著者
中村 本然
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.96-137, 2018

『釈摩訶衍論』は修行論として、止観の法門を重視する論を展開する。修行者にとって魔事は克服すべき課題であり、『釈摩訶衍論』の論主にとっても念頭から離れることはなかった。「広釈魔事対治門」では、魔・外道・鬼・神の四種の仮人について詳細な考証が施されている。中でも修行者を迷わせる外道に多方面からの検討がみられる。『大乗起信論』の注釈書である元暁の『起信論疏』には、諸魔を天魔、鬼を堆愓鬼、神を精媚神とする。法蔵の『大乗起信論義記』は元暁の解釈を引き継ぐ姿勢を窺わせる。報告では、止観の修行に注目した『釈摩訶衍論』の論主の趣旨に迫ることにした。
著者
川﨑 一洋(一洸)
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.0249-0262, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
46

纔発心転法輪菩薩(Sahacittotpādadharmacakrapravartin / Sahacittotpāditadharmacakrapravartin)は、『理趣経』系の八大菩薩(金剛手・観自在・虚空蔵・金剛拳・文殊・纔発心転法輪・虚空庫・摧一切魔)のうちの一尊であり、『理趣経』や『真実摂経』(『初会金剛頂経』)に登場する。その名は、「心(思い)が起こるや否や法輪を転ずる者」を意味する。この菩薩の漢訳尊名は訳者や経典によって区々であり、密教経軌においてはしばしば金剛輪菩薩とも呼ばれるが、本稿では一貫して、「転法輪菩薩」という略称を用いることにしたい。 転法輪菩薩の、密教以前の大乗経典における尊格史については、すでに谷川泰教氏による詳細な研究がある1)。『ラリタヴィスタラ』に語られる仏伝では、成道の後に説法を躊躇する釈尊に対し、まず諸天による勧請(広義の梵天勧請)があり、続いて菩薩たちによる勧請があり、最後に転法輪菩薩が現れて、過去仏たちに代々受け継がれてきた輪宝を釈尊に奉献することによって、初転法輪が現実のものとなる。 また、『大品般若経』とその註釈である『大智度論』、あるいは『阿闍世王経』や『華手経』などでも、釈尊の初転法輪と関連して転法輪菩薩に触れられている。 本稿では、大乗経典を対象とした谷川氏の研究を承けて、密教経軌において言及される転法輪菩薩を俯瞰し、尊容や曼荼羅を中心に、その展開の様子を窺ってみたい。
著者
Shogo WATANABE
出版者
CHISAN-KANGAKU-KAI
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.021-034, 2016 (Released:2019-02-22)
参考文献数
11

The Prajñāpāramitā-hrdaya[-sūtra](Heart Sūtra) was translated into Chinese and Tibetan, and it circulated mainly in the sphere of Northeast Asian Buddhism.Among the Chinese translations, that by Xuanzang 玄奘has been held in the highest regard, and almost all the commentaries on the Prajñāpāramitā-hrdaya composed in China, Korea, and Japan have been based on Xuanzangʼs translation. The extant Sanskrit manuscripts and the Tibetan translations, on the other hand, mostly belong to a different textual lineage from that of Xuanzangʼs translation. Consequently, in research on the Prajñāpāramitā-hrdaya in East Asia, the examination of the original Sanskrit text and Tibetan translations is still inadequate. There has also been much discussion about the position of the Prajñāpāramitāhrdaya, typical of which is the question of whether it is a sūtra expounding emptiness or a sūtra teaching a mantra. These questions are in fact related to the sūtraʼs title. As is well known, a famous mantra has been appended to the Prajñāpāramitā-hrdaya. Even though it does not in fact constitute a dhāranī, among the several designations of this sūtra there are some that declare it to be a dhāranī. How is one to view such inconsistencies? In this paper I shall examine the textual lineages of the Prajñāpāramitā-hrdaya and its position as seen from its title.
著者
佐久間 秀範
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.35-50, 2016

