little attention was paid to it thereafter.In 1993, the first international conference was held to reexamine and reevaluate the IPR. Consequently, many scholars became interested and involved, and began investigating issues related to the IPR. The majority of them, however, tended to focus mainly on the IPR conferences restricting the significance apportioned to the IPR to the fields of foreign policy and international relations.This paper contends that the IPR had another key area of significance as well, arguing that even in the 1920s, the IPR played an indispensable role as a research institute. At the time, Japanese Studies was not a popular field of study in North America, and this state of affairs lasted until the outbreak of the Pacific War when, in order to understand their enemy nation, the US government began encouraging study of the subject. Prior to the war, the IPR had already published many books on Japan, and these amounted to 130 by the end of the war. Naturally, much of the research already conducted by the IPR was utilized when the US-led GHQ occupied a defeated Japan.It should be noted, however, that the IPR was already engaged in promoting Japanese Studies well before the war, and thus contributing to the development of the discipline. For example, the organization was already conducting research on Japan at various universities, colleges, and other institutions in the late 1920s. Scholars of Japanese Studies such as E. H. Norman and G. B. Sansom were involved in this research, and it is worth remembering that influential books of theirs, such as Norman's Japan's Emergence as a Modern State and Sansom's The Western World and Japan, were first published by the IPR. This paper outlines the wide activities conducted by the IPR in the fields of publication and academic engagement as well as conferences.
著者
内田 修一 Shuichi UCHIDA
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.118(143)-97(164), 2023-03-31

本論考は、マリの首都バマコでソンガイ移民たちが継続してきた精霊憑依の実践を対象に、主に植民地期に出現した精霊ハウカに関する事例をとりあげ、この精霊に関する彼らの認識と彼らにとって重要な実践のコンテクストを明らかにすることをとおして、実践者の視点を重視した視座の構築を試みるための試論である。 既存の研究では、植民地体制を構成していた地位や役職から着想された「ハウカ」と呼ばれる「白人」の精霊のグループは、その信奉者たちが当時の政治体制から敵対的とみなされたという歴史的コンテクストとの関連で解釈されてきた。しかしこうした解釈にはバマコの実践者たちの認識には合致しない等の問題がある。実践者の視点を重視した視座の構築の試みとして、本論ではシステムの視点を重視するネオ・サイバネティクス論の基本的な考え方を参照して、実践者たちの経験や認識に応じて有意なものとなる精霊憑依の実践は、それをつうじて彼らが自身の認知世界を構成し続ける再帰的で自律的な過程としてとらえうると想定し、この観点から彼らにとってハウカがどのような精霊であり、重要な実践のコンテクストはいかなるものかを考察した。 ソンガイの世界観と事例の分析によって、彼らの世界観に独特な仕方で統合されているハウカは植民地体制下での出現という歴史的状況とは全く関連づけられていないこと、並びに、人とハウカの相互行為においては、実践者各自の精霊と霊媒との相互行為の独自の経験、及び人(ソンガイ)と精霊の間での社会関係とそれに付随する道徳性の類似を特徴とするソンガイの世界観に関するコンテクストがいかに重要であるかが明らかになった。これらのコンテクストは、実践者各自の実践の一貫性の確保とアクター(人と精霊)の間の様々な紐帯の形成に関与しているために、出身地、居住地区、精霊憑依の知識や経験に関して様々なソンガイ移民たちが実践を共にする都市環境において、いっそうの重要性を有していると考えられる。 かくして本論は、新しく出現した精霊に関して既存の研究が政治的状況などのマクロなコンテクストを重視して実践者の視点を軽視する傾向があったのに対して、実践者たちにとって有意なコンテクスを明らかにし、これらコンテクストが都市環境において有している意義を解釈した。それによって本論は、観察者の視点と実践者の視点に応じて異なるコンテクストを明確に区別し、実践主体にとっての意味と相関した主観的なものとしてコンテクストをとらえることで、より実践者の視点に即して精霊憑依の実践を理解する可能性を示すことができた。This essay addresses spirit possession practices that have been continuously conducted by Songhay immigrants in the capital city of Mali focusing on the Hauka spirits that appeared during the colonial period. The purpose of this study is to clarify the Songhay immigrants’ recognition of these spirits and the contexts which are important to them when practicing spirit possession, to construct a theoretical perspective taking into consideration the viewpoints of spirit possession practitioners.The group of spirits called “Hauka” by Songhay people, which mimic roles and positions in the French colonial system and which are considered as “white”, has been interpreted in prior studies in relation to the historical context in which followers of the spirits were viewed to be hostile to the political system at that time. However, such interpretations, which place considerable importance on the historical context, do not match practitioners’ conceptions about these spirits in Bamako. In order to establish a theoretical position that may help explore the practitioners’ viewpoints, this paper, referring to basic concepts of the neo-cybernetics, assumes that the spirit possession practices become significant in accordance with the practitioners’ experiences and cognition. From this standpoint, these parctices should be considered as a recursive and autonomous process through which practitioners recreate their own cognitive world.An analysis of Songhay’s worldview and case studies show that Hauka spirits are integrated into practitioners’ worldview in a particular way and are not at all related to the historical context. The analysis and case studies also demonstrate the significance of the following contexts in interactions with Hauka spirits: those relating to the practitioners’ own experiences and those relating to the Songhay worldview characterized by the fact that humans (the Songhay people) and spirits have similar social relations and morality. These contexts are all the more significant in an urban environment, where Songhay immigrants who engage in spirit possession practices are diverse in terms of their native place, residential area, and knowledge and experiences of these practices, since the contexts support the consistence of interactions of each practitioner with mediums and spirits, and the creation of ties between the actors (humans and spirits).This paper, thus, clarifies the contexts that are significant to practitioners and expresses interpretations of their importance in the urban settings, while prior academic literature has attached importance to macro-contexts, such as political situations, and has under-evaluated the practitioners’ viewpoint regarding the new spirits. Therefore, by making a clear distinction between the perspective of the observer and that of the practitioner and considering the context as subjective and correlative in relation to the significance for practitioners, the paper presents the possibility of approaching the practices of spirit possession in a way more matching the viewpoint of the practitioners.
