著者
大谷 由香
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.177-197, 2018

入宋僧俊芿(一一六六~一二二七、入宋:一一九九~一二一一)は、自身が留学前に日本で学んだ日本天台の円戒思想を中国に伝えた。俊芿は留学中、如庵了宏(?〜一二〇〇〜一二一一頃)に師事し、俊芿同様に了宏に師事していた鉄翁守一は、俊芿が紹介した日本天台の菩薩戒単受の思想に影響され、新しい南山宗義の解釈を主張するに至る。これに反論したのが上翁妙蓮(一一八二〜一二六二)である。守一・妙蓮両者の間には論争が繰り返された。<br> 商船に乗って日中間を往来する多くの日本僧が二人に師事した。南宋代南山宗内の論争は、彼らによって、リアルタイムで日本に伝えられたと考えられる。<br> 特に入宋して妙蓮に師事した真照(?〜一二五四〜一三〇二、入宋:一二六〇〜一二六三)は、後に東大寺戒壇院の長老となる凝然(一二四〇〜一三二一)と同門であった。このため、凝然は妙蓮に至る系譜を南山宗の正統に位置づけ、日本においては守一が異端、妙蓮こそ正義と決定している。さらに凝然は、この論争の後、中国においては正しい戒律が行われなくなったと述べ、正統は日本にこそ残ったと示唆する。
著者
西田 幾多郎
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.1916, no.3, pp.11-14, 1916

5 0 0 0 OA 鎌倉仏教

著者
永村 眞
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.66, pp._1-_30, 2017 (Released:2018-10-20)
参考文献数
7

