著者
麻生 迪子
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.70, pp.57-70, 2022-03-25

本研究は,上級中国人日本語学習者を対象に未知の和語多義語語義の意味推測について検討を行ったものである。23 語を対象語とし,42 の語義から実験文42 文を作成した。調査協力者に対象語義の意味を推測させる「意味推測課題」と意味推測のしやすさを問う「意味推測難易度課題」の2 つを実施した。その結果,中国人日本語学習者にとって意味推測が容易な語義として,12 語義が挙げられた。12 語義が推測容易語義となったのは,調査協力者にとって「既知語義」であったり,「文の手がかりのみで推測が可能」であったためである。一方,推測困難語義として24 語義が抽出された。24 語義が推測困難であったのは,「語義をあやまって理解していたこと」や「ひらがなの音から異なる漢字をあてはめ,誤った意味推測」をしてしまったことが原因であったと考えられる。なお,6 語義は推測の容易さについて明確な特徴がみられなかった。本調査の結果は日本語教育に対して,二つの示唆を与える。一つは,中国人日本語学習者は,ひらがなで表記された未知の語義に出会うと,既知の漢字知識を用いて意味推測を行う。そのため,同音異字語,同音異義語については,学習者が注意を払えるように十分に指導する必要があることである。今一つは,未知語及び未知の語義の意味推測ストラテジーの指導の重要性である。文レベルの手がかりを用いた意味推測は失敗に終わる可能性もあるので,推測した意味を固定せずに,未知語が使用された前後の意味を踏まえながら意味推測を行うという指導をする必要があることである。
著者
隅田 孝
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.67, pp.295-314, 2019-03-25

広告戦略におけるオノマトペ(主に食品などのサクサク、ふわふわ、などの擬声語、擬態語)は、商品の差別化や販売促進などで使用されている。その他にも消費者間コミュニケーション(クチコミ)などで使用され、様々な広告効果が発揮されている。消費者間コミュニケーション(クチコミ)の重要性の高まりを背景に、広告戦略においてこれらオノマトペが注目されている。 今日、サクサク、ふわふわ、など一般的にオノマトペは使用され、日常的に使用されているオノマトペがクチコミとしての広告効果に深く関わっていると考えられている。一方で、オノマトペを用いた広告の中で商品に使用するとイメージが損なわれるもの(食品にベチャベチャ、ぐちゃぐちゃなどを使用する場合など)がある中で、広告戦略に適しているケースについて検討する。 本稿では、あらかじめイメージが植えつけられている商品があり、イメージを表現するオノマトペを伏せた状態で使用、試食させた場合、消費者はどのようなオノマトペを連想するのか、その連想したオノマトペは商品イメージと一致するのかを検証する。また、この伏せた状態での消費者間コミュニケーション(クチコミ)はどのように広がり定着していくのかについても考察を進める。これらをまとめて、オノマトペは広告戦略として活用する際に有効であるかについて検討する。
著者
加藤 彰彦
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.67, pp.203-233, 2019-03-25

アンドレ・ブルトンの『ナジャ』において、ナジャの物語の最後でナジャの不在を意味するブルトンの発言がある。ナジャの不在とはいいながらも、ナジャが実在した人物であることは明らかになっているが、それでは何故ナジャの不在が語られるのか。それについて考察したのが本論考である。第一部において、ジェラール・ジュネットの物語論に依拠しながら、語り手と聴き手の位置関係に注目し、当初は語り手であったブルトンが、本来聴き手であったナジャに取って代わって最終的には聴き手も兼ねるという一人二役を演じている構造を明らかにし、ナジャの不在をテキスト上から論証した。次に、第二部において、ラカンの理論を援用しながら、ナジャはブルトンの自己同一性のための鏡像であること、更にヒッチコックの『サイコ』を例にとりながら、主体が対象と同一化し、対象が消滅しても、超自我的な声によって支配される点を明らかにし、ブルトンはナジャの消滅後もナジャの声によって支配され、それによって主体として維持されるという風に結論付けた。
著者
吉田 康成 西 博史
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.64, pp.311-322, 2017

"本研究はワールドカップ2015 に出場した一流選手のジャンプサーブを3 次元動作分析することにより、強く打撃する一流選手のジャンプサーブの実態を明らかにすることで今後のコーチング資料を得ることを目的とした。被験者は、Anderson 選手(アメリカ)、Zaytsev 選手(イタリア)、Ishikawa 選手(日本)、Yanagida 選手(日本)であった。得られた知見は以下の通りである。1)本研究で得られた打球速度は、先行研究よりも速く、Anderson 選手が30.91m/s、Zaytsev 選手が35.38m/s、Ishikawa 選手が31.31m/s、Yanagida 選手が31.60m/s であった。2)ジャンプサーブの頭部中心を原点とした打撃の相対位置について、Ishikawa 選手とYanagida選手はスパイクに関する先行研究で報告された打撃位置と大差はなかったが、 Anderson 選手とZaytsev 選手は頭上付近で打撃していた。3 )Ishikawa 選手とYanagida 選手の打撃時における腰部速度は水平方向がそれぞれ0.70m/s と0.92m/s であった。跳躍の仕方は、跳躍前に沈み込み、踏み切り足で助走の水平方向の運動量を鉛直方向へ変換するという従来の指導書で述べられている前衛でスパイクするための助走方法であった。4)Anderson 選手とZaytsev 選手の打撃時の腰部速度は、水平方向がそれぞれ2.05m/s と1.87m/sであった。外国人選手のジャンプサーブは日本人選手と比較して跳躍前に大きく沈み込まず、腰部の水平速度を活かして打撃していた。
著者
藤谷 厚生
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.66, pp.205-219, 2018-09-25