著者
クレインス 桂子 Keiko CRYNS
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.144(117)-119(142), 2023-03-31

オランダ東インド会社が最初にアジアへ艦隊を派遣した1603年からオランダ船が日本に初来航する1609年までのあいだに、オランダ側からの日本に対する働きかけはどのような経緯を辿ったのか。この問いを明らかにすることが本稿の目的である。 先行研究においては上記の問いが十分に明らかにされてこなかった。しかし、初期の平戸オランダ商館の活動を理解するためには、商館が設立された背景と経緯の解明は重要な意義をもつ。 本稿では、この時期に東インド会社がアジアへ派遣した四つの艦隊について、日本との関わりに着目しながら、その動向を辿った。このうち日本との接点がみられるマテリーフ、ファン・カールデン、フェルフーフの三つの艦隊の動向については詳細に検討した。調査対象史料としては、各艦隊の航海日誌をはじめ、各艦隊提督の書状・覚書や十七人会の決議録・指令書などを利用した。 オランダ側からの日本に対する働きかけの経緯について精査した結果、次のことが明らかとなった。 東インド会社はアジアへの最初の艦隊派遣時の早い段階から日本を交易対象国としてすでに認知し、1606年にはマウリッツの名前で日本の国主宛の書状を用意し、公式な国交開始の準備を整えていた。とはいえ、東インド会社の最大の関心はモルッカ諸島の香辛料と中国産の生糸にあった。東インド会社にとっての日本は、中国貿易を獲得できた後の渡航先としての二次的な目的地に過ぎなかった。アジア海域におけるオランダ艦隊は、中国貿易の獲得やスペイン・ポルトガルとのアジア各地での戦闘といった、より優先すべき課題に直面していたために、マテリーフも、ファン・カールデンも日本へオランダ船を派遣する状況にはなかった。 1609年にようやく日本へオランダ船が派遣される機会を得たが、その端緒となったのは、ヨーロッパ内の政治的状況であった。スペインとの停戦協定の交渉が始まり、オランダ東インド会社としては、協定締結前にできるだけ多くのアジアの君主との条約を結んで貿易拠点を拡大しておく必要が生じた。この差し迫った課題に対応するために、東インド会社上層部は新たな方針を伝える指令書をフーデ・ホープ号で発送した。指令書を受け取ったフェルフーフ艦隊がバンタムで拡大委員会を開き、その決議のもとに、ジョホールで待機させていた同艦隊所属の2隻を日本へ派遣することになった。 以上のように、東インド会社が日本へ初めて船を派遣したきっかけはヨーロッパ内の情勢によるものであり、平戸商館開設時は東インド会社側の日本貿易の基盤がまだ整っていなかった状態であったと言える。This paper seeks to elucidate the circumstances of early Dutch approaches to Japan between 1603, when the Dutch East India Company first sent a fleet to Asia, and 1609, when the first Dutch ships arrived in Japan.Little research has been conducted on this issue. However, in order to understand the activities of the Dutch trading post in Hirado in the early years, it is important to review the background and circumstances of the Dutch Republic’s initial approaches to trade with Japan.This paper traces the movements of the four East India Company fleets dispatched to Asia during this period, focusing on their relations with Japan. Of these, details of the movements of the three fleets, namely the fleets of Matelief, van Caerden and Verhoeff, which had some connections with Japan are examined. The documents examined include the logbooks of each fleet, letters and memoranda from the admirals, as well as resolutions and directives of the directors (the Heren XVII).A close examination of the circumstances of the Dutch approaches towards Japan revealed the following.The East India Company had already recognised Japan as a possible trading partner as early as the first dispatch of a fleet to Asia, and by drafting a letter to the Japanese sovereign in Maurits’ name in 1606, had already made preparations for the start of official diplomatic relations. Nevertheless, the East India Company’s main interest was in spices from the Moluccas and raw silk from China. For the East India Company, Japan was only a secondary destination after acquiring the China trade. Neither Matelief nor van Caerden were in a position to send Dutch ships to Japan, as the Dutch were facing more pressing issues in Asia, such as gaining access to Chinese trade and fighting with Spain and Portugal in Asian waters as part of the war against the Iberian countries.The opportunity to send Dutch ships to Japan in 1609 was triggered by the political situation in Europe. Negotiations for a ceasefire agreement with Spain had begun and it became necessary for the Dutch East India Company to expand its trading base by concluding treaties with as many Asian monarchs as possible before the agreement was concluded. To meet this pressing challenge, the East India Company’s directors dispatched a directive with the ship the Goede Hoop informing Admiral Verhoeff of the new policy. Upon receipt of the directive, Verhoeff convened an enlarged committee meeting in Bantam, which resolved to dispatch two ships from the fleet that had been on standby in Johor to Japan.As described above, the East India Company’s first dispatch of ships to Japan was largely due to the situation in Europe, and it can be said that a Dutch factory was established in Japan when the foundation for trade with Japan on the Dutch side was not yet in place.