本論ではまず「鎌倉仏教」とは何かを考えておく必要がある。この「鎌倉仏教」という概念が、如何に定義されてきたのかを確認するため、「鎌倉仏教」を前面に掲げた先行研究をたどるならば、まず赤松俊秀氏の『鎌倉仏教の研究』(1957年)・『続鎌倉仏教の研究』(1966年)があげられる。両著は、「親鸞をめぐる諸問題」・「一遍について」・「慈円と未来記」、「親鸞をめぐる諸問題」・「源空について」・「覚超と覚鑁」・「愚管抄について」・「神像と縁起」等の論文をおさめ、主に浄土門の研究が「鎌倉仏教」の柱とされ、遁世者を通して顕教を見るという研究視角をとっている。次いで佐藤弘夫氏の『鎌倉仏教』(1994年)では、「法然の旅」・「聖とその時代」・「異端への道」・「仏法と王法」・「理想と現実のはさまで」・「襤褸の旗」・「熱原燃ゆ」・「文化史上の鎌倉仏教」等の論文において、顕・密を意識しながらも、浄土・法華に傾斜した関心とその展開を図っている。さらに仏教学・思想史という立場から書かれた末木文美士氏『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』(1998年)には、教理史へのこだわりのもとで、「鎌倉仏教への視座」・「顕と密」・「法然とその周辺」・「明恵とその周辺」「本覚思想の形成」・「仏教の民衆化をめぐって」等、黒田俊雄氏が提唱した「顕密仏教」の概念に基づく一連の研究への批判と対案の模索がなされている。 これら三氏の先行研究のみで結論を導くことは憚られるものの、いずれも「鎌倉仏教」という要語について明確な規定はなされておらず、「鎌倉」時代に展開した「仏教」という枠を越えるものではない。また時系列で「鎌倉仏教」と連結する「平安仏教」と関連付ける試みについても、共通理解が得られたとは言えない。また先行研究に共通するものは、祖師・碩学の著述によって「鎌倉仏教」の性格付けが試みられており、その検討作業のなかで、厚みのある仏教受容の検討、つまり僧侶集団による受容の解明は必ずしも重視されてこなかった。 「鎌倉仏教」を規定する上で、時系列上の存在意義、教学的な特質、社会的な受容のあり方など、その特異性を見いだすための指標は想定されるものの、それらを明快に語り尽くした研究は見いだし難く、また容易に解明できる課題とも思えない。 この「鎌倉仏教」を内包する中世仏教のあり方を検討する上で注目すべき成果は、黒田俊雄氏により提唱された「顕密仏教」という概念である。日本仏教史において通説として根付いていた「鎌倉新仏教」と「鎌倉旧仏教」の歴史学的な評価を大きく変えたのが、同氏の『日本中世の国家と宗教』・『王法と仏法』・『寺社勢力』等の一連の著作であった。黒田氏は、「密教」を基調に顕教が教学的に統合されるという認識を踏まえ、宗派史を越えた仏教史の構想のもとに、実質的に聖俗両界で正統の位置をしめる「顕密仏教」(「旧仏教」)と、異端派(「新仏教」)との対照を顕示した。すなわち中世に受容された仏教の正統として「旧仏教」を位置づけ、政治史(国政史)と密着した仏教のあり方こそが「顕密仏教」の正統たる所以とする。ここに顕在化する「正統」と「異端」の両者が分岐する時代のなかに「鎌倉仏教」の特質を見いだしたとも言える。しかし「正統」と「異端」という二極化した理解に対して、「異端」とされた浄土宗・真宗研究の側からの反論に加えて、両極化では説明しきれない多様性が、伝来した膨大な寺院史料の中から明らかになっている。 そこで中世仏教、とりわけ「鎌倉仏教」を、黒田氏の提示した密教を基盤におくとする仏教継承の母体としての寺院社会という側面から見るとともに、その検討素材として寺院史料の中核をなす教学活動の痕跡とも言える「聖教」に注目したい。諸寺院に伝来する多彩な「聖教」から、二極化では説明しきれない幅広い仏法受容の有様が実感される。すなわち「寺」・「宗」派という枠を越えた「聖教」の実相から、中世における仏法受容の多様性を検討する可能性を見いだすことにしたい(1)。 ここで「聖教」の語義であるが、本来ならば釈尊の教えを指すが、併せて諸宗祖師の教説へと拡がり、さらに「諸宗顕密経論抄物等」(「門葉記」巻74)という表現に見られる、寺僧による修学・伝授・教化に関わる幅広い「抄物」等の教学史料という広い意味で用いられるようになり、しかもその語義は時代のなかで併存していた。そこで近年の研究・調査においても使われる、「寺僧の修学・伝授・教化等のなかで生まれた多様な教学史料」という広い意味で「聖教」を用いることにする。 本論では、諸寺に伝来する「聖教」を素材として、層をなす僧侶集団が修学活動のなかで如何に仏法を受容し相承したのか、特に真言「密教」を中核にすえ、一側面からではあるが時代に生まれた特徴的な現象に注目して「鎌倉仏教」の特質を検討したい。
著者
佐々木 大樹
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.111-138, 2021 (Released:2022-04-01)
参考文献数
190

「〓〓〓〓〓」は胎蔵大日如来の五字真言とされ、真言密教において厳密に師資相承されてきた。その一方で五字真言は民間に流伝し、災難を除き、病気や怪我を治す一種の呪いとして用いられてきた。本論では各都道府県より刊行された各種『県史』等を中心に、民間において五字真言がいかに信仰され、流通されたのかを調べた。具体的には功能別に様々な事例を整理し、Ⅰ 毒害を避ける(ⓐ蛇除けとその解毒 ⓑ蜂除けとその解毒)、Ⅱ 傷病を治す(ⓐ火傷 ⓑ歯痛 ⓒ止血 ⓓその他の傷病)、Ⅲ その他の効能、という細目を設けて、その由来等を論じた。しばしば五字真言は民間において転訛し、前後に意味深長な言葉が加えられたが、蛇除けには蕨やナメクジ、火傷の治療には「猿沢池の大蛇」、止血ならば「血は父母の恵み」といったように、言葉と功能には一定の法則性があることが判明した。
著者
水野 善文
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.0103-0122, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
86

