著者
氷川 竜介
出版者
日本アニメーション学会
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.37-44, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)
参考文献数
11

この論文は高畑勲によるアニメーション映画「じゃりン子チエ」を分析した。原作は大衆に人気があり、広く知られる漫画である。高畑は作家性を抑制し、原作に忠実であろうと努力した。その結果、論じられる機会の乏しい作品となっている。しかし、漫画と映画は、表現の点で大きく異なっている。そのギャップを埋めるための高畑の方法を、具体的な映像に基づいて検証した。映画では時間と空間に関する意識が重要である。高畑勲が映画をどのようなものと把握し、構築しようとしていたか、その一端を検証考察する試みだ。
著者
米村 みゆき
出版者
日本アニメーション学会
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.61-72, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)

本稿は、高畑勲が、映像化したいと考えていた宮沢賢治の童話についてその映像的表現や特色について考察するものである。その際、アニミズム論の新しい視点を導入する。ポストヒューマンが予想される現在、アニミズム論も新たな展開をみせているためである。本章の手順は以下の通りである。1章では、高畑勲が宮沢賢治作品について映像化したいと述べていた発言を再考し、「非人間」との「共生」「共存」という主題を確認する。2章では、宮沢賢治『雪渡り』と『鹿踊りのはじまり』を取り上げ、後者において視覚表現と聴覚表現が交替で立ち現れる入れ子構造に着目し、重層化される「アニメーション映画」となっている様相を検討する。3章では、アニミズムの新しい観点から、『なめとこ山の熊』を取り上げ、人間と「非人間」(熊)との関係に同質性や魂の分有がある点について考察する。高畑が着目した宮沢賢治の童話は、一見郷土色豊かな土着的な話にみえるものの、〈アニメーション映画〉としてみるとき、その背後にはテクノロジーの眼が摘出されることを指摘したい。
著者
小山 昌宏
出版者
日本アニメーション学会
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.73-80, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)
参考文献数
19

高畑勲の初演出作品『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)から、その最終作品『かぐや姫の物語』(2013)に至る 45年間において、その少女像はいかに変化したのか。本論は両作品の世界観に通底するヒロイン像を比較することにより、現代社会における人間の生きる意味とその価値を問うものである。それはまた、高畑勲作品に見いだされるユートピア表現とディストピア表象を、物語世界の 2人の少女(ヒルダとかぐや)の生き方に読み込むものとなる。さらに「かぐや姫」と宮崎駿の「ナウシカ」との比較をおこなうが、これは高畑作品が示す現代社会との葛藤をより明示するためにある。この試みを通して芸術労働と産業労働の矛盾を乗り越えようとするアニメーション作品制作の営みは現実矛盾を色濃く物語りはじめる。それは、自分たちの生きる場を見つめ直し、再構成するために、一筋の光を後生に残す「希望の原理」を内包している事実を見つけ出すことになる。
著者
横田 正夫
出版者
日本アニメーション学会
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.81-91, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)
参考文献数
12

高畑勲監督の遺作『かぐや姫の物語』は思春期の少女の心を描いており、初潮を迎えた姫が心なく迫る大人たちの行動を心理的な障壁と感じ、行動を抑制してしまった結果、生きる意欲を失った物語と見ることができる。 5人の貴公子の姫への求婚も御門の姫を攫いに来たことのいずれも、姫の心を無視した振る舞いであり、姫に耐えがたい恐怖をもたらした。そのため、姫は月に帰りたいと念じてしまった。しかし姫は、月に帰る直前に、自我に目覚め、地球に生を受け、自然を喜ぶ前向き行動力が発揮されないことが罪と悟る。
著者
胡智於 (珠珠)
出版者
Japan Society for Animation Studies
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.101-109, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)