著者
西原 彰一 NISHIHARA Shoichi
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.18, pp.(17)166-(48)135, 2022-03-31

沖縄県女子師範学校・沖縄県立(第一)高等女学校女学生の「改名」とは、伝統的な個人名「童名(ワラビナー)」の日本的な名「ヤマト名(ヤマトナー)」への改変をさすが、1900年代初頭に始まり、大正年間には両校女学生の間で流行したことが、教員・女学生の語り等からみてとれる。この改名は、改変の方向が「ヤマト(日本)化」である以上、沖縄の同化、統合化という文脈上に配置される事象であることは間違いない。しかしながら、改名についての個々の女学生の語りからは、同化、統合化といった「大きな物語」に回収しきれない、それぞれの「近代」への憧憬や、「自身による「名付け」」=「名乗り」としての意味などの、いわば「小さな物語」をみて取ることができる。本稿では、同窓会誌・回想録、同窓会名簿等を資料として、そこから女学生の改名についての「大きな物語」、「小さな物語」を読むことにより改名の意味するところを探り、それを通して個人の名前のあり方を視座として琉球処分・併合以後の沖縄の歴史を読むことを試みた。そのために、まず沖縄の伝統的女子個人名「童名」についての概観を行い、「童名」が個別識別機能よりも継承されることを重視した存在であったこと、また琉球処分・併合直後も、女子個人名は男子のそれと比して変化の少ない存在であったことを指摘した。ついで、女学生の「改名」の苗床となった女子中等教育の展開過程、また県女師・県立(一)高女の沿革を整理し、両校の、女子中等教育におけるトップエンド、また近代とのコンタクトゾーンとしての位置づけを明らかにした。これらを踏まえて、教員・卒業生による語り等から、当事者にとっての県女師・県立(一)高女の教育・生活の実相を、さらに、彼女らの改名に係る語りを読み込み、また『県立一高女同窓会名簿』上の改名事例の整理を行い、それらを踏まえ、1900年代初頭の沖縄での女子個人名の変化と女学生の「改名」との関連を指摘した。さらに、女学生個々の「小さな物語」としての改名を、女学校教育が図らずも育んだ「個」の感覚において理解することで、改名が内胎した「名乗り」としての意味を指摘した。しかし、両校女学生たちは、沖縄の女子の典型では決してなく、本稿の大枠での目的:名前を視座として歴史を読むためには、出稼ぎ女工の名前の問題等へ射程を広げてゆくことが、今後大きな課題となることがより明瞭となった。According to the narratives of teachers and students at Okinawa Prefectural Women’s Normal School and Okinawa Prefectural (First) Girls’ High School, renaming of the schoolgirls, which refers to a change from a traditional individual name, referred to as warabina (childhood name), to a Japanese-style name, referred to as yamatona, began in the early 1900s and was a trend among students at both schools in the Taisho era. As the change was toward Japanization, there is no doubt that renaming was an event in the context of assimilation and incorporation of Okinawa. However, the schoolgirls’ narratives about renaming imply “small stories” of their adoration of modernity and the significance of ‘naming’ oneself or ‘claiming a name’. The small stories may not be integrated into big stories of assimilation and/or incorporation. By using materials such as alumnae magazines, memoirs, and alumnae lists for finding schoolgirls’ big stories and small stories about renaming, this research aims to explore its meaning and then view the history of Okinawa after the Ryukyu Disposition and Annexation from the perspective of the state of individual names. The research provides an overview of traditional girls’ names of Okinawa, warabina first, then points out that warabina was considered more important as a name to be acquired than as an individual identification functionality, and that the pace of change of girls’ individual names was slower than that of boys’ names immediately after the Ryukyu Disposition and Annexation. The research then discusses the development of girls’ secondary education that served as a seedbed for schoolgirls’ renaming and the history of the two schools, and clarifies the status of both schools as topnotch girls’ secondary educational institutions and contact zones with modernity. Based on this exploration, the research uses narratives of teachers and alumnae to find the real state of education and life at the schools as well as stories about renaming. The research also organized examples of renaming on the Prefectural (First) Girls High School alumnae list to clarify, based on the findings, the relationship between the changes of girls’ names in Okinawa in the early 1900s and the renaming of schoolgirls. By studying renaming as a small story of each schoolgirl in the sense of individuality, which girls’ education unexpectedly fostered, the research indicates the significance of claiming a name involved in renaming. Given that students at both schools were never typical Okinawa girls, it became clearer that extending the research range to include the name issue of girls working at factories away from home will be important for the general goal of the research to view history from the perspective of names.