日本における金毘羅信仰については、讃岐象頭山(現在の金刀比羅宮)を中心に江戸中期以降に拡大したこと[守屋:303]をはじめ、他の神仏の信仰と関連する点もふくめ、変遷の歴史について様々な観点から多くの研究がなされている[近藤1987、守屋1987、大森2003など]。 金毘羅が異国の神の名であること、もしくは、ながくそう解釈されてきたことは、あらためて念をおすまでもない。はやくに黒川道祐が「讃岐金毘羅は天竺神にて、摩多羅神の類也」(『遠碧軒記』上一)といい、松浦静山も「いつしか竺神の名を借り用ひしにや」(『甲子夜話』巻四六)と指摘していたように、古代インドの神話にあらわれるバラモンの神Kumbhiraに遡源するというのが、古来の通説である。クムビィラもしくはクビラとは、ガンジス川にすむ鰐を神格化して信仰の対象としたものだという説明も、相応に流布されている。[守屋:303] とあるように、金毘羅の原語はサンスクリットのクンビーラ(Kumbhīra)であるとされる。ここでは、日本における金毘羅信仰史には全く触れず、クンビーラに関して、その故地であるインドの諸文献のみを資料として整理することを目的とする。結果として、若干、通説に修正をくわえることになるかもしれない。 なお、本論は、筆者が本務校において指導した香川県琴平町出身の学生による卒業論文1)に啓発されているが、結果的には、全く内容が異なるものとなった。 先に引用した守屋の紹介にあるとおり、江戸初期の医師であり歴史学者でもあった黒川道祐(1623-1691)がすでに「讃岐金毘羅は、天竺神にて摩多羅神の類也2)」 [黒川:32]と述べ、これに発したか否か定かではないが、今日にいたるまでの通説は、少なくとも江戸初期には存在していたことになる。比較的最近も、 まず金刀比羅だが、その名はインドの古代語であり、仏教経典を書き記したサンスクリット語の「クンビーラ(kumbhīra)」の音写語で、ガンジス川の大河に住む鼻の長い鰐を神格化した水神である。観音菩薩に供奉する二十八部衆の一尊であり、『大般若経』を守護する十六善神にも数えられる。またこのクンビーラは「宮毘羅」とも表記され、薬師如来に仕える十二神将の筆頭格である「宮毘羅大将」とも同一神である。[舩田2011: 125]([羽床1995][宮元1988: 88][西岡2000: 126]もほぼ同様に紹介している。) とある。
著者
疋田 秀
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.489-508, 2020 (Released:2021-04-06)
参考文献数
14

浄厳述『臨終大事影説』は、浄厳(一六三九~一七〇二)が霊雲寺における口述を観輪という僧侶が聞き書きしたものであり、江戸時代の真言宗の臨終行儀について詳細に説かれている文献である。現在、確認できる写本は、京都大学の図書館に所蔵されている『臨終大事影説』と、智積院に所蔵されている『臨終大事私記』との二本の存在が確認されている。本論では京都大学蔵本の『臨終大事影説』を底本として扱い、智積院所蔵の『臨終大事私記』と校訂していき、翻刻をしていく。そして、『臨終大事影説』に説かれている内容を確認していきながら、他の真言宗諸師における臨終行儀と比較して、『臨終大事影説』の特徴を見出すことが本論の目的である。
著者
宇都宮 啓吾
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.453-472, 2016

