著者
中村 本然
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.96-137, 2018 (Released:2019-03-30)
参考文献数
110

『釈摩訶衍論』は修行論として、止観の法門を重視する論を展開する。修行者にとって魔事は克服すべき課題であり、『釈摩訶衍論』の論主にとっても念頭から離れることはなかった。「広釈魔事対治門」では、魔・外道・鬼・神の四種の仮人について詳細な考証が施されている。中でも修行者を迷わせる外道に多方面からの検討がみられる。『大乗起信論』の注釈書である元暁の『起信論疏』には、諸魔を天魔、鬼を堆愓鬼、神を精媚神とする。法蔵の『大乗起信論義記』は元暁の解釈を引き継ぐ姿勢を窺わせる。報告では、止観の修行に注目した『釈摩訶衍論』の論主の趣旨に迫ることにした。
著者
岡部 光伸
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.185-196, 1994-03-31 (Released:2017-08-31)

室町時代に日光山寂光寺の僧、覚源によって「釘抜念仏」が始められ寂光寺が念仏道場として発展すると共に日光修驗者によって「釘念仏」が諸国に伝えられた。釘念仏とは死者は生前の業により地獄に落ちると、体に四十九本の釘を打ちこまれ、その打たれる時の苦るしみからのがれる為に釘を抜くのであるが、釘一本抜くのに念仏一万遍を唱え、合計四十九万遍念仏を唱えるのである。この様な釘念仏は日光より全国各地に相承され上総の国にも今現在釘念仏として二つの地域で葬儀終了後、初七日の行事として行なわれており、日光寂光寺と上総の二地域の三地点に伝えられておる念仏について比較してみようとするものである。
著者
小島 教知
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.139-152, 2021 (Released:2022-04-01)
参考文献数
9

日本雅楽の音律は、中国の十二律、また西洋の音律(十二平均律)と比較するとき、各音律の特性上、近似という形で比較することが多い。本論文では、西洋の音律としてピュタゴラス音律を用いることによって、これらの音律を近似ではなく正確に比較し、中国の音律と日本雅楽の音律それぞれ対してピュタゴラス音律の音を対照させた。理論的に比較をする過程で、これら三つの音律は同時には比較できないこと、また日本雅楽の音律には不確定な音高が存在することも示した。本論文後半では中国および日本の階名(宮・商・角・徴・羽)と西洋の階名(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)との比較を行った。そこでは中国の階名と西洋の階名はきちんと対照できるのに対し、日本の階名は意味が不確定であることを示した。最後に、階名の接頭辞「変」「嬰」と、西洋の♭・♯を比較し、その原理が異なることを示した。
著者
小峰 弥彦
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.1-14, 1989-03-31 (Released:2017-08-31)
被引用文献数
1

『宗秘論』はかなり大部な著作にもかかわらず、今まであまり研究がなされなかった。また、完全な写本が無いためか、欠字があるなど、まだ文献学的にも充分な研究がなされていない。それ故、内容的にもまだく問題が数多く存在する。そこで、今回の論文では『宗秘論』の基礎的研究を行なった。具体的には、勝又俊教・村岡空の両先生の研究成果をもとにいくつかの問題点をとり上げ、テキスト上の問題を中心に、さらにはそこから派生したと思われるいくつかの間題提起を行なうものである。
著者
別所 弘淳
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.411-428, 2020 (Released:2021-04-06)
参考文献数
39

本稿は、日本密教において「教主」を論ずる上で問題となる、「大日如来と釈迦との関係性は如何なるものなのか」という「大釈同異論」について論じたものである。大釈同異論とは、大日如来と釈迦を同体と見るのか、別体と見るのかという議論である。従来、台密は大釈同体、東密は大釈別体を主張するとされてきた。 しかし、東密諸学匠の記述を改めて精査してみると、従来言われていていた、「東密は大釈別体」とは異なる見解が多くみられた。すなわち、東密内で大釈別体を支持する学匠はごく一部であり、多くの学匠が大釈同体を主張しているのである。 したがって本稿は、従来言われていた「東密は大釈別体を支持する」という見解を否定するものである。
著者
下田 正弘
出版者
CHISAN-KANGAKU-KAI
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.051-060, 2016 (Released:2019-02-22)