著者
古明地 樹 Tatsuki KOMEIJI コメイジ タツキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = SOKENDAI Review of Cultural and Social Studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, 2020-03-31

大坂の書肆、柏原屋(渋川清右衛門、稱觥堂)は、渋川版と称される『御伽文庫』や、『女大学宝箱』等を出版したことで知られる。一方で、鈴木春信をはじめとする浮世絵師に影響を与えた橘守国画作『絵本写宝袋』(享保五(一七二〇)年刊)、合羽摺り絵本の嚆矢となった大岡春卜画『明朝紫硯』(延享三(一七四六)年刊)等を刊行し、大坂を中心とした享保期以降の絵本流行を支えた板元の一つにも数えられる。これらの影響を考えれば、絵本研究の視点から柏原屋の活動を明らかにする意義は大きい。この考えに基づき、本稿では柏原屋の初期絵本を取り上げ、その出版活動を論じることで、享保期における絵本流行の一端を明らかにすることを目的とする。享保五(一七二〇)年以前の成立となる柏原屋の絵本広告には、『絵本草源氏』『絵本清書帳』『絵本稽古帳』『絵本たから蔵』『絵本忘草』『絵本ふくらすゝめ』『絵本手帳綱目』『万物絵本大全』の八作品が載る。本稿では、これらを柏原屋が刊行した初期における絵本として取り上げ、その書誌を記すと共に作品の成立過程について考察することで、柏原屋の絵本出版の諸特徴を把握することに努める。この伝本調査により、柏原屋の刊記を有する『絵本清書帳』は『絵本手帳綱目』を求板後に改修した内容を持つこと、板木の改修跡より『絵本稽古帳』や『絵本忘草』等の作品が求板版であること等が判明した。また、これらは伝本の少ない稀覯本であるが、上述の作品に対する考察や、作品の構成に改修によって生じたと推測される不和が認められることから、初期の柏原屋絵本が総じて後修本である可能性が高いと判断する。『絵本手帳綱目』、『絵本ふくらすゝめ』、『万物絵本大全』を除く作品に柏原屋の刊記が確認され、全ての伝本が「享保三年五月」(一七一八)の年記を有する。しかし、刊記の分析を行った結果、これら八作品の印時期にはずれが生じている可能性があると推測できる。則ち、柏原屋は享保五年以前に八種の絵本板木を有していたものの、作品によって印・修の時期が大きく異なる可能性を指摘するKashiwara-ya is an Osaka bookstore well-known for publishing Otogi-bunko, a collection of illustrated short stories called Shibukawa-ban, in the Edo period. The bookstore also published many ehon, or books featuring illustrations, that are significant works for ehon studies including Ehon-Shahoubukuro and Minchoshiken. Although Kashiwara-ya played an important role in publishing ehon after the Kyoho era, preceding studies have not considered Kashiwara-ya as a publisher of ehon. Thus, this study investigates Kashiwara-ya's early works and considers its publication activity.Eight books—Ehon-kusagenji, Ehon-seishocho, Ehon-keikocho, Ehon-takaragura, Ehon-techokomoku, Ehon-wasuregusa, Ehon-fukurasuzume and Banbutsu-ehon-taizen—are listed in a Kashiwara-ya advertisement published before 1720. This paper considers these books to be Kashiwara-ya's early works. These books were published to provide patterns of paintings for artists. Since this has rarely been examined in preceding studies, this paper compiles a bibliography and identifies the characteristics of these early works.The paper first organizes a bibliography of each work and makes inferences, e.g. woodblocks of Ehon-techokomoku were bought by Kashiwara-ya and the bookstore repaired them to sell them as Ehon-seishocho. As a result of such inferences and mismatches in the composition of the eight books, it is also possible to ascertain the possibility that almost all the woodblocks used in Kashiwara-ya's early works were repaired after purchase, i.e. these early works were not made by Kashiwara-ya.Secondly, the paper analyzes diversity in publication dates. Although Kashiwara-ya's early works have same publication date of 1718, these descriptions are unreliable because the woodblocks of the publication dates were allocated among o-hon, one of the formats of Japanese books. The degrees of frictional wear of the woodblocks are different, and this difference tells us the sequence of printing.A hypothesis concerning Kashiwara-ya's early works is derived based on the above. Although Kashiwara-ya had woodblocks to publish eight ehon and had rights to publish them before 1718, the eight books were not published at the same time.