&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;「あるがままにものを見る(yathābhūtam prajānāti)」とはどういうことであろうか。日常我々は目の前にあるものをあるがままに見ていると信じている。最近は脳科学や認知科学の成果の一端をテレビ番組などで一般人にもわかりやすく解説しているので、何らかのきっかけで脳の機能のどこかに障害を持つと、それまでに見えていたものが違って見えることや、昆虫と人間とで同じ花を見ても異なって見えていることを知ることができるようになっている。また高感度カメラで、高速度で動くあるいは変容する物体を撮影し、それをスローモーションで再生したときに、人間が認知している現象世界が現実に起きていることと一致していないことを認識し、我々が事象をそのまま認知していないことに気づかされる。例えば100万分の1のスピードで記録できる高速度カメラで、水の入った風船に針を刺して割れる様子を撮影し、スローモーションで再生した場合、普段我々が認識できない割れる瞬間の様子をつぶさに見ることができ、その様子に驚くのである。最近では、これは人間の脳が暴走しないために情報を制御しているということも我々は知っている。こうした情報によって我々は普段認知している目の前の現象が「あるがままの姿」では必ずしもないと意識することができる。しかし現実世界の真っ只中で常にそのことに思い至ることは難しいのである。我々は「わかっちゃいるけどやめられない」世界に生きているのである。では「あるがままの姿」とは何であろうか、ものを「あるがままに見る」とは何であろうか、普段見ている映像はいったい何なのか、と疑問に思えてくるのではないだろうか。<br> 釈尊が「あるがままにものを見よ」と説いたのであるなら、普段の見え方が幻影であり、その幻影から目覚めたことでブッダとなったことを我々に伝えようとしていたのではないだろうか。釈尊は出家しヨーガの修行を積んだ上でブッダとなったと仏伝は伝えている。インドの宗教者の状況から考えても釈尊が修行者、つまりはヨーガ行者であったことは認められる事実である。そして「あるがままにものを見る」ことがどのようなことかを仏弟子達のヨーガ修行者達はレベルの差はあるとしても、体験として知っていたはずである。こうした事情をヨーガの修行者達の集団から生み出された瑜伽行唯識文献の中に求めて行くことにする。
著者
苫米地 誠一
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.143-180, 1998

院政期末から鎌倉期前期の興福寺僧である笠置上人解脱房貞慶は、「鎌倉旧仏教改革派」の代表的人物の一人として位置付けられ、法然房源空の専修念仏に対する批判や戒律復興運動の先駆者として取り上げられることが多く、法相宗僧として「唯識同学鈔」など法相宗関係の著作を数多く著し、その思想、信仰についても法相宗の教理的背景の下に説明される。而し貞慶は同時に真言宗僧でもあり、その信仰も真言宗の信仰に基づいていると見られる。而しその真言宗の信仰に関する側面については殆ど無視されており、現在までの貞慶の思想・信仰に関する理解は極めて偏ったものになっていると思われる。そこで今回は、その欠けた部分の一端を補う意味において、貞慶の『観音講式』を取り上げ、そこに見られる密教浄土教の信仰について些か見てみたいと思うものである。
著者
松村 力
出版者
智山勧学会
雑誌
智山学報 (ISSN:02865661)
巻号頁・発行日
vol.66, pp._47-_58, 2017 (Released:2018-10-20)
参考文献数
35

井筒俊彦(1914〜1993)は、自らを「東洋哲学に関心を持つ一言語哲学者(1)」と称し、真言密教については「要するに一個のアウトサイダーであり、よそ者である」にすぎず、「外側からその一部をのぞき見ただけ(2)」との立場を表明しているが、碩学の比較思想観点からの、真言密教解釈は、伝統教学とは異なる角度からの視座を提示している。 井筒の数多くの著作の中で、空海の思想に言及しているものに、『意識と本質(3)』、「意味分節理論と空海ー真言密教の言語哲学的可能性を探る(4)ー」(以下副題略)がある。その他に、密教のマンダラに言及しているものとして、「人間存在の現代的状況と東洋哲学(5)」、『イスラーム哲学の原像(6)』等がある。 これらの内、主題として空海の思想を取り上げているのが、「意味分節理論と空海」であり、1984年の日本密教学会大会における特別講演を論文体に書き移したものである。 この論文は、真言密教を言語哲学的に理論展開することを意図したもので、「コトバに関する真言密教の思想の中核」を、「存在はコトバである(7)」という「根源命題に還元」して論究し、この命題が真言密教において真理性を有すると結論している(8)。 この井筒の論は、真言密教における「言語」や「存在」という数学上重要な哲学的テーマに、注目すべき解釈を示したものといえる。しかしながら、その後長年を経るも、管見によれば、この井筒の真言密教解釈に対する、密教研究界からの反応としては、論文の部分的な引用乃至論評は幾つか見られるものの、井筒の輪の中心をなす「存在はコトバである」という真言密教解釈に対して、真正面から取り組んだ論考は未だ見当たらない。 そこで、筆者は、空海の思想研究に携わる者の一人として、本稿において、空海の教義の中核をなす、六大四曼三密の三大論に立脚して、井筒の解釈に検討を加え見解を示すものである。