本稿は、私が以前書いたブログ記事『高畑勲(1935〜2018年)戦後アニメーションにおける卓越した存在感』(「アニメーションスタディーズ 2.0」2018年5月7日)を発展させたものである。このブログはアニメーションスタディーズ協会に属している。同協会のメンバーが編集者であるためである。ブログは、学者、アーティスト、ファンが自らの現在の考えを簡潔かつ迅速に発表できるインターネット空間となっている。そのため、関連する主題について深く洞察するには詳細に取り組むスペースは限られている。この機会を用いてアニメーションメディアとストーリーテリングの世界に対する高畑監督の貢献に対する私の認識をさらに深めたい。高畑監督のアニメーション映画に立ち戻り、戦後史における監督の経歴を再検討するが、その際、逸話でつづった記憶と彼の創造的な精神についての私の研究と理解を含んでいる。
著者
スーザン ネイピア
出版者
Japan Society for Animation Studies
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.127-135, 2020-09-30 (Released:2021-05-07)

本稿は、高畑勲の画期的な傑作である『かぐや姫の物語』を記憶、亡命、抵抗の役割の描出における観点から考察する。主として高畑の映画に焦点をあてる一方で、現代日本文学、日本のアニメーション、ディズニー映画の近年作『アナと雪の女王』の事例を取り上げ、記憶と亡命が近年の様々な文化形態においてどのように問題化されているかを示している。本稿の主要部分では、高畑が十世紀の原作の物語—故郷から仮の亡命における月の王女の物語—のほろ苦く諦めの境地を乗り越えて、真に革新的な芸術作品を創造しているのかを示す。原作に忠実であると同時に、高畑の映画はフェミニズムや環境破壊といった現代的な関心をはっきりと包含する情熱的な抵抗の核を含んでいる。高畑は、二つのオリジナルなシーンを追加することでこれを実現している。一つは、主人公が、父親の宮殿から脱出した自分の姿を幻想的に詳細に想像するときで、あからさまなフェミニストの抵抗である。第二の例では、高畑は、別の抵抗のビジョンを挿入する。この場合は音楽や子供そして歌詞を使用し、生命のビジョンや原作の物語の末尾にある運命的な諦念に感情的に挑む変更を提供している。
著者
鷲見 成正
出版者
日本アニメーション学会
雑誌
アニメーション研究 (ISSN:1347300X)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.35-40, 2020-03-31 (Released:2021-05-07)
参考文献数
11

人の歩行動作は身体の各部位間に生じる協応的運動関係から成り立つことから、実写映像とアニメーション映像のそれぞれについて歩行を表現する身体運動間の相関関係を調べてみた。歩行者の踵と他方の肩の運動を測って両者のプロットグラフが描く協応図を作成してみると、歩行者8名の実写映像から得た協応図は、リング状の複雑な形態を表し各人各様の細かな行為的表現を示す。一方歩行者3名のアニメーション映像から得た協応図は、三角型の単純な形態を表し相関的な結びつきの少ない各歩行者に共通する行動的表現を示した。いずれの映像にあっても意図伝達の手段として歩行動作は表現されるが、実写ではそれが複雑多様な運動形態をとりアニメーションでは単純で画一的な運動形態をとる。この違いは両者を理解するうえで重要と思われる。アニメーション映像では、実写映像に似せてより精度を高めた完成した形での動作表現が求められるのではなく、綿密に仕組まれた「未完成」が求められるからである。たとえ実写映像に比べて協応図に大きな違いがあったとしても、アニメーション映像から受ける歩行動作の印象はそれを表す実写映像と比べて大きな違いは認められない。その理由は精巧に仕上げられたアニメーション映像の「不完全」表現にあると考えられる。ここでの不完全は決して完全を欠いたものを意味するのではなく、それを受け入れた観客は心の中でより高度に完成された「完全」を認識できるよう綿密に準備された表現を意味する。アニメーション映像が実写映像と本質的異なる点は、心の働きを通して見る人に大きな感動と深い感銘を与えることができるような「不完全」表現を備えているからである。