著者
花上 和広 Kazuhiro HANAUE ハナウエ カズヒロ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.33-46, 2018-03-31

藤原師通は、京極関白藤原師実男で、母は右大臣源師房女麗子である。摂関家御堂流の藤原道長の曾孫にあたる人物で、従一位関白内大臣にいたるが、康和元(一〇九九)年六月二十八日、三八歳の若さで亡くなる。師通の生きた時代は、白河上皇の院政期にあたり、上皇は親政を推し進め、近臣藤原通俊が『後拾遺和歌集』の撰集を行うという時代であった。王朝和歌から中世和歌への展開を解明するには、この白河院政期の諸活動を明らかにすることが課題といえる。摂関家の和歌活動の中心は師実から師通へと移っていくが、師通の和歌活動を明らかにすることで、院政期における摂関家の和歌活動の動向が見えてくると考える。本稿は、師通の詠んだ和歌一首一首について、詠まれた場や詠作年次また同時詠、交友関係等の考察を通して、歌人としての師通の活動を論ずるための基礎資料として検討したものである。考察を通して、次のことがわかった。年齢と官職の視点から詠まれた歌の数を見ると、一一~二一歳(延久四(一〇七二)年正月~永保二(一〇八二)年 元服~内大臣になる前年まで) 四首二二~三三歳(永保三(一〇八三)年正月~嘉保元(一〇九四)年二月 内大臣就任~関白になる前月) 七首三三~三八歳(嘉保元(一〇九四)年三月~康和元(一〇九九)年 関白就任~亡くなる年) 一首年次未詳歌 一首となる。関白になってからの詠歌が非常に少ないことが指摘できる。次に和歌の詠まれた状況等を考慮して、題詠歌・歌会等の歌・贈答歌に分けて見ると、題詠歌 二首(⑦ ⑬)歌会等の歌 五首(① ② ③ ⑧ ⑫)贈答歌 六首(④ ⑤ ⑥ ⑨ ⑩ ⑪)となる。師通は氏長者や関白といった立場の人の割には、歌会や題詠歌などの晴の歌が少ないように思われる。贈答歌が多いのは、師通に関わりのある周辺歌人が、師通詠を自分の家集におさめたのが理由として考えられる。師通は文芸活動においても一の人としての振舞をしなければならなかったはずである。その際和歌を詠むことは必須と思われる。平安後期の和歌について、橋本不美男氏は「この期の和歌は、管絃・作文とゝもに、宮廷貴族として宮廷生活を行ふ上に、必須の技能として位置づけられる点から出発する。………和歌は、特殊の文芸としてゞはなく、一つの貴族の職能として、宮廷生活圏のなかに、礎地をもつたことにならう」(『院政期の歌壇史研究』六頁 武蔵野書院 昭和四十一年)と述べている。このような状況の中、師通は「学問」の人で和歌より漢詩に重きをおいていた。師通の詠作が少ない理由の一つとして、和歌よりも漢詩の方に心が傾いていたからなのであろう。『後二条師通記』『中右記』等を見ると、師通は内大臣になった永保三年以降亡くなる康和元年まで、自邸で作文会を十六回開いている。それにくらべて自邸での和歌会は『後二条師通記』では二回である。歌を交わした人物をみると、父師実をとりまく人たちとの関係の中で和歌活動が行われたように思う。女流歌人では師実姉四条宮寛子に仕える康資王母や師実女房でのちに令子内親王に仕えた肥後などがあげられる。男性歌人では、源経信大納言があげられる。Fujiwara Moromichi was the son of the Kyougoku Kanpaku, Fujiwara Morozane. He was the great-grandchild of the highly powerful Midouryu, Fujiwara Michinaga, and himself became a kanpaku (chief adviser to the Emperor), but died on June 28, 1099 (Kowa gannen) at the age of thirty-eight years old.Moromichi lived during the Insei period of Japanese history, when Shirakawa, the already-retired Emperor, was in charge. During this age, the retired Emperor Shirakawa promoted emperor-led politics, and arranged that, Fujiwara Michitoshi a subordinate of his, would edit "Goshuiwakashu, an imperial waka anthology".I believe it is important to conduct a thorough study of Moromichi's waka, considering his waka contributions throughout his life. In this paper, I consider each of the thirteen waka Moromichi wrote in turn, finding out about the place and time where it was composed, about other waka composed by different people at the same time, and about the people he associated with socially. Based upon a consideration of these factors I made a summary of Moromichi's waka activities throughout his life.From this, it is discovered that the number of waka poems composed by Moromichi during periods of his adult life, as defined by his professional capacities, are as follows.1) 11–21 years old (January 1072, to 1082): 4 waka poems(Moromichi's coming of age ceremony to the month before becoming Naidaijin)2) 22–33 years old (January 1083, to February 1094): 7 waka poems(Moromichi's assumption of the role of Naidaijin to the month before becoming Kanpaku)3) 33–38 years old (March 1094 to 1099): 1 waka poem(Moromichi's assumption of role of Kanpaku to his death)4) Waka whose year of composition is unknown: 1 waka poemMoromichi produced very few waka poems after assuming the role of kanpaku. I divided the situations which he composed waka into three categories.Daieika (waka written around a particular subject): 2 waka poemsUtakainouta (waka composed at a party): 5 waka poemsZoutouka (waka composed with another person, in a call-and-response style): 6 waka poemsFor someone who assumed high profile positions such as elder of his clan and that of kanpaku, he did not compose a lot of waka during official waka-composing parties. It seems that the reason that there are so many of Moromichi's zoutouka surviving is that waka composed by Moromichi in tandem with others were included in poetry collections created by his freiends.Moromichi would surely have been compelled to show his worth in literary circles, composing waka as part of various social meetigs. There is evidence that in such situations, he placed more importance on Chinese poems more than Japanese waka. According to his diary, during the period from 1083 (Eiho sannen) when he became Naidaijin, until 1099 (Kowa gannen) when he died, he held parties for composing Chinese poems at his house on sixteen occasions. In comparison, he held parties for composing waka only twice.Looking at the people with whom Moromichi exchanged waka, it is my surmise that most of his waka-related activity was carried out with the party associated with his father, Morozane. The female members of this party were Yasusukeounohaha who served Morozane's sister the Empress Shijounomiya, and Higo, who served the Imperial Princess Reishi, while the male member was Minamoto no Tsunenobu.
