著者
渡辺 久寿
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.13-26, 1994-12-10

本来、日記文学は、発想としてー人称を原理としているといえようか。しかし『和泉式部日記』のように、三人称的叙述と言われるものもあり、『和泉式部日記』自体を、他作とする見解もある。いったい、『和泉式部日記』を領導する主体を、和泉式部という一人称的語り手と考えていくべきなのか、三人称的にあるいは物語的に語っている他の主体を考えるべきなのか。そこで本稿では、『和泉式部日記』の「語り手」の存在を特に取り上げ、登場人物の「女」や、「官」との関わりを、その人称構造の様態から考えていき、その結果、この『和泉式部日記』は、一人称とも二人称とも三人称ともつかない、語りの主体の独自なあり様を持つことがわかった。「語り手」の意識が登場人物と重層し融合するという、『和泉式部日記』特有の、しかもきわめて日記文学的な人称構造を有し、それがまたこの『日記』の独自な世界のありようを創り出しているのである。今回はそれを、『和泉式部日記』の始発部分に絞って検討した。
著者
平川 千宏
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.92-77, 2002-03-01

戦後の日本社会で、1960年代から始まった市民運動、住民運動は、今日ではNPO、NGOの活動とも重なりつつ、社会的に大きな役割を果たしている。これらの運動のなかから膨大な資料が生み出されてきているが、その資料の収集、提供、保存の状況はどうなっているのだろうか。その状況を概観した上で、この分野における公立機関の役割、特に公立図書館、国立図書館の果たすべき役割について論じ、あわせて実践と研究を進めるための関係者のネットワークが必要であることを提起する。
著者
武田 武長
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.69-80, 1992-12-10

ユダヤ人に対する迫害・大量虐殺(ホロコースト)がナチ・第三帝国の犯罪の中でも特別なものとしてまず第一に挙げられなければならない最大の罪であるといって過言でないにもかかわらず、戦後ドイツの「過去の克服」の原点とまで呼ばれて評価されているドイツ福音主義教会常議員会の発表した一九四五年一〇月一九日の『シュトゥットガルト罪責告白』には、そのことについて直接的、明示的な文言は存在していない。ユダヤ人のホロコ-ストに対する戦後ドイツ福音主義教会の罪責認識は、いったいこの『シュトゥットガルト罪責告白』以降どのような歩みをたどって明確に得られるようになったのか、そしてその罪責認識にもとづいて直接的・明示的な罪責告白がなされるようになったのか、資料にもとづいて明らかにする。ユダヤ人に対する罪責認識の新しい局面はようやく一九六〇年代になって開かれ、ユダヤ人のホロコーストに対する教会の沈黙と無為というよりも、むしろユダヤ人について・ユダヤ人に対して教会が語ってきたことと行なってきたこと-伝統的なキリスト教神学的反ユダヤ主義-の中にこそ教会の罪責があるという認識に至った。
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.23-34, 1992-12-10

『日本永代蔵』の主題についての論究は現在まで多くの先学によってなされている。作品の主題は作品の文芸性の追及でなければならない。『日本永代蔵』の主題は西鶴が『日本永代蔵』で書いている本質性の究明でなければならなく、文芸性を捉えなければならない。『日本永代蔵』六巻六冊各巻五章合計三十の短篇小説集であるが、各短篇の主題について文芸性の観点から追及し究明した。巻一から巻四までと巻五巻六とは一度に書かれたものではなく、二度に分けて執筆されている事は文献学的・書誌学的な観点からもいいえるが、文芸の成熟度、文芸性の観点からもいうことができる。巻一から巻四までの作品は文芸として昇華されているが、巻五巻六の作品は教訓的・素材的未熟の作品である。『日本永代蔵』の主題の第一は世の人心の究明であり、第二は才覚・始末等人間の行き方、人生如何に生きるかの問題であり、第三は人間の力の限界、神の認識であり、第四は算用その他の町人生活の方法であり、第五は商業資本主義の社会構造の把握である。
著者
川口 清泰
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.302-292, 1996-12-10

シェイクスピアの問題喜劇『尺には尺を』の主要人物三人、アンジェロ、イザベラ、公爵には、人物としてさまざまな欠陥が感じられる。とりわけ、性に対して否定的であるという共通点を持つ。ルーシオ、オーヴァーダンなど性に深くかかわるコミカルな人物たちは、あまりに放埒である。劇の後半から登場するマリアナは、「ベッド・トリック」に賛成することによって性にかかわり、愛するアンジェロと結婚するが、彼女こそ作者の共感を得ている唯一の人物である。真撃な愛ゆえに夫の助命を願う彼女には、理屈の勝り過ぎた主要人物や無法にもなり得るコミカルな人物たちには向けぬ作者の暖かい目が注がれる。
著者
鈴木 武晴
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-31, 1988-12-15
著者
ウェイン シルカ
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.168-159, 1994-12-10

No actresses were used in Elizabethan theatres and it wasn't until after the Restoration in the 1660's that they made their debut in England. This essay examines the practice of female impersonation on the Elizabethan stage. Did audiences in Elizabethan time see a significantly different production of a Shakespeare play than modern audiences? Did boys impersonating the young female characters cause different meanings in the script? Even in Elizabethan times there was criticism of men and boys dressing as women on the stage. It was said to generate unhealthy sexual lust. The fact that female impersonation was a part of Shakespeare's theatre should cause moden scholars to consider the implications related to textual considerations and audience reception.