本稿は、華厳経の入法界品で、善財童子の悟りの完成のために普賢菩薩が説いたその行願(普賢行)の内容理解のための一研究ノートである。テキストとしては、不空三蔵訳(8c 中頃)の『普賢菩薩行願讃』(大正蔵経第10 巻880 上段以下)の62 頌を用い、足利惇氏先生の「普賢菩薩行願讃の梵本」(京都大学文学部研究紀要4 号[1956 年])や般若三蔵による同本異訳とされる華厳経(四十巻)の「入不思議解脱境界普賢行願品」(以下、四十華厳・普賢行願品と略)の普賢広大願王清浄偈などを参照しながら、できるだけ原本の意に即すように書き下し、邦訳としてここに翻刻した。特に四十華厳「普賢行願品」には、この普賢菩薩の十大行願については、 「 若欲成就此功徳門。應修十種廣大行願。何等爲十。一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向」(大正蔵経第10 巻844 頁中段24 行目)とあり、本稿では便宜上これに随い、本文の内容を「礼敬諸仏」「称讃如来」「広修供養」「懺悔業障」「随喜功徳」「請転法輪」「請仏住世」「常随仏学」「恒順衆生」「普皆廻向」の十種とそれに付随する小見出しを附して区分し、それぞれの本文書き下し訳に、語註や解説ノートを加えて要旨を述べ、末尾には四十華厳「普賢行願品」の普賢広大願王清浄偈を書き下し邦訳して参考として付した。
著者
田原 範子
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.62, pp.397-425, 2016

ハンセン病は、日本社会において、それを病む人びとが、長らく隔離政策のなかで生きてこざるをえなかったことは広く知られている。もともと感染力が弱く、1940年代の特効薬プロミンの発見で治療可能な病気となったにもかかわらず、世界の動向に反して、日本では漫然と隔離政策が続けられた。こうした社会背景のなかで、ハンセン病は、「差別・隔離・偏見」などという言葉で語られることが多い。 現在、国立ハンセン病療養所は13施設あり、総入所者数は1,840人、平均年齢は83.6歳である(2014年)。日本政府の隔離政策の問題、ハンセン病施設の問題、入所者のライフヒストリー、高齢化する入所者の問題など、さまざまなアプローチにより研究が蓄積されている。各療養所でも入所者自身によって機関誌が発行され、文芸活動なども活発に行われてきた。また2015年は隔離施設の世界遺産化をめざす動き、2016年には家族による訴訟が報道され、現在もなお、その歴史をいかに生きるのかが、社会的にも個人的にも問われ続けている。 本稿の目的は、現代社会におけるハンセン病についてのメディア報道の動向をとおして、ハンセン病にかかわる現在の状況を明確にすることである。四天王寺大学付属図書館を通して検索できる新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」により2015年度におけるハンセン病にかかわる新聞報道279件の記事により、新聞記事の内容分析を行う。第1 節で各月ごとに、第2 節でトピックごとに紹介しよう。
著者
天野 了一
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.65, pp.261-270, 2018-03-01

高齢化社会の到来と、若年・生産年齢人口の都市集中が進む中、地方都市や近郊都市において、商店街や街の衰退が課題となっている。その活性化のためには、従来の商工団体、行政、住民に加えて、起業家・中小企業経営者としての多様な経験と感覚をもった、外部からの地域起業家の役割が注目される。本論では、様々な多彩な経歴と波乱万丈の人生を経て、地域のコンテンツを広く発信することに取り組む、株式会社ON THE ROAD(オン・ザ・ロード)取締役の宮脇繁(みやわきしげる)氏の起業家史について紹介し、そこから地域活性化の今後の課題や起業家の役割、方向性のあり方について考察を行うものである。
著者
坂田 達紀
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.66, pp.7-27, 2018-09-25

