著者
毛利 晶
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.99, no.8, pp.p1404-1416, 1990-08

Im Jahre 7v. Chr. fuhrte Augustus Reformen durch, die die Verwaltung Roms und den dortigen Compitalkult betrafen. Durch diese Reformen wurde die Stadt in 14 regiones und in 265 vici eingeteilt, und jedem vicus ein Kollegium von vier vicomagistri vorangestellt. Die Tatigkeiten der vicomagistri, die jahrlich aus den Bewohnern jedes vicus erwahlt wurden, sind uns hauptsachlich durch archaologische Funde und Inschriften uberliefert. Die erst genannte Quellengattung, die vor allem aus Altaren besteht, steht uns dank der kurzlich veroffentlichten Untersuchung von M. Hano zur Verfugung. Auch die epigraphischen Quellen sind schon in Lexika und Handbuchern gesammelt, wobei aber nicht auf Vollstandigkeit gezielt wurde. AuBerdem haben wir jetzt einige neue Inschriften, die dort noch nicht bearbeitet Werden konnten. In der vorliegenden Arbeit wird zuerst versucht, eine moglichst vollstandige Liste der einschlagigen inschriftlichen Quellen aufzustellen, dann werden die Inschriften nach den Gattungen sortiert und schlieBlich werden sie auf die Fragen nach dem Wesen des Vicomagistrats und dem sozialen Stand der vicomagistri wie der ex-vicomagistri hin verarbeitet. Auch wenn viele Argumente schon allgemein bekannt sind, kann diese Arbeit dennoch einige neue Hinweise geben.
著者
森田 安一
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.108, no.1, pp.102-109, 1999-01
著者
内川 勇太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.10, pp.1-41, 2016

本稿は、主に集会で出された文書を用いて、「アングル人とサクソン人の王国」(c. 880-927)におけるマーシア人の集会を考察し、イングランドの政治的統合過程の解明を目指した。この時期のマーシアはウェセックス王権の支配下に置かれ、新たな政体の一部に統合されたと考えられているが、その統治の実態が具体的に考察されることはなかった。そこで本稿は初期中世西ヨーロッパの統治の中心である集会に着目して、当該時期のマーシアの統治実態を明らかにし、統合を促進した諸要因を探った。<br>第一章では、マーシア人の集会の、開催地、開催の時(時期・期間・頻度)、参加者、そこで扱われた事柄とその処理の過程を網羅的に調査し、当時のマーシアが集会を通じてそれ以前のマーシア王国と同様に統治されていたことを明らかにした。<br>第二章では、この時期のウェセックス王権のマーシアへの伸長を集会の文脈で捉え直した。その結果、ウェセックス王権はマーシア人の集会に選択的・部分的に関与することによって自らの利害を追求し、マーシアへ王権を浸透させていったことが明らかとなった。<br>マーシアとウェセックスで個別に開催された「アングル人とサクソン人の王国」の集会はのちの「イングランド人の王国」(927-)における王国集会とは異なって、マーシアとウェセックスの聖俗貴顕が交流し、イングランドの政治的統合を促進した場ではなかった。<br>第三章では、マーシアの聖俗貴顕が、チャータを通じてウェセックス王権を受け入れたこと、集会ではなく教会会議、軍事遠征、宮廷においてウェセックスの王と貴顕との関係を構築し、王国を越えた利害を形成したことを指摘し、それがイングランドの政治的統合のより重要な駆動力となったことを示した。<br>2つの集会を持つ「アングル人とサクソン人の王国」は、未だ統合の途上にあったウェスト=サクソン人とマーシア人という2つの民を統治するにふさわしい政体であった。
著者
井上 弘樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.61-87, 2016

本稿では、一九六〇年代から七〇年代の台湾での寄生虫症対策と、そこでの日本の医療協力に焦点を当て、医学分野において日台関係が再構築される過程を分析した。従来の研究では、一九四五年から一九五〇年代の台湾医学界の様々な場面に植民地期からの連続性が確認され、一九五〇年代から六〇年代にかけては、「米援」の下で台湾医学界の「アメリカ化」が進み、医学体系の「脱日本化」が図られたことが指摘されている。その一方で、一九五〇年代以降に日台医学界の関係の再構築が進展したことは等閑視されている。当該時期の日台の医学分野における関係の再構築をめぐる本稿の議論は、中国国民党政権と「米援」の下で台湾医学界の脱植民地化が進む中で、日本がそこにどう関わったのかという問題に通じる。<br>一九五〇年代以降、米援の下で台湾の医学制度や組織の「アメリカ化」が進展したことは確かである。ただし、それは必ずしも台湾と日本の医学界の関係断絶を意味せず、特に戦前の人的関係に支えられた学術交流という場面で、日台医学界の関係は再構築された。この関係は、一九七〇年頃に政府間の制度化された医療協力へと移行する。寄生虫症対策に限れば、当時の台湾では米援終了や国際機関からの寄生虫症対策支援の中止、及び疾病対策の変化に伴い、寄生虫症対策の技術や資金が不足していた。一方の日本は、寄生虫症対策の経験を生かした海外医療協力を推進し始めた時期にあった。<br>こうした状況下に始まる日本の医療協力は、環境衛生改善を中心とする台湾の従来の寄生虫症対策から、学校保健を基盤とする定期的な集団駆虫政策への転換を後押しした。ただし、台湾医学界でも回虫症研究や対策が着実に進められており、その成果は医療協力を含む寄生虫症対策に生かされた。他方、日本の寄生虫学界は、台湾での医療協力を通じて東アジアに再び活躍の場を見出し、その成功経験はその後の日本の寄生虫学の世界展開に繋がった。
著者
田中 一輝
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.2, pp.215-236, 2016-02
著者
海老根 量介
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.1, pp.1-38, 2016-01
著者
海老根 量介
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.1, pp.1-38, 2016