イスラム思想研究の泰斗、井筒俊彦は、さまざまな言語で記された古典一次文献の精読を根拠として得られた広く深い知見をもって東西思想の比較研究を進めた。その結果、東洋思想、あるいはむしろ非西洋近代思想には「共時論的構造」があることを看取し、その代表的事例として大乗仏教思想を論じた。遺作となった『意識の形而上学』における『大乗起信論』理解には、言語を媒介としつつ意識と存在を照らし出す思想の構造がみごとに示されている。 井筒が明かす「東洋思想」には、「西洋思想」の歴史において一貫した課題でありつづけた「時間」の問題が表立っては登場せず、存在をめぐる思索の運動があくまで「空間」的に表出されている点が目をひく。この空間は、だが、もとより外的空間ではなく言語空間であり、井筒自身はそうした表現は取っていないものの、言語の存在自体を可能ならしめる「場」を隠喩的に表現したものにほかならない。 ここで注目すべき点は、こうした特性をもつ「東洋思想」を理解する井筒には、言語が仮象であることが自覚され、したがってここにいう言語空間あるいは場は、仮象の空間であり場であると、明瞭に意識されている点である。「形而上学の究極において言語はその機能を失う」のである。だが、じつは言語の機能のこの限界点が照射されるからこそ、その限界領域において意識と存在の問題が言語によって生産的に構成されている瞬間が浮き彫りとなる。限界点はたんなる終点ではなく、未知の可能性出現の起点であり、両者の起滅が同時に明らかになる地点である。 井筒の思想構築の特質は、テクスト内の言説の展開に忠実にしたがいつつ、限られた数の鍵概念に考察の焦点を合わせ、それらが相互に反発、融合しながら、思想体系のダイナミズムを構成してゆくさまを再現する手法にある。ミクロなレベルの精緻な読みから開始され、語の意味の微妙な震動をとらえつつ、それらがしだいに螺旋的に次元を上昇し、やがて大きな安定的思想構造に帰着する運動を辿る思索は、余人の追随を許さぬ鋭敏な言語感覚によって支えられている。 概念の卓越した分析をなす井筒の研究に足りないものがあるとすれば、分析が概念を超えて、文やテクスト全体への広がりにまで及ばない点にある。そのため、著者性や読者性といったテクスト論は「東洋思想」の射程に入ってこない。それは言語のもつ行為遂行論的側面への配慮の不足であり、場合によっては社会性、歴史性、倫理性の欠如につながる可能性もある。 (注:本論は日本宗教学会第74回学術大会(2015.9.6創価大学)で発表した内容の英文版である。そのため本要旨は『宗教研究』第89巻別冊(2016.3発刊予定)所収の要旨と重なりがある)
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.123-166, 1991-03-31 (Released:2017-08-31)

石山寺の校倉聖教中には『三昧耶戒儀』(一本は『三昧耶戒』)と称する、平安中期から鎌倉にかけての四本の写本が存在する。この四本はうち二本は同本であり、実際には三種であるが、共に前段に三昧耶戒に就いての解説を、後段には三昧耶戒作法を置き、実際の灌頂に際して三昧耶戒授戒に於る戒体として用いられたものであろう。そして此等の前段の三昧耶戒に就いての解説は、一本は『平城天皇灌頂文』第二文であり、一本は『三昧耶戒序』であり、もう一種二本は新出の文献である。又、後段の三昧耶戒作法は「秘密三昧耶仏戒儀」又は「授発菩提心戒文」と称しており、現行の『秘密三昧耶仏戒儀』と『三十帖策子』所収の『授発菩提心戒文』との中間的な内容であり、現行の『秘密三昧耶仏戒儀』の成立・伝承の過程を明らかにする資料となると思われる。今回は此等の写本を翻刻し、広く学界に紹介しようとするものである。