著者
別所 弘淳
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.66, pp._95-_108, 2017 (Released:2018-10-20)
参考文献数
23

日本密教における非情成仏論は、五大院安然(841~889~、一説915没)が『斟定草木成仏私記』や『菩提心義抄』において「非情独一で発心し修行し成仏する」ことを明確に表明して以来、主に非情が成仏することは前提とし、非情も発心・修行するか否かが問題の中心として論じられてきた(1)。 東密では、主に『即身成仏義』に引かれる『大日経』の「我即同㆓心位㆒。一切処自在普遍㆓於種種有情及非情(2)㆒(原文漢文)」や、同じく『即身成仏義』の「諸顕教等以㆓四大㆒為㆓非情㆒、密教即説㆑此為㆓如来三摩耶身(3)㆒(原文漢文)」の文を註釈する際に非情成仏がしばしば論じられてきたが、この場合においても「非情が成仏するか否か」ではなく、「非情が発心・修行するか否か」が中心命題とされ、実範(?~1144)・重誉(?~1143)・道範(1179~1252)・頼瑜(1226~1304)・宥快(1345~1416)といった東密を代表する学匠達は、ともに非情の発心・修行義を認める教説を立てている。 しかし、『釈摩訶衍論』論義の算題である「非情成仏」では、非情の発心・修行義は問題とされず、非情が成仏するか否かが論義の中心命題となっている。この「非情成仏」という算題は、『密教大辞典』には「釈論巻四随文散説決疑門に当㆑知有㆓仏性㆒(原文漢文)とあるに就き此の有仏性の義は非情に通ずと云ふべきや否やを論ずる算題。東密新義派に用ふ。」とある通り、新義真言のみで立てられた算題である。 この「非情成仏」の算題は、その源流を頼瑜撰『釈摩訶衍論愚草』(以下『釈論愚草』)に求めることができ、その後の根来中性院第四世聖憲(1307~1392)撰『釈論百条第三重』(以下『釈論第三重』)、智積院第七世運敞(1614~1693)撰『釈論第二重』等の論義書にも収録されている。しかしここで問題となるのは、頼瑜と聖憲が「答」として正反対の見解を示す点である。すなわち、頼瑜はこの「有仏性」には非情も含まれる(非情成仏の肯定)と決答し、聖憲はこの「有仏性」には非情は含まれない(非情成仏の否定)と決答するのである。 そこで本稿では、この頼瑜と聖憲の論義の相違に注目し、なぜこのような相違が起きたのか少しく検証してみたい。

1 0 0 0 OA 法衣について

著者
那須 政隆
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-31, 1961-03-21 (Released:2017-08-31)
著者
高井 觀海
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.1940, no.14, pp.1-27, 1940

1 0 0 0 OA 諸・転法論考

著者
白石 凌海
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.83-102, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
7

「津波は天罰」 このように発言したのは、東京都の石原慎太郎知事(当時)である。 東日本大震災の発生は平成23年(2011)3月11日。その3日後、蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を東京都内で受けた後、記者団に語った、その主旨である。 翌日の毎日新聞(3月15日付け)は、三段抜きで「石原氏〈津波は天罰〉」を見出しに掲げ、取材の記者は「〈天罰〉と表現したことが被災者や国民の神経を逆なでするのは確実だ」と批評し、発言の重要性を指摘した。都知事とて、出し抜けに「津波は天罰」と語ったのではなく、かかる発言に至るにはそれなりの道筋がある。しかしそれは背後に追いやられ、ことさら「津波は天罰」だけが注目されたのである。 同日(15日)、石原知事は先の発言を謝罪し、撤回した。 読売新聞(3月16日付け)の報道する見出しは小さく、「〈天罰〉発言を都知事が撤回〈深くおわび〉」とある。同紙はまた「都によると、この発言に対してメールや電話による意見や抗議が殺到していた………」と伝えている。 記者団を前に公言した、その言葉を翌日には「深くおわび」して「撤回」するとはいかなる事態なのか。同席した記者が、聞く者の「神経を逆なでするのは確実」と危惧したように、事実、抗議が殺到した。だからひとまず謝罪したのであろうか。 いずれにしても以後、続報が紙面に表れることなく、一件落着したようである。 一方、しばらくするとどこからともなく、次の言葉が巷に浮上してきた。 「しかし 災難に逢(あう)時節には 災難に逢(あう)がよく候 死ぬる時節には 死ぬがよく候 是(これ)ハこれ 災難をのがるゝ妙法にて候」 越後の良寛の言葉である。 ここで災難とは文政11年(1828)に発生した地震であるから、こちらは二百年ほど前に残された言葉が、今日、人々に思い出され流布したのである。 大災害に襲われ、それこそ様ざまな言葉が出現、飛び交った。あるものはすでに衰退するも、あるものは現在なお生気を失っていない。 本論は「災害における言葉」に関心を寄せ、仏教的観点から言葉が如何なる働きをなしているのか、すなわち転法輪との関係を論究する試みである。
著者
小室 裕充
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.199-209, 1991

近世における仏教信仰は、寺院型の仏教信仰ではなくて、庶民型の仏教信仰であった。出家者指導型でなく、篤信在家の先達による仏教信仰であった。そのことは真言系についてみると大師信仰の大師講(送り大師遍路)であり、観音信仰による観音講(三十三ヵ所巡拝)などの講組織であった。庶民の仏教信仰は出家型ではなく、庶民奉仕の大師伝説型の信仰であった。出家者の仏教解釈ではなくて、庶民による大師教学であり、真言教学であった。それは封建制社会の体制内のものであるが、人間らしく生きていく教えであり、平等思想的な教えであった。真言の尊さは誰もが救われると説かれていたことだと受けとめていた。寺院法度などの仏教統制のなかで、寺院型仏教信仰は差別戒名をつけるような教学であった。そんな伝統教学に絶望し、二宮尊徳の生き方に教えられ、新しい出家者のあり方を求めた真言僧もおられた。