著者
藤原 哲 Satoshi FUJIWARA フジワラ サトシ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.195-219, 2012-03-30

本論の目的は古墳時代における軍事組織の可能性を探ることである。これを検討するための考古学的な資料としては古墳時代の武器や武具が挙げられる。しかしながら古墳時代の武器は大部分が墳墓から出土しており、直接的には戦闘や軍事組織を反映していない可能性が高い。 そのため、武器という資料を検討する一手段として遺物の出土状況、すなわち古墳における武器の配置状態を検討し、墳墓としての古墳で武器や武具がどのように取り扱われてきたのかを探る。そのことで当時の武器の価値的な側面を明らかにする。その結果から古墳へ埋納された武器がどの程度、実際の武装(実用性)や組織を具現していた可能性があるのかを考えてみた。 古墳時代前期~後期の未盗掘の竪穴系墳墓を中心に武器の副葬状況を検討した結果、近畿を中心とする大・中規模の古墳においては、「遺骸の外部との遮断」から「武器の同種多量埋納」、「記号的属性を帯びた副葬」へという変化過程を経ることを明らかにした。一方、中・小型の古墳では、前期において少数の武器を人体付近に副葬する事例が多く、中期にいたると防御用道具(甲冑)、接近戦用道具(刀剣)、遠距離戦用道具(弓矢)など、それぞれ用途の異なる武器を少数ずつ人体周辺に副葬する特長が抽出できた。 武器の価値的な背景を検討し、武器副葬の意義を考察した結果、大・中の首長たちの副葬行為は武器を大量に副葬するという象徴的な、又は記号的な意味合いが強いと考えた。対照的に、中・小首長たちは、人体付近に武器を副葬しており、それら武器は実際に使用していた、又は生前の身分を表すような価値的な背景を推察した。その結果から、古墳時代の副葬武器から実際の戦闘や軍事組織が復元できる可能性を指摘した。
著者
藤原 哲 Satoshi FUJIWARA フジワラ サトシ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.59-81, 2011-03-31

1980年代までの研究において、環濠集落は弥生時代の代表的な集落であり、かつ防御的な機能を有しているという認識が強かった。近年では環濠集落像の見直しが進み、防御説に立脚しない論旨を展開する研究者も多く、集落ではない環濠の存在も指摘されるなど、新たな環濠像が数多く提示されるようになってきている。 従来のように「環濠集落=標準的な弥生集落」という見方は正しいのであろうか、小論では日本列島や弥生集落全体の中で、環濠集落がどのように位置づけられるのかの検討を試みた。 研究方法としては、近年、数多く調査されるようになった環濠集落のうち、ある程度構造が明らかな約300遺跡を集成し、時系列と分布とを中心として再整理する。また、集落規模や立地条件をもとに環濠集落の分類を行った。 上記の分析を通じて、環濠集落は源流となる韓国においても、日本列島での弥生時代を通じてみても、標準的な集落ではなく、むしろ極めて希少な集落形態であることを明らかにした。また、集落ではない環濠遺跡が多数あることも改めて認めることができた。 環濠集落の分類結果では、農耕文化が本格的に定着した時期に成立するような中・小規模の農耕集落が大多数であった。しかし、農耕文化成立期の全ての弥生集落に環濠が巡っていたわけではないため、環濠集落とはある特定の農耕集団の所産によるものと推察した。大規模な環濠集落や高地性の環濠集落などについては、更に数が少ない特殊な集落であることを指摘した。 これらの分析から、これまで標準的な弥生集落と思われがちな環濠集落が極めて希少な例であり、日本列島の弥生社会では農耕文化そのものを受け入れない地域、農耕文化と環濠集落の両方を受け入れる地域、農耕文化は受け入れても環濠集落を受け入れない地域など、様々な地域差が想定できた。This paper presents research on moat encircling settlements of the Yayoi period in Japan.Until the 1980s, many archaelologists thought the moat encircling settlements of at the Yayoi period were standard Defense settlements for warfare. Recently, however, many researchers have not adopted the defense theory.In this paper I review and consider Yayoi moat encircling settlements based on the research results so far. I have studied the research on over 250 moat encircling settlements in Japan and Korea. It is thought that, moat encircling settlements were not standard large settlements of the Yayoi period, rather, they were very rare settlements and only particular farming groups lived at such moat encircling settlements.With the establishment of agricultural culture, encircled settlements declined and eventually disappeared in Yayoi Culture. Most moat encircling sites were not settlements; however, some moat encircling settlements in the middle stage of the Yayoi period were large settlements.The examination and understanding of the moat encircling settlements of the Japanese islands can illuminate various regional differences.
