著者
小田 雄一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.33-47, 2011-03

本論文では,食の差異から,差異の表象が生み出されるプロセスを考察する。いま,「差異の表象」が指示するものは,とくに人種についてである。異なる食習慣は,しばしば異なる<人間>の表象を生み出し,それらは知らずして差別と結びつきやすい。そうした過程を考えるうえで,ここでは,おもにユダヤ人の特異な食事の規定を題材とし,それが反ユダヤ主義とどのように接続されていたかについて焦点を当てる。反ユダヤ主義は,古代から現代まで連綿と続く人種主義のひとつの典型である。これらの考察を通して,根拠のない表象が,なぜわれわれにリアリティをもってしまうのか,ということを考える糸口としたい。
著者
小川 佐和子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.1-29, 2015-09-30

本稿では,帝政期ロシア期を代表する映画監督エヴゲーニイ・フランツェヴィチ・バウエル が独自の空間の美学を達成し,意識的な「映画作家」となっていったのかを論じている。他国 と異なるロシア映画固有の形式を踏まえ,監督以前のモスクワ絵画・彫刻・建築学校時代および舞台装置家としてのバウエルの半生を追い,つづいてその監督前史が後の映画製作にどのような影響をもたらしていったのか,バウエルにおける絵画性/パースペクティヴのスペクタクル性/映画におけるセノグラフィー/移動撮影による空間演出の諸観点から作品分析を施し,バウエル映画の過剰な視覚的特性を,映画以前の「芸術」と映画メディアの対峙として捉えた。バウエルによるパースペクティヴの実現は,映画という二次元性と三次元性が同居する特有の造形芸術メディアにおいて,絵画や舞台にはないより複雑なセノグラフィーを呈することとなる。 映画におけるバウエルの美学は,19世紀以前の古典的な美学規範に基づいており,演劇の舞台 装置や美術を映画に適応させるというそれ自体新奇でアヴァンギャルドな試みを実現した。
著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.65-87, 2012-03

本論は, フロイトにおける人間と必然性の関係をめぐる問題を, フロイトの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」論の読解に基づき考察したものである。フロイトは, 人間に否応なく立ちはだかる必然性について, しばしばアナンケーという言葉で論じながら, 人間は宗教的錯覚を捨てて, それに対峙していかなければならないと述べ, その態度を科学的態度としている。本論は, 晩年の文化論に見られるこうした問題系をフロイトが先取りしていたものとして, 彼の論文「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の思い出」を取り上げる。レオナルドは, 第一に, 宗教的錯覚を排し, 自然のアナンケーに知性を通じて対峙した人物として描かれている。しかし, レオナルド論を丹念に読むならば, 父性的影響を排することで可能となった知的な自然探求は, すぐさま, 常に幼年期の母との強い情動的関係に裏付けられた神経症的な思考強迫と境を接するものであることがわかってくる。知的探求と自然崇拝が結び付くようなこの母性的影響について, フロイトのほかのいくつかのテクストを参考にするならば, それは, 偶然的な現実を覆い隠そうとする錯覚のひとつであるという見方が可能となる。そこで, レオナルド論のうちに, この母性的錯覚に裂け目をもたらすものとしての偶然をめぐる主題を探すと, 自然に湛えられた潜在的な原因の闊入として構想された偶然の概念を見出すことができる。この偶然は, 必然性のうちに主体を埋没させる強迫的探求に対して, 主体が自らをひとつの作用因として世界へ介入させる行為と創造の側面から理解されるだろう。こうした必然性に参与する偶然への配慮こそがフロイトの科学的世界観の鍵であり, アナンケーを人間の変容の舞台として理解するための鍵である。 This paper deals with the problem of the relationship between necessity and humanity in Freud's thought, based on a close reading of his article "Leonardo Da Vinci and A Memory of His Childhood". Freud often argues about the inevitable necessity confronted by all humanity in terms of Ananke, insists that humanity should face it by abandoning all religious illusions, and classifies this attitude as that of Science. This problematic which is treated mainly in his late cultural essays, can be already found in the article on Leonardo. In this article, Leonardo is described as person who possesses a scientific attitude without any religious illusion. However, this attitude reveals itself as close to neurotic symptoms, fairly influenced by the mother's affect. This maternal influence, according to Freud's other articles, can be thought of as an illusion which conceals the contingent real. In fact, the problem of contingency is easily found in the article on Leonardo, where contingency is seen as the intrusion of potential causes inside the nature. This consideration about contingency is essential to Freud's conception of Science, and might enable us to understand Ananke as a stage of the transformation of humanity.