村上春樹の「沈黙」は、『村上春樹全作品1979 ~ 1989 ⑤ 短篇集Ⅱ』(講談社、1991 年)のために書き下ろされた短編小説である。この小説について、作者の村上は、「僕の作品系列の中では、かなり特殊な色合いのもの」、「とにかくストレートな話」、「もともとはとても個人的な意味合いを持った作品」などと述べている。さらに、「僕としては作品集の中に「こっそりと忍び込ませた」という感じの作品だった。」とも述べている。しかし、この小説は、その後何度も単行本(短編集)に収録されたり、この小説一作品だけで単行本化されたり、高等学校国語教科書にまで収載されたりしている。あるいはまた、「大幅に手を入れた」りもされている。つまり、村上は、書いた当初はそれほどでもなかったが、後になって、この小説を重要な作品と見なすようになったものと考えられる。 本稿では、以上のことを念頭に置きながら、作品「沈黙」の文体的特徴を析出するとともに、どのような読み方ができるのか、いわば読みの可能性を探ることを試みた。加えて、デビュー以来の村上作品の中で(村上の言葉で言えば、彼の「作品系列」の中で)、この作品がどのように位置付けられるのかを考察した。その目的は、この作品の持つ特殊性を明らかにすることである。 析出された文体的特徴は、聞き書きという形式を利用したリアリズムの文体ということと、純粋な三人称小説でもなければ一人称小説でもない、三人称と一人称とがいわば混在した文体ということである。いずれの特徴も、この作品の持つ特殊性を示すものと考えられる。また、読みの可能性としては、作品に描かれた二つの「沈黙」(高校時代の「大沢さん」が学校で強いられた「沈黙」と、現在の「大沢さん」が真夜中に見る夢の中の「沈黙」)を截然と区別して読むことの重要性を指摘したうえで、「沈黙」と「深み」との関連性を読み取るべきこと、および、システムの「悪」に対する村上の批判が読み取れることを述べた。さらにまた、本来自分の内側にある恐怖を描くことの多い村上が、「沈黙」という外側の恐怖を描いているという意味では特殊な作品だが、この作品の(作者自身による)扱いには、村上のデタッチメントからコミットメントへという考えの変化が読み取れることから、きわめて重要な作品として村上文学の中に位置付けられることを指摘した。最後に、タイトルは「沈黙」であるが、「沈黙」するのではなくそれを破らなければならないとする村上の姿勢が読み取れるという意味で、逆パラドキシカル説的な作品とも言えることを付言した。 本稿で得られた分析・考察の結果は、この作品をより深く読む際にはもちろんのこと、国語教材として用いる際にも役立つものと考えられる。
著者
土谷 幸久
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.48, pp.35-56, 2009
著者
加藤 彰彦
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.64, pp.101-131, 2017

アンドレ・ブルトンは最後のシュルレアリスム宣言として捉えられる『吃水部におけるシュルレアリスム宣言』の結論部分において、シュルレアリスムとグノーシス主義の目指すところが一致していることを指摘している。確かにシュルレアリスムの神秘主義的なところもブルトンのテキストから明らかに指摘されるのであるが、シュルレアリスムとグノーシス主義が大きく分かれるところは、前者が現世において特に愛によって幸せを獲得しようとしているのに対して、後者は物質的世界=肉体的世界を悪の世界として否定していることにある。またブルトンは階層秩序的二項対立を否定するのに対して、グノーシス主義は肉体と精神のプラトン的二項対立をその根本に据えているのである。しかしながらブルトンの目指す超現実とは実体を欠いた記号空間にすぎないこと、またブルトンが求めるシュルレアリスム的精神の一点とは、まさにグノーシス主義における救済の如く、身体内で見出す真の知であることから、シュルレアリスムとグノーシス主義は同じ方向を目指していると理解されるのである。
著者
土取 俊輝
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学紀要 (ISSN:18833497)
巻号頁・発行日
no.68, pp.353-367, 2019-09-25

本稿は北海道大学文学部人骨事件を事例とし、先住民をはじめとする遺骨返還問題で何が問題とされているのかについて論じるものである。北海道大学文学部人骨事件とは、1995 年に北海道大学文学部の古河講堂内の一室から、人間の頭骨6 体が入ったダンボール箱が発見された事件である。発見された遺骨のうち返還されたものは、韓国東学党のものとされる頭骨1 体と、北方先住民のウィルタのものとされる頭骨3 体である。あとの2 体は返還先を探す事が出来ず、現在は寺院に仮安置されている。これらの人骨が北海道大学に保管されていた背景には、北海道大学が植民地主義やダーウィニズムに基づいた北方先住民の人骨の収集、研究の拠点でったことが関係している。 北海道大学文学部人骨事件を事例として遺骨返還問題を見てみると、研究機関と植民地主義との密接な関係が浮き彫りとなった。また、その植民地主義の負の遺産であるところの遺骨問題に対して、研究機関が真剣に向き合って対応していないことも、先住民の側から問題として焦点化されている。人権意識の高まった現代において、研究機関や我々研究者は、学術研究と植民地主義との関係という過去に向き合った上で、遺骨返還問題に対して取り組んでいくことが求められている。