著者
花上 和広 Kazuhiro HANAUE はなうえ かずひろ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.31-52, 2020-03

源顕房は、土御門右大臣源師房二男、母は道長女尊子。右大臣従一位に至る。同母兄に左大臣俊房、同母妹に藤原師実室麗子がいる。娘賢子は師実の養女となり、その後、白河天皇の中宮となる。賢子は媞子内親王・善仁親王(堀河天皇)らを儲け、顕房は堀河天皇の外戚となる。この時代は、天皇家と摂関家は対立していることを前提に和歌事象が捉えられているが、天皇家や摂関家などは互いに血縁関係があり、対立構造だけでなく融和的構造という方向からも理解を進めていく必要がある。本稿は、顕房の詠んだ和歌二十三首について、歌の集成と考証作業を通して、歌人としての顕房の活動を論ずるための基礎資料を示し、白河朝から白河院政期における権門歌人としての顕房の和歌史上における位置について考察したものである。以下、知り得たことを整理し、権門歌人顕房のありようを示す。まず、初期の代作の問題があげられる。顕房一五歳の歌合詠は侍従乳母の代作というが、同年に催された他の歌合においても、同じように代作してもらった可能性がある。また、郁芳門院根合では、その作者名表記に関して、顕房の代作の問題があげられる。顕房が歌合などのハレの場で歌を詠むことは権門歌人として果たされるべきことであった。若い時には代作をしてもらい、長じては代作をするということをした。次に顕房は、若い時から晩年に至るまで歌合に深く関わってきた。特に承暦二年四月廿八日内裏歌合や寛治七年五月五日郁芳門院根合において判者を務めたことは、権門歌人として重要な仕事であった。三つ目は顕房と経信の関係についてである。二人は中宮馨子内親王の中宮職の役職において、顕房は中宮大夫、経信は中宮権大夫という身分差のある関係であった。また『大納言経信集』には、馨子内親王が斎院退下後は師房第に住まい、そこで遊びが催された記事等より、経信と顕房の近しい関係が見出される。顕房と経信は多方面でいろいろな関係が見出される。最後に顕房詠が『後拾遺集』と『金葉集』にそれぞれ四首ずつとられていることは、彼が当代歌人として評価されたことの証ともなろうが、それらの撰集を命じた白河院との特別な関係(顕房は院の舅で堀河天皇の外祖父)も影響しているのであろう。この時期の歌壇史における天皇家と摂関家は、一般的に対立構造が指摘されている面もあるけれども、顕房の和歌活動を通してみると、顕房も摂関家の一員であるが天皇家とも極めて融和的な関係が保たれてきた。権門歌人顕房の特徴がそうしたところにもあったといえよう。Minamotono Akifusa was the second son of Tsuchimikado Udaijin, Minamotono Morofusa. He became an udaijin (the third adviser to the Emperor) and was called Rokujo-Udaijin, because he lived on the 6th Street of Kyoto.He had an older brother Toshifusa who became a sadaijin (the second adviser to the Emperor), and a younger sister Reishi who married Morozane.Morozane adopted Akifusa's daughter Kenshi, who became the Empress of Emperor Shirakawa. Empress Kenshi had three children, the imperial prince Atsufumi, the imperial princess Teishi, and the imperial prince Taruhito (Emperor Horikawa). Akifusa was a maternal relative of Emperor Horikawa. He was also a kenmonkajin (a poet from an influential family).He lived from the Emperor Shirakawa period to the Emperor Shirakawa Insei period. At that time Emperor Shirakawa came to take the reins of government personally.The purpose of this paper is to study his activity as a kenmonkajin and discuss his position as a poet in the Insei period, through examination of each of the 23 waka Akifusa wrote.What I found noteworthy through the research may be summarized as follows.1. It is important to examine Akifusa's ghostwriting in Utaawase (a poetry contest). He had Jijunomenoto (a court lady) compose a waka poem, when he was 15 years old. After he grew up, however, he came to compose waka for other people. As a kenmonkajin, he had the responsibility to compose waka poems on many occasions.2. Akifusa and Minamotono Tsunenobu (an excellent poet and bureaucrat) worked together in various situations. At one time Akifusa was the boss and Tsunenobu was his subordinate at the Empress Kyoshinaishinno's house. After the Empress retired from the Saiin, she lived in Morofusa'house. Whenever they had a banquet, they composed and exchanged waka poems, according to Dainagontsunenobu-shu (Tsunenobu's personal waka anthology).3. Of his 23 waka poems, four waka poems were included in the Goshuiwakashu (an imperial waka anthology) and another 4 waka poems were chosen to be in the Kinyowakashu (an imperial waka anthology). This is especially worth noting since there was no other instance where one poet had 8 waka poems chosen.4. Some studies have claimed that the Imperial family and the Sekkanke (regent house) at this time were not on good terms with each other. His waka poems appear to have a deep relationship with the Imperial family, and he had a strong connection with the Sekkannke (regent house), exchanging waka poems. This indicates that he had a good relationship with both the Imperial family and the Sekkanke (regent house) as a kenmonkajin.