稿者は、前稿(1)において、智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』(53函8号)について、次の二つの記事を手掛かりとしながら、<br><br>○頼賢の法華山寺での活動<br>(略)遁世ノ間囗ノ/峯堂(法華山寺)ニヲヂ御前ノ三井寺真言師ニ勝月(慶政)上人ノ下ニ居住セリ/サテ峯堂ヲ付屬セムト仰アリケル時峯堂ヲハ出給ヘリ其後律僧ニ成テ高野山一心院ニ居其後安養院ノ/長老ニ請シ入レマイラセテ真言ノ師ニ給ヘリ (6裏~7表)<br><br>○頼賢の入宋遍知院御入滅ノ時此ノ意教上人ニ付テ仰テ云ク我ニ四ノ思アリ遂ニ不成一死ヌヘシ 一ニハ一切經ヲ渡テ下●酉酉ニ置キタシ二ニハ遁世ノ公上ニ隨フ間不叶●死スヘシ 三ニハ法花經ヲ千部自身ヨミタカリシ不叶 四ニハ青龍寺拝見セムト思事不叶頼賢申テ云ク御入滅ノ後一々ニ四ノ御願シトケ申サル其後軈遁世セリ軈入唐シテ五千巻ノ一切經ヲ渡シテ下酉酉ニ經藏ヲ立テ、納也此時意教上人ハ青龍寺拝見歟不見也御入滅後三年ノ内千部經ヨミテ結願アリ四ノ事悉ク皆御入滅後叶給ヘリ(6表~6裏)<br>主として、以下の如き四点について指摘した。<br><br>①智積院新文庫蔵『醍醐祖師聞書』は、従来、奥書の類による確認でしか叶わない、意教情人頼賢の高野山登山前の法華山寺での活動や頼賢入宋の記事を含む新発見の「頼賢伝」資料として位置づけられる。<br>②法華山寺慶政を頼賢の「ヲヂ御前」とする記事から頼賢と慶政との関係の深さが確認できると共に、別の箇所では「意教ノ俗姓ハ日野(ヒノ、)具足也」(5裏)とする記述の存することから、頼賢の出自についても新たな資料が得られる。<br>③②を踏まえるならば、本書が慶政の出自に関わる新資料の提示ともなっていることから、慶政を「九条家」出身とする従来説との関連を考える必要が存し、その意味で、慶政の出自に関する再検討が俟たれる。<br>④本書の「頼賢伝」(頼賢の入宋と法華山寺慶政との関係)は、意教流、特に、東寺地蔵院流覚雄方相承の中において伝えられていたものと考えられる。また、本書が、家原寺聖教の一つであることから、家原寺を拠点とした律家側の資料として文章化されたものと考えられる。<br><br> 前稿においては、新たな「頼賢伝」資料の提示を中心とした、本書の紹介に主眼が存したため、本書の成立の背景や本書の記事を手懸かりとした分析には至っておらず、この点に関する検討の必要性を感じる。<br> そこで、本稿においては、本書分析の一つとして、本書の成立の〝場〟について考えると共に、本書の記事を手懸かりとした東山と根来寺とを巡る問題についても検討したい。
著者
佐々木 大樹
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.0263-0282, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
25

初期密教における重要な尊格として、変化観音・金剛手等とならび、仏頂尊の名を挙げることができる1)。仏頂尊は、釈尊が具えた三十二相のうち、頂上肉髻相を尊格化したものと考えられている。仏頂尊は、七世紀頃に初めて文献上に登場した初期密教を代表する仏尊であり、以後の経軌、例えば『大日経』『金剛頂経』等に継承されていった。仏頂系の経軌は、共通して組織的な儀礼(特に灌頂)をもち、また部族(kula)の概念を導入する等、両部大経に与えた影響も大きいと評されている2)。 仏頂尊は、数多くの密教経軌に登場し、その名称・種類は様々であるが3)、その中でも諸仏頂を総べるものとして頂点に君臨したのが一字金輪である。またその一字金輪の真言「ノウマクサマンダボダナン ボロン」(namahsamantabuddhānāṁ bhrūṁ)は、絶大な力を有する呪句とされ、真言宗では主に修法・法要の成就を促す目的で読誦されることが多い。本稿では便宜上、一字金輪の真言を「ボロン呪」と呼ぶこととしたい。
著者
粕谷 隆宣
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.223-238, 2020

<p> 鎌倉時代の高僧・明恵上人高弁(一一七三~一二三二)は、その学問の基盤を華厳においていた。華厳宗では『起信論』を非常に重視するため、明恵の著作に『起信論』が反映されるのは当然ともいえようが、正面から扱った研究は少ない。</p><p> そのなかで前川健一氏の論考は、明恵の「人法二空観」に着目された。これは本稿でも検討する重要な項目である。しかし、明恵における『起信論』の全体的波及には、いまだ不明となっている部分も多い。その意識から、ここでは実際の『起信論』本文と比較して研究を進めた。</p><p> その結果、明恵が「名利を離れる」典拠として、『起信論』冒頭にこの記述があったことが確認された。明恵の思想の源流に、この「名利観」は厳然としてあり、それは菩提心から三宝礼拝へと展開するための、根本思想と位置づけられる。</p><p> 名利の解釈は、そのまま人法二無我の証得へと繋がっていき、「菩提心・三宝」を包摂するという、一大真如観へと展開していったとみる。</p>
著者
宮坂 宥勝
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.53-76, 1998-03-31 (Released:2017-08-31)