申は、西周期~春秋前期に河南省南陽付近にあった姜姓の諸侯国である。この申は春秋前期に楚に滅ぼされ、以後は楚の北方の大県として、楚の中原進出に大きな軍事的貢献をしたことがよく知られている。ところが『左傳』昭公十三年条や曾侯乙編鐘銘文、上博楚簡『靈王遂申』によれば、申国は楚に滅ぼされた後も存在していた。ただし申国はずっと存続していたのではなく、申県を構成する旧国人層の大部分によって、共王期後半~康王・郟敖期に復国されたと考えられる。<br>春秋後期の申の所在地については、信陽に結びつける説が近年勢いを得ている。しかし、それを支持する確かな文献・考古資料は存在せず、成り立ち難い。一方、上博楚簡『靈王遂申』・『平王與王子木』や彭氏家族墓といった新出史料によれば、申は南陽において復国され、申県と併置されていた可能性が高い。<br>申の復国は、春秋中期に中原と呉の二方面に対処しなければならなくなった楚が、軍事負担の増加した諸侯を懐柔し、楚王を中心とする国際秩序を保つために行った政策であった。申の旧国人層は復国によって心理的安定を得られるとともに、他の諸侯にも楚が小国を存続させる方針であることを知らしめる効果があった。<br>楚にとって諸侯軍は対外戦略のために必要な存在であったが、同時に潜在的な脅威でもあった。そのため楚は諸侯を懐柔するだけでなく、遷邑などの手段で諸侯を構成する国人層への介入を進め、その解体を徐々に図っていた。申国と申県の併置は、申県において国人層に頼らず民を直接支配する体制の確立を目指すとともに、申を分断して国人層を弱めるためでもあった。楚は春秋後期には諸侯を次々と滅ぼして直接支配下に置いていくが、それは民を兵役につけることが始められ、国人層の解体が進み諸侯軍の重要性が失われつつあったことが背景にある。すなわち申の復国は、春秋から戦国への過渡期という時代的特徴を極めてよく反映した施策であった。
著者
金子 龍司
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.12, pp.1989-2010, 2016-12
著者
鳥羽 厚郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.10, pp.42-67, 2016

本稿は、戦間期日本における「反骨の平和主義者」として著名な海軍大佐水野広徳の「平和論」を再検討する。<br>先行研究では、水野が第一次大戦の視察を契機として、「平和主義者」へと転身し、その後の水野の思想は、日本国憲法の源流の一つであるとして高く評価する見解が主流を占めてきた。しかし、「平和主義者」への転身後における水野の思想分析をほとんど行なわないまま、水野の思想を戦後と直接的に接続させることには問題がある。また、水野の論説に現れる国家自衛権の肯定や、合理的な軍備のあり方の模索といった事例は、どのように「平和主義」へ接続しうるのか、という疑問が残る。<br>そこで、本稿では、戦間期の水野の論説を詳細に分析することで、水野が「総力戦論者」と「平和主義者」という二つの側面を持ち、両者を結合させるものとして「戦争は利益にならない」とする「合理主義」を基底とし、「国力」という概念を通して戦争と平和を見通す「合理主義的平和論者」であるということを論証した。<br>水野の「平和論」は、独自な「平和主義」と「総力戦論」の相互補完関係によって成立する論理であった。水野はこの特性を利用し、「総力戦」対応策をそのまま「平和論」に接続させた。しかし、「世界の大勢」という流動的な事象に立脚してしまったが故に、反動に対抗する力を失った。満州事変以後、国家自衛の名の下に軍拡が肯定され、水野の「平和論」は依って立つ基盤を失ったのである。<br>しかし、水野研究は決して無意味ではない。水野は、一九二〇年代を通して自らの「平和論」を、単なる国家間の問題から個人や社会の問題へと発展させ、最終的には民族自決論へ接続させていった。それは、一九二〇年代の平和思想が持つ国際協調主義と反植民地闘争の両者を統一的に把握する一助となり得るのである。
著者
古賀 康士
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.1, pp.42-68, 2016-01
著者
平野 仁也
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.4, pp.522-539, 2016-04
著者
中村 博司
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.11, pp.1852-1876, 2016-11