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.27-46, 2019-03-31

本稿では、備後奴可郡(現広島県庄原市東城・西城町)における神職の中世末から近世にかけての歴史的変遷を明らかにするとともに、奴可郡における神職の組織・階層について論じた。その結果、中世から近世への時代変化が、奴可郡の神職にいくつかの変転を起こさせたことが判明した。その一つが、神職としての立場を保障する方法の変化である。中世末の備北地方における社役の安堵は、備後一宮において開催される座直りへの出席と、在地領主からの宛行状の発行により行われていた。その後近世になると、京都の吉田家から神道裁許状を取得するようになる。こうした変化に伴い、神職の職名・立場を表す言葉として「太夫」という言葉が公の資料に現れることはなくなり、吉田家から取得した官途・受領名が名乗られるようになった。二つ目は、中世に淵源を持つと考えられる備後国一宮の権威や機能の変化である。近世初期には、一宮の祭祀組織の再編、広島藩と福山藩という二つの政治体制の構築、近世中期以降には、京都吉田家による備後国内の神職支配の拡大が起こった。これにより、備後国内の神職に対する一宮の影響力が低下する。その結果、備後国内の広島藩領の神職は、藩内神職の惣頭役を務める広島城下の社家野上氏の統制下に入ることになり、広島藩の支配をより強く受けるようになった。三つ目は、奴可郡における神職組織の在り方の変化である。中世末には、在地領主が広大な領地の産土社(鎮守社)を定め、神職を任じ、祭祀を経済的に支えていた。その後、中世末の在地領主の領土が近世の村切りにより分割されることで、かつての在地領主の領地と一致する広い氏子圏を持つ社格の高い大氏神と、一つの近世村を氏子圏とする小宮が生まれたと思われる。近世初期には、郡内に数社存在する「大氏神」を単位として、共同で神事を執行する神職組織がいくつか形成されていた。その後近世中期になると、吉田家の影響により広島藩の神職組織が整備され、その末端として「郡」を単位とする神職組織が新たに形成される。こうした近世の奴可郡において神社祭祀に関わる者の間には、吉田家から神道裁許状を取得し祭祀を担当する「吉田殿裁許の官」と、日常神社の管理を担った「鍵取(地神主)」の違いがあった。さらに、「吉田殿裁許の官」の間には、大宮の社家(幣頭)/小宮の社家(一本幣)/抱えの小宮を持つ下社家/抱えの小宮を持たず裁許状を取得していない下社家という、中世以来の家格に基づく階層があった。
著者
単 荷君 Hejun SHAN シャン ヘジュン
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.127-144, 2018-03-31

第一次世界大戦勃発から第二次世界大戦終結までの間に、青島は2度、合わせて16年に及んで日本の統治下に置かれ、上海と中国東北地方(旧満州)に次いで、日本による対中国投資の最も重要な中心地であった。日本帝国勢力圏の拡大と共に、青島もそのなかに組み込まれ、多数の日本人が青島に渡った。これらの人的移動は、資本、技術、生活、文化の移動を伴い、近代青島に看過できない影響を与えていた。従って、青島日本人社会の誕生、発展、終焉の過程と、それと同時に生じた青島社会の変容を究明することは、青島史のみならず、近代日中関係史、更に東アジア近代史上の青島の位置づけを再確認するために、極めて重要な作業である。本稿ではドイツ統治時代、青島に進出した一般日本人居留民の経済活動と情報収集活動から、当時の青島の日本人社会の内部構造と日本人の活動の実態を論じた。特に日本人たちと植民地支配者であるドイツ人、現地中国人、そして母国日本との葛藤、連携を歴史的に検証し、ドイツ統治下の青島日本人社会の具体像と全体像を提示しようと試みる。ドイツ統治下、青島と天津、大連、上海、香港、更に海を越え、日本、朝鮮、ウラジオストクとの間に人的・物的交流が行われていた。当時海外に自由に進出することのできた一般日本人たちも、この新開地に飛び込み、300人ほどの小さな社会を形成した。しかし、従来ドイツ統治下の青島をめぐる研究は、主にドイツの膠州湾占領とドイツの植民地政策を中心に行われ、日本人社会に着目する研究はわずかである。そこで、本稿は青島日本人社会の原点に焦点を当て、まず第1章で青島に進出した日本人の人数、ルート、出身地、職業、活動区域など日本人社会の内部構造について考察する。続く第2章では、植民地支配者と現地人の間隙を縫って商業活動に従事した日本人小商人、大手商社、そして人数の最も多いからゆきさんに着目し、彼らとドイツ人、中国人との競争や共存関係をみる。更に第3章では、青島日本人が携わったもう一つ重要な活動、即ち情報収集活動を通じて、彼らと帝国日本との協力関係を検討する。そして最終章では、ドイツ統治時代の青島で暮らしていた日本人が、日本の青島占領後にどのような結末を辿ったのか、その行く末を明らかにする。Imperial Japan invaded Tsingtao twice and was dominant there for sixteen years in total. After Shanghai and Manchuria, Tsingtao was the next important area for Japan's foreign 'investment' in China. With Japan's imperialistic expansion, thousands of Japanese moved into Tsingtao, and approximately forty thousand Japanese resided there until the Second World War ended. The influx of Japanese impacted on Tsingtao's local society, for they brought with them capital and technology, and a different lifestyle and culture. However, previous studies have mainly focused on the German occupation and its policy, and little attention has been paid to the Japanese community in Tsingtao under German rule or to the relationships between German, Chinese, and Japanese during the period.This paper explores the organization and the activities of the Japanese community, while examining economic as well as information gathering activities carried out by ordinary Japanese in Tsingtao. The first section reviews the number of Japanese residents, their backgrounds, such as hometown and occupation, their motivations for moving to Tsingtao, and the routes they took to travel to Tsingtao.The second section investigates how the Japanese cooperated and competed with the Germans and Chinese, while also examining economic activities conducted by Japanese people such as petty traders, businessmen from large enterprises, and prostitutes called karayuki-san.In the third section, I attempt to demonstrate the cooperative relationship between ordinary Japanese and the imperial Japanese government, through an examination of how Japanese engaged in information-gathering activities in Tsingtao. Finally, in the last section, I will discuss the transformation of the Japanese community after the First World War.