いうまでもなく、阿字本不生・本不生は真言密教の教理、実践の根幹をなすものであり、ことに阿字観はまさしく阿字本不生を教学的な基盤としている。したがって、古来、阿字本不生・本不生に関する著作研究は数少なくない。しかも、それらのほとんどすべては阿字本不生を自明の理として、それを前提としているかのようである。だが、阿字本不生・本不生にはさまざまな問題がふくまれている。従来の解釈や理解の仕方を紹介して、どこに問題点があるかを明らかにしたい。そして、それらの問題をどう考えるべきか、また本不生に関わる空の問題を問い直してみたい。
著者
米澤 嘉康
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.0165-0176, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
14

仏伝の記述において、五比丘に対する初転法輪の直前に、異教徒であるウパカとの邂逅エピソードが挿入されている。本稿は、特にパーリ『律蔵』「大品」において、そのエピソードにどのような意義があるかを明らかにすることを目的とする。そのエピソードついては、ウパカに対して釈尊の説得が失敗した、と解釈される場合が多い1)。すなわち、釈尊自身も順風満帆な伝道活動を送っていたのではないのであるから、仏教教団の出家者たちも失敗に落胆することなく、伝道活動に従事せよというメッセージが含まれているというものである。 このエピソード自体は、仏伝資料の成立と発展という観点では、決して最古層に属するプロットではないようである2)。であるならば、初転法輪の直前に、あえて失敗例としてのエピソードを挿入したという解釈を見直す必要があるのではないか? そこで、本稿では、このウパカとの邂逅エピソードが初転法輪の直前に置かれているというその意義について、テキスト編纂の意図に顧慮しながら、検討することとしたい。 本稿の概要は以下のとおりである。まず、パーリ『律蔵』「大品」における、ウパカとの邂逅エピソード直前までのプロット構成を確認する。そして、当該パーリ語テキストならびに『南伝』の和訳を引用し、その内容について検討する。さらに、ウパカとの邂逅エピソードが他のテキストでは、どのように取り扱われているかを概観しつつ、パーリ『律蔵』「大品」との差異等を指摘する。そして、最後に、ウパカとの邂逅エピソードの意義について、私見を述べることとする。
著者
原 隆政
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.0049-0069, 2020 (Released:2021-04-06)

これまでの仏教研究の内、モルディヴ仏教に触れるものはほとんど無かった。その理由は分からない。仏教遺跡として集成された国立博物館のほとんどは2012年、イスラーム過激派に依って破壊された。従って、我々「世界宗教探査隊」の2008年に撮影した遺跡の類は、貴重な資料となった。また、今後モルディヴ仏教の研究には発掘と言う手間が介在することになる。我々は、更に2010年・2013年と仏教遺跡の探査を続けた。かたや教化という視点からは、当仏教の盛衰を分析することから現代仏教教団に資するアイデアが見つかる。
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.53-79, 1995-03-31 (Released:2017-08-31)

真言密教(東密)系の阿弥陀如来像とされる紅頗梨色阿弥陀如来像は、頭上に五智の宝冠を戴き、身色を紅くして、阿弥陀如来の三昧耶形である金剛杵を茎とする蓮華を台座としてその上に坐す、特異な形式の像として知られている。その典拠は弘法大師空海作とされる『無量寿次第御作』『紅頗梨秘法』とされるが、宝冠を戴く阿弥陀如来像の成立は、空海時代よりもかなり下がると考えられる。また阿弥陀法次第の道場観では、種子・三昧耶形・本尊形の三種を順次変化させて観念する次第であって、三昧耶形と本尊形とが同時に同一画面上に現れることはあり得ない。そこで現在の紅頗梨色阿弥陀如来像がどのようにして成立したのか、儀軌から道場観へ、道場観から実際の図像へという過程を、図像の直接的典拠である道場観を中心に考察したい。